第三章 風の崩壊
18 異変
宿場町の朝は早い。
客の大半は明け六つ(午前六時ごろ)には今日の目的地を目指して出立するので、どこの旅籠屋でもその二刻前には表の大戸を開け、台所では、希望者の為に粥と味噌汁の朝食が用意される。
その音を聞きながら、三朗たち
「ここから
身繕いを済ませてしまうと、後は、今回の『役』の上司である
「俺たちだけで走れたら、一刻(二時間)もあれば着けるのになあ」
「荷車と牛が一緒だものね」
「今日中に
三朗が努めて明るく言い、
ふと、
「どうかしましたか?」
問いかけて、三朗も気付いた。
どこかで大きな叫び声が上がった。
複数の人間が走って行く足音に、何やら騒ぎ始めた気配が重なる。やがて、その気配がどやどやと『
「――姉上、聞こえた?」
「馬と牛が消えた、と聞こえたわ」
三朗の問いに二緒子が不安げに応じ、一也も頷いた。
「そう言っていたな。ここの厩舎に入れていた黒衆の馬と荷車用の牛たち。それが消えている、と」
「盗まれた、ということでしょうか?」
「いや」
黒衆の牛馬を盗むような度胸のある盗人が居るのか? と首を傾げた三朗に、一也が首を振る。
「厩舎の床が血の海だ、と言っていた。ただ、その夥しい血痕以外は、骨の一本、肉片の一つもなかった、と」
「血の海……」
二緒子が顔を歪める。馬たちの運命に想いを馳せたからだろう。
「姉上、気付かなかった?」
「気付かなかったわ……」
姉がふるりと首を振る。
「昨夜は兄様の様子に気を取られていたし、まさかこんな町中で危険なこともないだろうと思って、『霊聴』も『霊視』も切ってあったから」
大抵の人の
そういう者たちが、学習や修行によって霊能の技を会得すると、術者と呼ばれるようになる訳である。
そして、
二緒子は、水守家の兄弟の中で、その霊力が一番強かった。
彼女の霊珠が、生まれつき神珠よりも大きく、桁外れに強かった為だ。
ただ、それがまず二緒子にもたらしたのは、害悪だった。
強すぎる霊力は、それだけで感覚の力を底上げする。
だから、二緒子は赤ん坊の頃から、意図しなくても、人に狩られた兎や狐の珠が砕ける瞬間に上げる絶望の悲鳴を『聴いた』り、野盗に襲われたり事故に遭ったりして理不尽な死を強いられた人の霊珠が放つ、怒りや無念、憎しみや怨みといった負の想念などを『視て』しまったりしていた。
その度に、幼い少女は悲鳴を上げ、慟哭し、高熱を発しては、夜通しうなされた。一時は、そういったものに触れることを恐れるあまり、家の外に出ることすら嫌がるほどだった。
だからこそ、二緒子は人のそういった負の感情を何より苦手とし、そこから生じる喧嘩や暴力といった行為にも強い嫌悪感と恐怖感を示すようになっていったのだが――ともあれ、このままでは幼い娘の心が保たないと、母と祖父は、早い段階から、二緒子に強すぎる霊力を制御する術を学ばせていた。
その甲斐あって、今の二緒子は、段階的に感覚を広げたり閉じたりして、必要に応じてそれらの感度を使い分けられるようになっている。
昨夜はそれを切ってあった訳だから、もしかしたら馬や牛たちが上げたかもしれない今際の際の悲鳴――
三朗は牛馬の運命そのものより、その原因に思惟を巡らせた。
泥棒なら血痕などが残る筈はないし、熊や山犬の類に襲われたものであるなら、喰われたとしてもせいぜい一頭だろうし、何より大騒ぎが起こる筈だ。
それが、人間は勿論、自分たち真那世ですら誰も何も気づかない内に、三頭もの馬や牛が血痕だけを残して一度に消えるということは、通常ではあり得ない。
「通常ではないことが起こった、ということは……」
三朗は二緒子と顔を見合わせた。
ややあって、二緒子が小さな溜息と共に、肩を落とした
「今日中に安良川を越えるのは、無理になりそうね」
***
遠距離を移動する場合、真那世なら自分の脚で走った方が速いが、人間は、武士や貴族は言うに及ばず、農民や商人でも富裕層の男は基本的に馬に騎乗し、奥方や子供などは牛に曳かせる車を使用する。
他にも荷駄の輸送などに牛馬は付き物であるから、客層の身分が高い旅籠屋は、敷地内にきちんとした厩舎を備えている。
『美波屋』の厩舎も、表の街道に面した門から玄関横の小路を建物に沿って奥へ進んだ奥の庭にあった。脇本陣の格式に相応しい大きなもので、専用の世話係まで置いてある。
三朗が戸口から覗き込んでみれば、内部は確かに血の海だった。
飼葉や馬糞の匂いに混じって、むっとするような血臭が大気に蒸れている。あまりの悪臭に、一度は中に入った黒衆の三人も、すぐ出てきてしまったほどだった。
「昨日は確かに厳重に戸締りをし、世話係の二人が表で不寝番をしておりました」
「うむ」
決して宿の手落ちではないと蒼ざめている『美波屋』の主人に、手巾で鼻と口を覆っていた戸渡左門が、仏頂面で頷いた。
「妖種だな。あの血の量といい、残念だが、馬も牛も全て喰われたものと見て、間違いあるまい」
「よ、妖種。つまり、昨夜、化け物がこの厩舎に入り込んでいたということですか? しかし、世話係たちは、物音一つ、嘶き一つ聞いてはいないと申しておりますが」
「そういう不思議をやってのけるのが、化け物というものだ」
「もしや、その化け物はまだこの辺りに居るのですか? な、ならば、どうぞ早う退治して下さりませ」
主人が飛び上がり、遠巻きに様子を伺っていた宿の者たちの間からも、ぱらぱらと悲鳴が上がる。
「いや、この辺りにはもう居らぬようだ」
青白い顔をしている若党二人を従えたまま、戸渡左門は気のない顔で首を振った。
「もし妖種が潜んでおれば、その存在の核である妖珠が発する強烈な気配がする。お前たちのような只人にはわからんだろうが、修行を積んだ術者であれば、その気配はすぐわかる。故に、今ここに妖種は居らん」
「――決めつけるのは早計かと思いますが」
戸渡左門の断言に、
「妖種が
妖種は非物質の存在であるが、一度顕現してしまえば、その
だが、妖種の中には、稀に、状況や必要に応じて固定を解き、周囲の物質に紛れてしまう能力を持つものがいる。これを、陰態という。
こうなると、人間は勿論、術者や真那世の目にすら姿が見えなくなり、妖気も隠匿されて気配が感じられなくなる。
「誰がお前の意見を聞いた」
だが、戸渡左門は不機嫌そうに視線を巡らせただけだった。
「全くだ。差し出口を叩くな。陰態できる妖種など、そうは居ない」
桧山辰蔵も嘲るように言ったが、一也は退かなかった。
「確かに、実体と陰態を自在に使い分ける妖種は少数です。しかし、居ない訳ではありません。可能性がある以上、留意は必要――」
言いかけた、まさにその時だった。
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