幸せの黄色い銘仙
増田朋美
幸せの黄色い銘仙
今日もとにかく暑い日で、何処かの県では熱中症が多発したというが、冷房を入れても涼しさを感じないというのだからおかしなところだった。一応製鉄所でも冷房を入れてはあるのだが、部屋が広いため、なかなかエアコンが稼働せず、困ってしまうものだった。全く、体が溶けてしまうというのは、こういう暑さの事を言うのかなと、思われるほどの暑さだった。
「杉ちゃん、右城くん、ちょっと相談があるのよ。教えてくれない?」
そう言いながら、浜島咲が、玄関の引き戸を開けた。こんな暑い中、相談に来るのであれば、よほど困ったことがあるのだろう。
「ああいいよ、入れ。」
と、杉ちゃんが言うと、咲は誰かと一緒に来たらしい。ほら入って、と別の人物に入るように促している。
「じゃあ、お邪魔しますね。杉ちゃんよろしくね。」
と言いながら咲は、鶯張りの廊下を歩いて、四畳半に入ってきた。その後を続いて女性が一人入ってきた。確かに、ふたりとも着物を着ているのであるが、びっくりするのはその女性の着物だった。咲が着ているのは一般的な絽の着物であるが、女性の着物は派手な黄色の着物だった。
「はあ、こりゃ随分派手だなあ。ド派手過ぎて、ちょっと目立ちすぎるんじゃないか。お前さんは結構派手好みなのか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はじめまして。私、佐藤と申します。佐藤美穂です。浜島さんとは、お琴教室で知り合いました。」
と、女性は頭を下げて自己紹介した。
「はい。佐藤美穂さんね。それで、お前さんはなにを僕らに相談に来たわけ?」
「実は彼女の着物のことで。この黄色の着物、苑子さんはその汚い着物で二度とお琴教室には来ないでって言うんだけど、なんでだめなのか、教えて頂戴よ。」
咲は、彼女の着物を指さして、そう聞いた。
「うーんまあそうだねえ。柄はゆりの花だから、邦楽の稽古には向かないってこともあるんだと思うけど、何よりも、それは銘仙の着物でしょ。銘仙というと、銘仙は家できるものという考えもあるよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「よしてくださいよ。銘仙の着物で、お琴教室なんか行ったら、怒られて当たり前ですよ。杉ちゃんのいう通り、銘仙というのは単に室内着で人前で着るものではありません。そこら辺を間違えておしゃれ用とか、お稽古ように着てしまう人が居ますけど、本来は間違いなんですよ。もし可能であれば、他の単衣の着物や、絽の着物などを買い直してください。リサイクルであれば、安く買えますから。」
「あたしだってそういうふうに説明したわよ。だけど、彼女ときたら、どうしてそうなるのか説明してくれって言うのよ。だから、右城くんに話してもらったほうが、よほどうまく伝わるんじゃないかなって。それでお願いに来たのよ。」
水穂さんがそう言うと、咲は困った顔をしていった。
「そうか。なあなあにそれでいいんだとかそういうことが、通用しない女だな。」
と、杉ちゃんが言った。
「同和問題とか、そういう事はわかるかな?」
「それもわかりません。ただ、単に、可愛いと思って買ってしまっただけです。単に、ネットオークションで買っただけのことです。」
と彼女は答えた。
「はあ、なるほどね。出品者も困るものだ。そういう知識もなく商売が成り立っちまうことも、困るねえ。それで、銘仙というものは、単に室内着であることも知らないと。」
杉ちゃんは、やれやれという感じで言った。
「ある着物を商売にしているやつは、ラッパーの服装と一緒だと思えと言っていたぞ。銘仙といえば、昔は貧しい人の着物で、今みたいに可愛いとかそういうこともなく、それを着ていると、人種差別されたりしたんだよ。だから、そういうやつが、着るもんだっていう偏見が今でもあるわけよ。だから、銘仙を人前で着るなというお年寄りは多いの。」
と、杉ちゃんはそう説明した。彼女、佐藤美穂さんは、水穂さんの着ている銘仙の着物を眺めている。多分同じ技法で作られている事は理解できたのだろう。
「あなたも、銘仙の着物着ているってことは、やっぱり、いけないことだったということでしょうか?」
美穂さんは、水穂さんにきいた。水穂さんは、そうですねと言いかけて咳き込んでしまった。杉ちゃんに何をやってんだバカと言われながら、背中を擦ってもらっている水穂さんを眺めて、美穂さんはポカンとしているようだった。
「まあねえ、水穂さんみたいに、こうやって銘仙の着物しか着られないやつも居るんだよ。だから、そういうやつが着ていたのが銘仙なんだって覚えとけ。」
