第三章 風の崩壊

13 異変

 宿場町の朝は早い。


 客の大半は明け六つ(午前六時ごろ)には今日の目的地を目指して出立するので、どこの旅籠屋でもその二刻前には表の大戸を開け、玄関を掃き清め、湯殿に朝湯用に湯を張り、台所では朝食が用意される。


 その台所は、大抵、玄関の脇にある。

 故に、一階の奥の座敷には、女中たちが忙しなく歩き回る気配に混じって、飯が炊ける音、味噌汁の匂いなどが漂ってくる。


 それは兵糧丸だけの朝食の侘しさを更に際立たせたが、三朗はもう文句も愚痴も言わず、黙って自分の分の食事を済ませた。


「ここから真垣まがきまで、まだ十五里(約六〇キロメートル)はあるんだよね」


 身繕いを済ませてしまうと、後は戸渡とわたり左門さもんから出立の声が掛かるのを待つだけだった。


「俺たちだけで走れたら、一刻(二時間)もあれば着けるのになあ」

「荷車と牛が一緒だものね」

「昨日みたいな調子じゃ、今日中に安良あら川を越えられるかどうか、って感じ?」

「うーん、ここからは平地だから、山道を抜けなきゃいけなかった昨日よりは早く進めると思うけど」

「じゃあ、今日中に安良川を越えられたら、明日の夕方には真垣に着けるね。四輝しきが起きている内に帰れるといいな」


 三朗が努めて明るく言い、二緒子におこも同じ表情で頷いた時だった。


 ふと、一也いちやが顔を上げた。


「どうかしましたか?」


 問いかけて、三朗も気付いた。


 どこかで大きな叫び声が上がった。

 複数の人間が走って行く足音に、何やら騒ぎ始めた気配が重なる。やがて、その気配がどやどやと『美波みなみ屋』の中に入ってくると、幾つかの足音が慌ただし気に二階へと上がって行った。


「姉上、聞こえた?」

「馬と牛が消えた、と聞こえたわ」


 三朗の問いに二緒子が不安げに応じ、一也も頷いた。


「そう言っていたな。ここの厩舎に入れていた黒衆の馬と荷車用の牛たち。それが消えている、と」

「盗まれた、ということでしょうか?」

「いや」


 黒衆の牛馬を盗むような度胸のある盗人が居るのか? と首を傾げた三朗に、一也が首を振る。


「厩舎の床が血の海だ、と言っていた。ただ、その夥しい血痕以外は、骨の一本、肉片の一つもなかった、と」

「血の海……」


 二緒子が顔を歪める。馬たちの運命に想いを馳せたからだろう。


「姉上、気付かなかった?」

「気付かなかったわ……」


 姉がふるりと首を振る。


「昨夜は兄様の様子に気を取られていたし、まさかこんな町中で危険なこともないだろうと思って、『霊聴』も『霊視』も切ってあったから」


 真那世まなせは、神珠しんじゅ霊珠れいじゅの両方を持っている。


 よって、その大きさ、強さ次第では、神の力だけではなく、人の力――霊力をも使うことが出来た。


 霊力は、『想い』の力とも呼ばれる。


 大抵の人の霊珠は、精神の核として心身の均整を保つだけで手一杯だが、中には、その上で、非物理の『力』の顕現を可能にする余力を持つ者がいる。

 そういう者たちが、学習や修行によって霊能の技を会得すると、術者と呼ばれるようになる訳である。


 二緒子は、水守みずもり家の兄弟の中で、その霊力が一番強かった。

 彼女の霊珠が、生まれつき神珠よりも大きく、桁外れに強かった為だ。


 ただ、それがまず二緒子にもたらしたのは、害悪だった。


 強い霊力は感覚の力を底上げするので、二緒子は赤ん坊の頃から、人に狩られた兎や狐の珠が砕ける瞬間に上げる絶望の悲鳴を『聴いた』り、野盗に襲われたり事故に遭ったりして理不尽な死を強いられた人の霊珠が放つ、怒りや無念、憎しみや怨みといった負の想念などを『視て』しまったりしていたのだ。

