夢の世界の入り口は指導部屋にあった
まだお昼休憩中の教室は賑やかだったけれど、大きな音をたてて席に飛び込み、肩で息をする私は目立ってしまったようだ。周りがざわついている様子を感じる。でも私は気にしない。友達は一人もいないし、私が変わり者ということは全員知っている。今さら奇行のひとつやふたつ、驚くに値しないはずだ。
(教授に会っちゃった。お話しちゃった!)
思ったよりも若い方だった。勝手に侵入した私を咎めることもなく、優しく質問に答えてくれた。さらさらの黒い髪と、優しい黒い瞳。
(しかも、素敵な方だった)
握手のひとつでもお願いすれば良かっただろうか。
(いやーーーー! 触れるなんて無理!)
また顔が熱くなる。気分の高まりに耐えられなくて、足をばたばたさせる。
(だめだわ。とても授業を受ける気分にはなれない)
体調が悪いことにして今日は家に帰ろう。勢いよく頭を上げると、机の前に人が立っていた。
「ミレット? どうかしたのか?」
「ハルガン!」
友達が一人もいない私が、教室の中で唯一話すのが幼馴染のハルガンだ。彼だけは他の人の目を気にせずに話しかけてくれる。
「制服も汚れてるし、何かあったのか?」
「制服?」
言われてみると、スカートが土まみれになっている。畑で尻もちをついてしまったことを思い出す。
「転んでしまっただけだから。えっと、私、ちょっと具合悪いから帰るね」
「え、馬に乗るつもりなのか? 危ないよ」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫!」
私は教室を飛び出した。ハルガンが追いかけて来る。一生懸命走ったけれど、校舎を出たところで捕まってしまった。
「ミレット! 駄目だ。具合が悪いのに、行かせられるわけないだろう」
私は馬で2時間近くかけて通っている。確かに具合が悪い人間のすることではない。
「えっと、えっと。やっぱり具合は良くなったから、大丈夫」
「ミレット! 何があったんだ」
「何もないよ」
「何もないわけないだろう!」
「んー!」
「ミレット、言うんだ」
ハルガンは見逃してくれる気が無いらしい。学校にまで父がいる気分だ。いや多分、うちの父よりも厳しい。私はしぶしぶ、研究院の畑での出来事を話した。誰にも言わずに独り占めしたい記憶だったのに。
授業が始まる鐘が鳴った。
「なるほどね。君が、それほど興奮している理由は分かった」
「ハルガン、教室に戻らなくていいの?」
「構わない。――帰るにしても、荷物も何も持っていないし、もう少し落ち着いてから帰らないと危ないよ」
確かに動揺している事は認める。着替えも、かばんも何もかも教室に置いてきてしまっている。制服のままで2時間近くの乗馬は疲れるし汚れるので、着替えが無いと馬に乗って帰れない。
「あ! 帳面!」
畑で記録をつけていた帳面もない。恐らく、動揺してどこかに落としてきてしまったのだろう。
「とにかく、今日は俺も帰る。先生に上手く言って教室から荷物を持ってくるから、あそこで座って待ってて」
荷物を取ってきてから、私の馬のキリーを連れて、ハルガンの屋敷に連れて行かれた。
「コレントにも学校が終わったらここに来るよう、厩舎の人に伝言をお願いした。帰りは二人まとめて送ってやるから」
「ありがとう」
断っても、叱られるだけだ。ありがたく甘えることにした。
ハルガンのライニール家は、他の人たちのように王都にも屋敷を構えている。天候が非常に荒れている時や、不測の事態で帰りが遅れるような時には、いったんライニール家のお屋敷にお邪魔して、私の家からの迎えを待ったり、送ってもらうなど、何かとお世話になっている。
「いつも、面倒かけてごめんなさい」
「面倒じゃないよ、気にするな」
私と幼馴染なばかりに、ハルガンにはとても面倒をかけている。
