side M age:11

初聖水拝領から2年経ち、11歳になった私は頻繁に寝込むようになった。常に息は苦しく倦怠感があり、起き上がれず寝込む日も珍しくない。12歳になる来年から貴族学園に入学するのだが、こんな調子で学園に通えるのだろうかと不安は尽きない。


私には身の回りの世話をしてくれる侍女がおらず、つまり、看病をしてくれる人もいなかった。王城に住んでいたとしても私は王族ではないため、侍女や従者は実家が手配しないといけないが、もちろん実家から侍女の派遣などない。衣類や寝具の洗濯・部屋の掃除・食事の配給などは王城のメイドがしてくれるが、彼女達は基本的に姿を見せないし、王子妃教育の時間割等を管理している王城の女官は日常の世話まではしてくれない。


そんなある日、お母様の姉であるヒルッカ伯母様が王城まで会いに来てくれた。7歳で王城に住みだしてから4年で初めての来客に心が踊る。


ヒルッカ伯母様は次期外務大臣と言われているアロマー侯爵と結婚し、私が5歳の頃から6年間、大使として遠い外国に派遣されていたそうだ。ヒルッカ伯母様はお母様達のお葬式に不在だったことを謝罪してくれ、侍女を派遣してくれること、アハト殿下との婚約を解消された場合は私をアロマー侯爵家に引き取るつもりだということ、「だから安心してしっかりご飯を食べて寝て元気になってね」と言ってくれた。


伯父様とリューリ様とは王城に来てから面会どころか手紙ひとつない没交渉となり、アハト殿下とは距離を縮められず、陛下や王妃様とは滅多にお会いすることがない。私に与えられたこの部屋のドアを一歩出れば、官僚や騎士・貴族・使用人など沢山の人で溢れているというのに、私のことを気に掛けてくれる人は1人もいなかった。お父様達が冷たくなって帰って来たあの日から、埋めようのない寂しさに苛まれ、大好きな家族との思い出だけを心の支えに過ごしていた。婚約を解消されて王城を追い出された後はどうしたらよいのかと、不安で眠れない夜もあった。


そんな不安を解消してくれたヒルッカ伯母様。私は厳しい王子妃教育で身につけた作法も忘れ、記憶の中のお母様にそっくりな伯母様に抱きつき、声を上げて思い切り泣いた。


暖かくて柔らかくてふんわりと甘い心地よい香り、抱きしめながら頭を撫でてくれる手の動き、怖い本を読んだからとお母様の部屋に行って抱き付いて寝た夜と同じ……。


ヒルッカ伯母様はドレスが私の涙や鼻水で濡れてしまったのに笑って許してくれて、タイナとカリーナという母娘の侍女を手配し、そして、また違う国へ大使として行ってしまった。ヒルッカ伯母様とは会えなくなってしまったけれど、ふくよかな身体が柔らかくて暖かいタイナと、その娘でいつも明るいカリーナは、私の暗い日常を鮮やかに彩ってくれる。暖かくて明るかったかつての乳母のような2人に私はすぐに打ち解けた。


そして、侍女が付いたことで知らん顔ができなくなったのか、以前殿下が手配してくれた王族専用医師ヴァロ・ヴァルト氏が定期的に診察をしてくれるようになった。指紋だらけの曇った丸メガネ、シワだらけの白衣、櫛を通してなさそうなぼさぼさの黒髪。マナーやドレスコードの厳しい王城でこの装いを許されるほどには優秀、もしくは権力があるということがわかる彼は、身なりを気にしないせいか実年齢が分かりづらい。元は王妃様の実家の専属医で王妃様の輿入れに伴い王城専門医になったと聞くので、王妃様よりは年上だろう。


そんなヴァルト氏による診断結果は、相変わらず「気持ちの問題」だった。心の弱い私の仮病だと言われ、正式な病名は付かず”気鬱”と言われ、薬は出ない。


ヒルッカ伯母様、タイナ、カリーナという味方ができたことで将来への不安や寂しさも解消されても、私の体調は良くならなかったというのに、どんな気持ちがこの体調不良の原因となっているのかとヴァルト氏に問いても彼は答えてくれなかった。