 その度に、幼い少女は悲鳴を上げ、慟哭し、高熱を発しては夜通しうなされた。一時は、そういったものに接することを恐れるあまり、家の外に出ることすら嫌がっていた。


 だから、二緒子は、怒りや憎しみといった負の感情を何より苦手とし、そこから生じる喧嘩や暴力といった行為にも強い嫌悪感と恐怖感を示すようになったのだが。


 ともあれ、このままでは二緒子自身の心が保たないと、母と祖父は、早い段階から、二緒子に強すぎる霊力を制御する術を学ばせていた。


 その甲斐あって、今は、段階的に感覚を広げたり閉じたりして、必要に応じてそれらの感度を使い分けられるようになっている。


 昨夜はそれを切ってあった訳だから、もしかしたら馬や牛たちが上げたかもしれない今際の際の悲鳴――たましいが上げる慟哭を聴き取ったりはしていなかった。


 三朗は牛馬の運命そのものより、その原因に思惟を巡らせた。


 泥棒なら血痕などが残る筈はないし、熊や山犬の類に襲われたものであるなら、喰われたとしてもせいぜい一頭だろうし、何より大騒ぎが起こる筈だ。

 それが、人間は勿論、自分たち真那世まなせですら誰も何も気づかない内に、三頭もの馬や牛が血痕だけを残して一度に消えるということは、通常ではあり得ない。


「通常ではないことが起こった、ということは……」


 三朗は二緒子と顔を見合わせた。

 ややあって、二緒子が小さな溜息と共に、肩を落とした


「今日中に安良川を越えるのは、無理になりそうね」


 ***


 遠距離を移動する場合、真那世なら自分の脚で走った方が速いが、人間は、武士や貴族は言うに及ばず、農民や商人でも富裕層の男は基本的に馬に騎乗し、奥方や子供などは牛に曳かせる車を使用する。


 他にも荷駄の輸送などに牛馬は付き物であるから、客層の身分が高い旅籠屋は、敷地内にきちんとした厩舎を備えている。


美波みなみ屋』の厩舎も、表の街道に面した門から玄関横の小路を建物に沿って奥へ進んだ奥の庭にあった。

 脇本陣の格式に相応しい大きなもので、専用の世話係まで置いてある。


 三朗が戸口から覗き込んでみれば、内部は確かに血の海だった。

 飼葉や馬糞の匂いに混じって、むっとするような血臭が大気に蒸れている。あまりの悪臭に、一度は中に入った黒衆の三人も、すぐ出てきてしまったほどだった。


「昨日は確かに厳重に戸締りをし、世話係の二人が表で不寝番をしておりました」

「うむ」


 決して宿の手落ちではないと蒼ざめている『美波屋』の主人に、手巾で鼻と口を覆っていた戸渡左門が、仏頂面で頷いた。


「妖種だな。僅かだが、確かに妖気の残滓を感じる。あの血の量といい、残念だが、馬も牛も全て喰われたものと見て、間違いあるまい」

「よ、妖種。つまり、昨夜、化け物がこの厩舎に入り込んでいたということですか?しかし、世話係たちは、物音一つ、嘶き一つ聞いてはいないと申しておりますが」

「そういう不思議をやってのけるのが、化け物というものだ」

「もしや、その化け物はまだこの辺りに居るのですか? な、ならば、どうぞ早う退治して下さりませ」


 主人が飛び上がり、遠巻きに様子を伺っていた宿の者たちの間からも、ぱらぱらと悲鳴が上がる。


「いや、この辺りにはもう居らぬようだ」


 青白い顔をしている若党二人を従えたまま、戸渡左門は気のない顔で首を振った。


「もし妖種が潜んでおれば、そのたましいである妖珠が発する強烈な気配がする。お前たちのような只人にはわからんだろうが、修行を積んだ我ら黒衆なれば、その気配はすぐわかる。故に、今ここに妖種は居らん」


「決めつけるのは早計かと思いますが」


 戸渡左門の断言に、桧山辰蔵は頷いたが、一也が低く言葉を挟んだ。


「妖種が陰態いんたいとなって潜んでいることも考えられます」


 陰態とは、実体を消す――つまり、非物質化させて、周囲の物質に紛れてしまうことである。

 こうなると、人間は勿論、術者や真那世の目にすら姿が見えなくなり、妖気も隠匿されて気配が感じられなくなる。


「誰がお前の意見を聞いた」


 だが、戸渡左門は不機嫌そうに視線を巡らせただけだった。


「全くだ。差し出口を叩くな。陰態できる妖種など、そうは居ない」


 桧山辰蔵も嘲るように言ったが、一也は退かなかった。


「確かに、実体と陰態を自在に使い分ける妖種は少数です。しかし、居ない訳ではありません。可能性がある以上、留意は必要――」


 言いかけた、まさにその時だった。



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