貴族の子女しか通わない王立学園は、1つの学年に生徒が50人ほどしかいない。初等部から高等部まで、新しく入る生徒もほとんどいないため、初めに固定された人間関係がずっと続く。
変わり者の私は、初等部に入ってすぐ華やかで身分の高い女の子にとても嫌われた。放っておいてくれれば良いものを、彼女は今に至るまで折に触れて私に構い、嫌い、排除しようとするので、周りの子も私には関わって来ない。
農学に夢中の私は、休み時間は本を読むか思索にふけりたい。だから、放っておいてもらう分には支障ない。困るのは、私だけ必要な連絡を受け取れなかったり、物を隠されるなどの意地悪を受けた時くらいだろうか。
その中で、ハルガンだけが、何かと気にかけて助けてくれる。
(教授、素敵だったな)
将来、研究院に入ることが出来たら、会える機会もあるかもしれないとは思っていた。でもまさか、あんな風に会って質問までする機会を持てるなんて想像もしなかった。
ハルガンの呆れ顔をよそに、私は教授の記憶を反芻しては、羞恥や興奮でじたばたする幸せな時間を過ごした。
◇
教師に呼び出されたのは数日後だった。呼び出し先は、指導などに使われる教室。固い態度から察するに叱責だろう。もちろん心当たりはある。
(畑に侵入していたことに違いないわ)
勉学で褒められる以外の事で、教師に呼び出されるなんて初めてのことだ。私は覚悟を決めて指定された教室に向かった。扉を軽く叩いて名乗る。
「ミレット・アーレンツです」
「どうぞ」
扉をくぐると、数個ある机のうち一番奥の席に人影があった。そこに座っているのは。
「ひいっ!」
セイボリー・ジラルス教授だった。思わず後ずさる。
「待って、逃げないで! 叱りに来たんじゃないから!」
教授はあせった様子で、椅子から立ち上がってこちらに来ようとする。心臓が早鐘をうち、顔が熱くてたまらない。まさか教授ご本人がいらっしゃるとは思わなかった。
教授は自分が近寄ると私が後ずさることに気づいたのか、ゆっくりと元の席に戻ると、私に一番入り口に近い席を示した。
「とりあえず、入って座ってくれるかな」
「は、はい」
すくむ足を叱咤して、示された席に腰かけた。手が震える。
「改めまして、研究院で農学の教授をしているセイボリー・ジラルスです」
教授が挨拶をしてくれた。私は挨拶しようと慌てて立ち上がり、椅子をひっくり返してしまった。慌てて椅子を戻そうとするけれど、手が震えてうまく行かない。先生が立ち上がりかけるのを見て、また逃げ出したくなる。
「落ち着いて。立たなくていいから、座って。どうしよう、私がそんなに怖いかな」
腰を浮かせたまま、先生が困った顔で椅子を指している。先生を困らせてしまっている申し訳なさで頭が一杯になり何も考えられない。
「息を吸ってみて。うん、そうそう。もう一度大きく吸って」
何度も深呼吸をして動けるようになったところで、椅子を元に戻して腰かけた。叱られるにしても、ちゃんと話を聞かないといけない。
「ちゅ、中等部の3年生の、ミ、ミレット・アーレンツです。先日は、し、失礼いたしました」
声が震えてしまった。教授の手には私の帳面がある。
(あれに名前が書いてあったかもしれない)
だからきっと、身元がばれてしまった。こういう素行の悪い生徒は、研究院には入れてもらえないかもしれない。憧れの教授が目の前にいる嬉しさが、研究員への道が閉ざされた悲しさに負けてしまう。
暗い気持ちになった事で、心拍数は正常にもどり、手足の震えも止まった。頭も冷静さを取り戻した。
「まず、これを返すね」
教授が帳面を返してくれた。お礼を言いかけて、紙が挟んであることに気づいた。
「これは⋯⋯私が学ぶべき分野ですね!」
逃げ出す直前に質問した、論文を理解するために必要な知識を得るための学習分野について書かれている書付だった。
「ありがとうございます」
具体的な事を色々と書いて頂いている。とても嬉しい。熱心に読み込む私に、教授が尋ねる。