もしかして毒を盛られているのではとも疑ったが、私に毒を盛って利益を得る人が思い付かず、容疑者を予想することができなかった。

王家は私が邪魔になったら婚約を解消するだけでよいし、実家のクレメラ家はすでにリューリ様が嫡子として認められている上に私が持つ財産などほんの僅かしかない。アハト殿下の婚約者になりたい貴族家の犯行も考えたが、婚約が暫定だと知れ渡っている上に、アハト殿下と親しく無く、魔力量の少ない私を、リスクを冒してまで殺す人はいないだろう。


王家も実家も周囲の貴族も、皆、私のことなど歯牙にもかけていない。


この身体の不調に病名が付かず「心の問題」と言われ続けたせいで、私は自分は正常な精神だと思い込んでいるだけで本当は狂っているのかもしれないと、自分のことを疑うこともあった。


2日寝込んだ翌朝の今日は、久しぶりに息苦しさもなく体が軽い。朝食の後、寝込んでいたために開封できていなかったヒルッカ伯母様からの手紙を読む。


ヒルッカ伯母様たちアロマー侯爵家が今滞在している国では今年が初聖水拝領の年らしく、ヒルッカ伯母様の娘で私の従姉妹のマリカが初聖水拝領だったようだ。私の3歳年下のマリカはヒルッカ伯母様を困らせるほどのお転婆で、初聖水拝領では白いドレスを転んで汚し、念の為用意していた予備のドレスまで転んで汚し、泥のついたドレスで初聖水拝領を行なったらしい。会ったこともない従姉妹の元気な様子を想像し自然と笑みが溢れる。


「タイナ、今日は調子が良いから起きようと思うの」

「少し失礼しますね」


そう言い、タイナはフカフカで温かい手で私の頬を優しく包み込み、顔色や体温を確認してくれた。タイナからふわっと香った石鹸の香りが心地よい。


「うーん、私としては少し心配な顔色をしてらっしゃるんですがご自身の気持も大切ですね。ただし、具合が悪くなったらすぐにおっしゃってください」


”気鬱”と言われ、教師や女官などからはまるで怠けているかのように扱われている私だが、タイナとカリーナだけは不調を案じて本気で心配し看病してくれる。2人がいてくれて本当に良かった。


「わかったわ。今日は歴史と古典の授業だったわね」


暫定の婚約者でも義務として受けていた王子妃教育。先月、ダンスの授業中に倒れてからは、ダンス・マナー・ピアノ・魔法などの体を動かす授業が無くなり座学の授業のみとなった。正確に言うならば、私がダンスの授業中に倒れたのと同時期に次の婚約者候補の令嬢が本格的に王子妃教育を受け始め、私の授業はおざなりとなった。


次の婚約者候補の令嬢の名はリューリ・クレメラ。そう、私の従姉妹のリューリ様だ。決め手はあの規格外の魔力量。クレメラ侯爵になった当初は出自と魔力量のせいで軽視されていた伯父様は、リューリ様の魔力量のおかげで軽んじられることがなくなったのだと、社交界の評判をカリーナが教えてくれた。


1歳上で学園に通っているリューリ様は、学園の授業が終わった放課後、ほぼ毎日王城へ通って来ているらしい。『らしい』というのは、私の授業とは別なので関わることがないからだ。


久しぶりに受けた古典の授業の帰りすがら、私はいつもアハト殿下とお茶会をしていた中庭の四阿が見える廻廊を歩いていた。1ヶ月前、体調不良で起き上がれず、婚約してから初めて殿下とのお茶会を休んだ。そのたった1回の不参加で、婚約してから4年間ほぼ毎日続いていた義務のお茶会は呆気なく無くなってしまった。


ふと足を止め、午前中に降った雨のおかげで、花びらに残った雨露が美しい赤いシクラメンを眺める。どんな香りだろうと顔を近づけても雨が降ったあと特有の心地よい土の匂いしかしない。