「は、はい。」
杉ちゃんに言われて、美穂さんはそういったのであるが、
「本当にわかってくれたのかな。」
と、杉ちゃんに言われても、返事がなかった。
「もうちょっと日本の歴史というか、身分制度というか、そこらへんを勉強し直して、苑子さんに叱られないように、気をつけて着物を選びなよ。着物は日本独自のものだからね。いいものばっかりじゃない。悪いイメージで語られる着物だってあるんだってことだ。いずれにしても、銘仙をお稽古ごとに使おうなんて言うことはやめたほうがいいよ。」
「は、はい。わかりました。」
美穂さんは、とりあえずそれだけ言った。
「まあ、いずれにしてもさ、もっと、格のある着物を選べるといいね。着物は可愛らしさとか、そういうものが全部じゃないからね。そこは、我慢するといいよ。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。それとようやく、薬を飲んで咳き込むのが止まってくれた水穂さんが、
「本当に、バカにされないで良かったです。中には汚らしい着物だと言って、馬鹿にする人も居るので。お琴教室で叱られただけでよかったじゃないですか。まちなかで、誰かに声をかけられるよりいいでしょう。」
と、美穂さんに言った。
「本当にありがとうございました。あたし、もうちょっと、着物について勉強してみます。私は、着物について何も知りませんでした。そんな着物だったなんてこれっぽっちも知りませんでした。日本人なのに、着物の事を知らないなんておかしいですよね。それではまずいから、ちゃんと着物の事を勉強して、叱られないようになります。」
美穂さんは水穂さんに言われて、なにか心が動いてくれたようで、にこやかに笑ってそういうことを言った。
「良かった良かった。最近は可愛いならそれでいいとか無茶な発言をするやつも居るからな。なかなか、説明してもわかってくれないやつも多くて困ってたのよ。それなら、もうお稽古には銘仙は使わないでね。ちゃんと羽二重とか、紋意匠とか、そういうものを着てね。」
杉ちゃんに言われて美穂さんは、静かに頷いた。
その日は咲と美穂さんは相談に乗ってくれてありがとうと言って、すぐに帰っていった。それから、二三日経ったある日。杉ちゃんたちは、また水穂さんにご飯を食べろと一生懸命世話を焼いていたのだったが、
「こんにちは。あの、私、先日浜島さんと一緒にこちらへ来ました佐藤美穂と申します。」
と、製鉄所の玄関の引き戸から声がした。
「佐藤美穂?ああ、こないだの、銘仙の着物のことで相談に来た女ね。」
杉ちゃんは声ですぐわかったらしくて、
「ああいいよ。暑いから入れ。」
というと、玄関のドアがガラッと開いて、美穂さんが入ってくる音がした。そして、彼女は四畳半にやってきた。もう別の着物になってくれるかなと思ったら、彼女はまた黄色の銘仙の着物を着ていた。
「あらあ、お前さんも懲りないねえ。まだ銘仙の着物を着ているの?それでは、また、お琴教室どころか、着物のおばあさんに叱られるぞ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「いえ、私には、こちらの着物の方が、あっているのかもしれないと思いまして。」
と、彼女はそんな事を言い始めた。
「はあ。それはどういうことだ。誰だって、人種差別された人の着物を、あえて着ようとは思わないと思うけど?」
杉ちゃんが言うと、
「はい。はじめは、私もそう思っていたんですけど、でも、私には、羽二重とかそういうものではなくて、銘仙のほうが、ふさわしいんじゃないかと思うようになったんです。だって私は、結婚もしていないし、仕事もろくにしていないし、そういうふうに決して自信が持てる生き方ができる女性ではないです。だから、こっちのほうが、私にふさわしいですよ。羽二重みたいな、身分の高い人の生地を、私が着られるわけないじゃないですか。それなら、こちらを着ていたほうが、なんか安心できるというか、そういう気がするんです。」
と佐藤美穂さんは、にこやかに言った。
「変わった女だねえ。銘仙の着物は格が低いし単に室内着としかみなされないというと、大体のやつは手放しちゃうんだけど、そのほうがいいだなんて、なんて変な事をいう女だろう。」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、私は、こちらのほうがいいと思いました。あのあとで、銘仙についてちょっと調べてみましたが、否定的な文献は、ありませんでしたし、そういうことなら、もう自由に着ていいのかなって、私は思ったんです。」