「君は、農学に興味があるのかな」
「はい、将来は研究員になりたいと思っていま⋯⋯した」
「今は違うの?」
「――勝手に侵入するような事を仕出かしてしまったので、もう無理かな、と思いまして」
また悲しくなって来た。しょんぼりする私を見て、教授は笑った。
「私は君の熱心さに心を打たれたよ。確かに褒められた行動ではないけれど」
「⋯⋯はい、申し訳ありません」
「今日は、帳面を返しに来ただけではないんだ」
教授は机の上で両手を組んだ。
「来年から研究院の授業の一部を受けてみる気はある?」
「研究院の授業ですか?」
噂では聞いたことがある。本来は在学中に、一定の価値が認められる論文を書くことで、高等部卒業後に研究院に進学できる。それを前倒しして、高等部在学中に研究院の一部の科目を受講する制度があるらしい。ただし、その詳細は公開されていない。
「そうだよ。かなり厳しい条件があるけれど、驚くべきことに、君はそれを満たしている」
「私が?」
「名前を聞く前に逃げてしまったから、勝手に調べさせてもらったよ」
中等部に『農学に興味がある、ふわふわの頭の女の子』と問い合わせたら、すぐに私の名前が出て来たそうだ。
「成績は、初等部からずっと一番なんだね」
芸術が得意ではなく、運動は人並み。それ以外はずっと一番を譲ったことがない。
「あとは、中等部に在籍中に、研究院でどういう事を学びたいかという簡単な文章を提出してくれればいい」
「それだけ、ですか?」
教授はおかしそうに笑った。
「それだけって簡単に言うけど、普通は学業の基準を満たすのが難しいんだよ。それを、君は圧倒的な水準で満たしてしまっているんだ。本当に驚いた。論文についての君の質問は、とても中等部の生徒とは思えないような内容だったしね」
憧れの教授に褒めてもらえて、天にも昇る気持ちだ。
「農学が好きなんだね」
「はい、とても!」
これだけは、胸を張って言えることだ。教授は優しい瞳を細めて、笑ってくれた。
そして、畑と教授の研究室に入る許可をくれた。中等部にいる間も、論文についてや学んでいて分からない事を聞きに行って良いそうだ。
研究員への道が閉ざされたかと思ったら逆だった。入り口に手をかけることが出来たのだ。私は幸せでたまらなかった。
◇
無事に中等部を卒業し、高等部への入学と共に、研究院で一部の授業を受けることが出来るようになった。研究院の畑の観察も、お昼休みだけでなく、朝と帰りにも行っている。教授の部屋にもたまにお邪魔して、質問をさせて頂いている。
そんな1年を過ごした後での、家の没落だった。
ぼんやりと思い返しているうちに、かなり時間が経っていたようだ。太陽がもう天高い位置に移動している。
「ミレット!」
父が私を呼んでいる。先生とのお話が終わったのだろう。私は二人のもとに駆け寄った。
「先生とよくお話をさせてもらったんだけど、お前が望むなら、先生の家にお世話になるといい」
「え! 本当に?」
望まないわけがない。先生の家には広い畑があると聞いている。そこでは、学問よりは趣味に近い変わった作物も植えているそうだ。
先生の目も、父の目も、私が決めていいと言っている。
「お世話になりたいです。よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ、息子の勉強をよろしく頼みます」
領地に帰りたい時のために、馬のキリーも一緒にお世話になることに決まった。先生は固辞したけれど、父が下宿料を支払う事も決めてくれた。これには本当に安心した。
「先生の教えを受けて、しっかり勉強して、夢をつかみなさい」
父の言葉にしっかりとうなずいた。
私もこれでやっと、心から家の没落を喜べる。
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