15 襲来ー2
裏庭全体の地面から、ぞわりとするような気配が立ち上る。
一旦赤い海の中に消えていた影が、再び染み出すように現れる。
それがゆっくりと盛り上がり、確かな
ぬぼっと空に頭を突き出したのは、基本的には山椒魚だった。
ただし、全長はおよそ三丈(約十メートル)はあり、皮膚の色は緑色で、ぬめぬめと光る粘液に覆われている。
最大の問題は、丸く巨大な頭が三つもあることだった。
つまり、どこからどう見ても、ただの山椒魚ではなく。
「
音程を外した悲鳴が轟く。
周囲に立ち尽くしたまま、魂が抜けたような顔で一部始終を見守っていた人間たちが身を翻し、我先にと逃げ出した。
「おのれ!」
八手一族の
「待て、不用意な行動は!」
三つの頭がぐりんと大きく動き、空へ跳んだ戎士たちに向いた。
途端に、のっぺりした顔が二つに裂けるような勢いで、口が開いた。
その中から太く長い舌が飛び出し、流石に空中では体勢を変えようがない真那世たちの胴体に巻き付く。そのまま、伸び切ったバネが縮むように収斂していく。
「ひっ!」
「こ、この!」
上がる狼狽に、舌打ちを洩らした
反射的に、三朗も
蒼銀、白金、漆黒と、それぞれ異なる燐光を纏う三本の刃が同時に空を凪ぎ、三つの口が新たな犠牲者を丸のみにする寸前に、その舌を断ち切った。
煽りを食らって、山椒魚が後ろへ数歩後退する。
落下し、地面に転がった戎士たちの元へは辰蔵が駆けつけた。
絡みついたままの舌を引き剥がし、仲間を解放する。
その間に、三朗は抜き身の神剣を提げたまま、宿屋の屋根に着地した。
同様に、二緒子は裏庭の端に、一也は厩舎の戸口前に。
緩慢な動きで体勢を立て直した山椒魚が、ぬぼっとした視線を巡らせて、その姿を順に追った。
だが、その丸く赤い眼には、何の感情も浮かんではいなかった。
一昨日のヒグマもどきの、自分への加害を正確に認識し、明確な怒りを露わにしていた様子とは全く違う。舌を切られ、捕食を妨害されたことを、全く気にする素振りがない。
それでも、山椒魚は動き出した。
三つの頭が同一方向へ巡って、厩舎の戸口付近に着地していた一也を見据え、短い四肢を動かして突進を開始する。
「あいつ!」
「兄様を狙ってる?」
ハッと息を詰めた三朗と二緒子は、同時に左右へ跳んだ。
二緒子の神剣から一陣の水流が放たれる。ぬぼぬぼと前進する山椒魚の胴体に巻き付き、足止めを掛ける。
そこへ、三朗が飛燕のように打ち掛かった。三つの頭の内の一つに、上段から神剣を叩きつける。
だが。
「えっ⁉」
ぼよん、という妙な手ごたえと共に、神剣が跳ね返された。
一方の山椒魚の頭には、傷一つついていない。
「何だ、これ。まるで蒟蒻みたいだ!」
左右から別の頭が迫ってきて、三朗は慌てて飛び離れた。
大山椒魚の身体はぬめぬめとした粘膜に覆われている上に非常な弾性があり、三朗の斬撃は効かなかった。
おまけに、力も相当だった。三つの頭を振り回し、四つの脚を踏み鳴らして、胴体に巻き付いていた二緒子の水流を振り払う。
「きゃっ!」
「姉上!」
水流の手綱を握ったままだった二緒子が、煽りを受けて虚空へと跳ね飛ばされる。
三朗は宿屋の屋根の上を走って、放物線を描いて落下して来た二緒子に飛びついた。飛ばされた勢いが強すぎて一緒に屋根の上を転がることになったが、何とか致命傷の回避には成功する。
その間に、大山椒魚の方は再度の突進を開始していた。
二緒子が三朗に庇われたのを見届けた一也が、厩舎の屋根に跳ぶ。
直後、全く速度を緩めなかった大山椒魚が厩舎の戸口に激突し、壁から柱からを一気にへし折った。
「ひえっ、ひっ、いいいいっ‼」
取り残されたままだった『美波屋』の主人が、ひっくり返った悲鳴を上げる。
その腕を掴んだ一也が、再び空へ跳ぶ。
崩壊する厩舎の瓦礫を蹴って巧みに方向を修正しながら、庭の建物側に退避していた黒衆や八手一族の戎士たちの近くに着地する。
ようやく地面に下ろされた『美波屋』の主人が、感謝の言葉もなく逃げ出した。
一目散に勝手口から宿の中へ飛び込み、そのまま、他の人間たちを追って往来の方へ逃げていく。
「桧山組長‼」
それと入れ違うように、外回りの哨戒に出ていた
「な、何事ですか!」
「何です⁉ あの妖種は⁉」
新手の登場にも、厩舎を半壊にした大山椒魚は動じなかった。
緩慢な動作で三つの頭を振り、ひっかぶった埃や木くず、柱などを振り払うと、再びゆっくりと頭を巡らせる。
その視線の先には、やはり、一也の姿があった。
「目的は私か」
一也が、声を放った。
「ならば、姿を見せろ、術者殿。私を襲う理由があるなら、せめて口上ぐらいは述べられたらどうだ」
「――何を言っている?」
若党たちに助けられて、ようやく植え込みから這い出してきた戸渡左門が胡乱気な表情で問いかけた。
「お分かりになりませんか」
そちらを見ようとはせず、一也は答えた。
「実体化しているのに、妖気の気配が薄い。何より、
三朗も、ハッと顔を巡らせた。
先ほどの戎士の喰われ方に度肝を抜かれて気付かなかったが、言われてみればその通りだった。
妖珠の気配そのものは在る。うっすらと、山椒魚の周囲を取り巻いている。
だが、昨日のヒグマもどきには明確に存在した光が――本来心臓に相当する箇所に凝る筈の妖珠の輝きが感じられない。どこにも。
「ということは、あの妖種は『
「『使』だと?」
確かめるように呟いた三朗の声に、戸渡左門と桧山辰蔵が目を剥いた。
「莫迦な‼」
「そんなことがある訳なかろう‼」
「ならば、これをどう説明される?」
呻いた桧山辰蔵と吼えた戸渡左門に、一也は軽く首を振って見せる。
「生きて活動している妖種。にもかかわらず、妖珠の光が体内に無い。そのような存在が、他にあると思われますか?」
そう言う一也自身を、三朗は思わず見つめてしまった。
「し、しかし」
信じられないと言うように、戸渡左門が喚いた。
「こんな『使』を持っている黒衆は居ない筈だぞ!」
「そもそも黒衆のどなたかであれば、戸渡様の馬を喰わせる理由もないでしょう」
一也の返答は澱みがない。
「それでも、これが『使』であることは間違いない。だとすれば、ここには、黒衆ではない
「まさか。
戸渡左門が呻いた。
「ご名答」
蒼空の下に、きゃらんとした声が響いた。
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