と、美穂さんは言った。
「はあ、変な女だ。銘仙の着物のほうが自分らしいなんて、変わったことをいう女は、見たことがないよ。それでは、銘仙の着物も喜ぶぞ。だけど、着物は、そうはいかないぞ。着物には格というものがあるからね。それを、厳しく守っている人だって、いっぱいいるんだからねえ。そういう銘仙のほうがお前さんらしいというセリフもあるけれど、でもねえ、着物で自分らしくって言うのはどうかと思うぜ。」
杉ちゃんは、腕組みをしてそういった。
「僕もやめたほうがいいと思います。銘仙というものは、僕たち当事者からしてみれば、なんでこんなものを、おしゃれ用に着用するようになったのか、不思議でなりません。そんなつらい思いばかりしてきた着物を、経験のない人がわざわざ着るのか、それっておかしいんじゃないかな。なんで、差別されていた着物が、自分らしいのか、よくわかりませんよ。」
水穂さんもそういうのであるが、
「いいえ、私だって、学校でいじめられたりして、決して自信があって育ってきたわけじゃないのです。だから、豪華で派手な羽二重を着る気にはなりません。だから、こういう銘仙の着物のほうがずっと楽しいです。」
美穂さんはとてもうれしそうに言った。
「そうして喜んでいらっしゃるけど、道やコンサート会場などで、銘仙の着物でコンサートへ来るなとか言われたら、悔しくありませんか?」
水穂さんがそうきくと、
「いいえ、それはありません。元々自分に自信がない人間なので、人に馬鹿にされるのは慣れてます。」
と、美穂さんは答えた。
「はあ、強い女だな。」
杉ちゃんは、変な顔で言った。
「その強さは何処から来るのか、よくわからない。」
「大丈夫です。人に銘仙の着物を着てバカにされても、私は、平気です。もし、この着物をコンサート会場に着てくるなと言われたら、私は元々自分に自信がないと答えます。」
「でも、それが果たして通じるでしょうか?」
美穂さんに水穂さんが言った。
「確かに、そうやって精神的に強いのは認めますが、そのように強いからと言って、着物の格についてのルールを破る事は、できるんでしょうか。それと着物の格は別の様な気がします。」
「心配してくれてありがとうございます。でも、私は、この着物で、大好きなアーティストのコンサートにも行きたいですし、展示会にも行きたい。それに、食事会などにも行きたいです。やっと自分らしい、着物を見つけることができたんだし。」
美穂さんは、にこやかに笑ってそういう事を言った。
「今度、お琴教室以外のところで着物を着てみようと思っているんです。そのときに、この幸せの黄色い銘仙を着ていこうと思っています。」
「はあ、何処へ着ていくんだ?」
杉ちゃんはすぐに聞いた。
「はい。姉がまもなく結婚するので、そのときに着用しようかと。」
美穂さんがそう言うと、水穂さんが激しく咳き込んでしまった。多分よほどびっくりしてしまったのだろう。しかし、美穂さんは、すぐに水穂さんの背中を擦ってやって、内容物を吐き出しやすくしてやるのだった。しかも、大丈夫ですかと声掛けまでしている。杉ちゃんが、それを眺めて、
「確かに強い女性だ。」
と呟いた。美穂さんは、水穂さんに薬を飲みましょうと言って、テーブルの上に乗っていた吸い飲みをとって、水穂さんに渡し、中身を飲ませた。中身を飲んでくれて、やっと咳き込むのが止まってくれた水穂さんは、
「勘弁してくださいよ。銘仙の着物で結婚式に出席するなんて、言語道断です。あなたばかりではなく、あなたの家族も顰蹙を買います。絶対にやめてください。」
と、言って、そのまま布団の中に倒れ込むように横になった。美穂さんは、動けなくなってしまった水穂さんを丁寧に布団の上に寝かせてやって、掛ふとんをかけてやった。
「お前さんはもしかして、看護師とか、そういうやつかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、看護師ではないんですけどね。ただのタクシー運転手です。それもまだなりたての。」
と、美穂さんは言った。確かに、碌な仕事もしていないと言っていたが、そんなに強いやつであったとは、杉ちゃんも分からなかったのでびっくりした。
「はあ、なるほど。そういうことか。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「ええ。タクシーの運転手ですが、そういう障害のある方を乗せたこともあるんです。」
ということは、ケアタクシーの運転手か。
「それなら分かった。でもねえ。お姉さんの結婚式に銘仙の着物を着るというのは、水穂さんの言う通り、言語道断だと思うぞ。そういうときに着るんだったら振袖だろ。成人式の振袖は持ってないの?」