シクラメンって香りはないのね。


そんな、雨上がりの庭園を1人で楽しんでいる私の耳に、不意にアハト殿下の声が聞こえてきた。


「まだ婚約者なのだからお見舞いに行くべきなのでは、と迷っているんだ……」


気づかれないようにそっと四阿を見ると、アハト殿下がお茶会の時にいつも座っている席に座っていた。1ヶ月ぶりのアハト殿下。私の胸は勝手に高鳴り、頰は熱くなる。

そして、1ヶ月前まで私が座っていたアハト殿下の対面の席には、このシクラメンのように赤い髪をしたリューリ様が座っていた。


婚約者としてのお茶会は、無くなったのではなく、相手がリューリ様に代わっていただけだったのか。


「昔から妹は周囲の関心や同情を引くために病気を装う事があったんです。矯正が出来ていないまま王城へ遣ってしまい申し訳ございません。アハト様がお見舞いに行ったら益々増長してしまうので行かないでほしいです」


と困ったような笑顔で答えているリューリ様。



王城へ来る前、クレメラ家でリューリ様と一緒に住んでいた1年間、リューリ様の前で具合が悪くなったことなど一度もないし、私が咳き込むようになった時にはすでにリューリ様とは没交渉になっていたではないか。

お父様達が亡くなった後のクレメラ家で私と関わってくれる人は乳母しかいなかった。私が具合が悪いと言ったとしても乳母の同情しか引けなかったと、私の侍女と護衛を取り上げたリューリ様が一番知っているはずなのに。

何よりも、私に”お姉様”と呼ばせなかったリューリ様が、アハト殿下に私のことを”妹”と嘯いていることが気に入らない。


「王宮医師から彼女は病ではなく、仮病だと言われてるんだ。でも、いつ見ても顔色が悪くて、必死に咳を我慢している息遣いが本当に辛そうで……精神的な思い込みだとしても辛いことには変わらないのかもしれない」


アハト殿下が私の顔色を気にしてくれていた、辛そうだと言ってくれた、湧き出てくる歓喜で胸がいっぱいになる。リューリ様の言うように、アハト殿下の気を引くために病気のふりをしてしまいたくなるほど、それは私にとって甘美なものだった。


でも……


アハト殿下は私を気にしている風に装っているだけで、今まで通り私を無視しても良いのだという言葉をリューリ様から引き出して罪悪感を軽くしたいだけなのではないのか。


心ではアハト殿下が私を気に掛けてくれた事を喜んでいるのに、頭では期待しても傷つくだけだからと先に後ろ向きに考えて勝手に失望してしまう。その乖離がこの弱い身体には耐えられない。今朝は珍しく調子が良かったというのに、急に体が重く感じる。


「私と父の愛情が足りなかったのが悪いのです。もっと今以上に妹との時間を取ろうと父と相談いたします。妹のことは私にまかせて、アハト様は気にしないでください。……もう!アハト様は優しすぎますよ!」


魔力量が少なく、満足にダンスも踊れないほど体が弱い私は、都合が良いから、一時的に、アハト殿下の婚約者の地位に収まっているだけ。通常なら婚約者になることなど叶わないとわかっている。それでも、婚約を解消された後に婚約するリューリ様への嫉妬がどうしても抑えられなかった。昨日までは「リューリ様は何も悪く無いのに」と後ろめたく思っていたのだが、息を吐くように嘘を付く強かな彼女に、そんな必要はないのだと悟る。これからは罪悪感なくリューリ様を嫌うことができるだろう。


「そんなことより!明日学園の授業でアハト様にダンスのパートナーになってもらえるのが楽しみで、今日はなかなか寝れない気がします」

「私も楽しみにしてるよ。でも、寝不足で踊るのは危ないからちゃんと寝て欲しいな」


立ち去る直前、最後に聞こえた2人の会話。


そうか、同い年の2人は学園でも一緒に過ごしているのか。いいな。私もアハト殿下とダンスを踊りたいな。


身体が重くて簡単なステップも踏めず、動くほどに息苦しくなり1曲続けて踊り通したことがない私が、アハト殿下と踊ることができるだろうか。努力や根性では補う事が出来ない、自分の弱い身体が心底恨めしい。


小さな歓喜と失望と羨望と大きな嫉妬とでぐちゃぐちゃになりながら、私はその場を立ち去った。

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