「はい。持っていません。」
美穂さんははっきりと言った。杉ちゃんがなんでだというと、
「私、二十歳のときは、精神疾患で入院していたんですよ。」
と彼女は答えた。
「だから、成人式のお祝いはしてもらってないんです。この銘仙の着物が私の初めての着物。私、30歳なんですけど、10年遅れて、初めて着物を来ました。それを、姉の結婚式に着るのはおかしいですか?」
「うーんそうだねえ。それなら、わざわざ銘仙という不利な着物を選ばないで、羽二重の小振袖とか、そういうものを選んだほうが良かったかもしれないね。それなら、今から買い直しに行こうか?小振袖も、今は1000円とかで変えるからさ。」
杉ちゃんがそう言うと、美穂さんは、
「それでも、私を彩ってくれた着物であることには、変わりありません。格がどうのとかそういう事よりも、自分を彩ってくれたんだから、大事にしてみたいと思っています。だから大事な着物を姉の結婚式にと思っているんですけど。」
というのだった。
「うーん、これを他の着物にしようと思ってくれるのには、大変なことになるぞ。とにかくねえ、銘仙は普段着というか、室内着なんだよ。だから、外出着としても着られないし、コンサートウェアにもならないし、展示会にも着られない。そういうことなら、ちゃんと羽二重の小振袖みたいな礼装用を、1000円でいいから買ってほしい。」
杉ちゃんは、困った顔で言った。水穂さんも布団の中に居たが、その話を聞いて偉く困った顔をしていた。こういう人は確かに意志は強いのかもしれないけれど、銘仙の着物というのは、結婚式には用いてはならないと古くから言われている。それを無視して着用してしまうのは、日本の伝統が崩れてしまう気がする。
不意に水穂さんがまた激しく咳き込んだ。今度は、前よりももっと激しく咳き込んだのだった。いつもなら、内容物が噴出するのだけど、今回は、なかなかそれが出ず、胸を抑えて苦しそうだった。それを見た美穂さんは、すぐに水穂さんの上体を起こしてやって、私に捕まってといった。そして、美穂さんが、水穂さんを抱え込んで背中を擦ってやったのと同時に、水穂さんの口元から朱肉のような液体が溢れ出た。鮮血であった。それは、ちょうど、美穂さんの肩に乗った水穂さんの口元からでて、美穂さんの着物を少し汚した。でも、美穂さんはひるまなかった。すぐに、水穂さんの口元を手ぬぐいで拭き取り、薬を飲ませてあげることもできた。今回の発作は一段とひどかったので、止めるのに時間はかかったが、薬を飲ませてしばらくして、咳き込むのも弱まり、やっと止まってくれた。薬には眠気を催す成分があったらしい。水穂さんは、そのまま眠ってしまったのだった。美穂さんは彼を布団に寝かせてあげて、掛ふとんをかけてあげた。
「着物、汚れちゃったね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですね。でも、水穂さんにはああしてあげることが必要だったと思うし、何も後悔もしてませんよ。」
と、美穂さんはにこやかに笑っていった。
「それじゃあ、なおさらお前さんは、銘仙の着物にはふさわしくない。」
杉ちゃんは断定的に言った。
「そういう、強く生きることを知っている女性であれば、銘仙の着物より、羽二重のほうがよほど良いよ。お前さんなら、今度こそいい着物を見分けることもできるだろう。今度は、もっと慎重に着物を選んでだな、もっと光沢があって、御所解文様とか、有識文様みたいな、そういう格の高い着物を買ってこい。そうしないと、お前さんの品格を表現できない。だから、もう銘仙の着物はやめて、他の着物にステップアップしてもらいたい。」
美穂さんは、そうねとなにか考え込むような感じの表情をしていた。多分気持ちが葛藤しているのだろう。だけど、日本の伝統を破ることは、いくら強い女であっても、やってはいけないことだ。銘仙という着物は確かに、可愛いし、大胆でおしゃれと解釈できるのかもしれないが、決して身分の高い人の着物ではない。そこはわかってもらわないと、本当に伝統が廃れてしまうのである。
美穂さんは、なにか決断したような顔になって、こういうのだった。
「わかりました。それでは、今度こそ羽二重を買います。姉の結婚式にふさわしい着物で行きます。」
「そういうことこそ、お前さんの第二の元服式さ。」
杉ちゃんは苦笑した。
幸せの黄色い銘仙 増田朋美 @masubuchi4996
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