うおォン 俺はまるで人間魔力救世装置だ(前編)

 時々無性に、一人の時間が恋しくなる。

 教師になって、今までよりずっと誰かと喋る時間が増えたからだろうか。

 はたまた前世からの付き合いである、他者を重んじ自己主張を控える高潔な性格がぶり返してきたのだろうか。


 原因は何にせよ、そういう時は休みの日、ひっそりと町へと繰り出すようにしている。

 血筋のせいで無駄に整った顔を隠しつつ、お忍び気分でぶらぶらするわけだ。


「港から仕入れたから新鮮だよー!」

「安いの今だけだよ!」

「機械の体の女が寝てる間に下半身を蜘蛛型ユニットに改造されていてどんどん人間の暮らしになじめなくなっていく本入荷してます!」


 知らない町の風景を楽しみ、行き交う人々の生活に思いを馳せ、緩やかに流れていく時間へ身を任せる。馬鹿みたいな本の妄言は聞き流す。需要あんの? ありそう。人だかりできてるし。この町大丈夫かな。


 ……閑話休題。


 もちろん、色々と忙しいのでしょっちゅうできるわけじゃない。月に一度できれば御の字といったところか。

 そしてこういう時、最大の楽しみと言えば……そう、食事だ。


「お……」


 ふと足を止めたのは、通りに面したレストラン。

 鉄板焼きのお店らしい。外までいい香りが漂っている。

 窓から見える店内は大きなL字型のカウンターと、壁際にファミリー客向けのテーブル席がいくつか。内装も込みで、気取りすぎず砕け過ぎない雰囲気だ。


 うん、うん……いいじゃない。

 今日はここにするか。値段は知らね。

 カランコロンとベルを鳴らしながらドアを開ける。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こうでヘラを器用に捌き肉を焼いていたシェフが、こちらを一瞥してすぐ視線を鉄板に戻す。

 寡黙な雰囲気だ。カウンターに座る先客もぺちゃくちゃ喋ったりはせず、焼かれている肉をじっと見つめていた。


「すみません、一人です」

「カウンターの空いてる席にどうぞ」


 向こうに見えているかは分からないが、気持ち深めに頷いてからカウンター隅の席に座る。

 椅子に腰かけてメニューを開きながら、先客の目の前で焼かれているステーキ肉をチラ見する。


 うん、うん……いいじゃないか。

 分厚いがサシが多すぎず、過度なレア志向でもなくきちんと焼かれている。

 メニューを確認すれば、部位ごとに焼き加減別で注文できるし、鉄板を使ったサイドメニューも充実しているようだった。


「どうぞ」

「あ、どうも」


 様子をうかがっていると、厨房の奥で作業をしていた別の店員さんがお冷を置いてくれた。

 お礼を言ってから、改めてメニューに向き合う。


 牧場から直接お肉を買い付けているらしく、メニュー表の最後のページには提携先である牧場の紹介が載っていた。その分、お値段は平均より高めで、毎日の食事というよりはお祝い事の時に利用するイメージの価格帯だ。

 そうそう、たまに食べるからにはこういうのがいいんだよ。


「すみません、カットのミディアムを部位ミックスで300ください。あと、コーキを」

「かしこまりました」


 手の空いている店員さんが注文を伝票に書きつけて、奥へと引っ込む。

 肉を取りに行ってくれているんだろう。こういう過程が見えると、来るぞ来るぞって感じでテンション上がるなあ。


「ミックス300、ミディアムです」

「はい」


 恐らく俺の物であろう肉が、鉄板の上で耽美なショーを繰り広げるシェフの手元へ運ばれた。

 うおおおおおお今からアレ食えるのか、目の当たりにすると流石にテンション壊れるわ。

 そりゃ金払うんだから食えるのは当然なんだけどなんというか、よく金を払う決断を下したと自分を褒めてやりたい。株式会社ハルートの中でも挑戦的なプロジェクトを提案した若手を話も聞かずに一蹴したくないからな。


「こちらコーキになります」


 肉をガン見していると、俺の手元に瓶詰めの炭酸飲料が置かれた。

 事実上のコーラである。

 前世で大変お世話になった飲み物によく似ている、いや本当によく似ている。味わいまですごく近いというかほぼ完璧だ。野営中はよく肉をこれに漬けて煮込んでいたものだ。


 コーキを一口含んでいる間に、先客へとステーキがお出しされていた。

 一度綺麗に片付けられた後、鉄板の上に俺の肉が乗る。うおおお俺が食う肉が焼かれている!

 肉を焼く音はたまらないが、同時に立ち上ってくる香りも胃を刺激する。お腹がペコちゃんになりすぎて、もはや藤井聡太だ。


 ちなみにこの世界は牛も豚もすっげえよく似た動物がいるが、名前が違う。

 俺は面倒なので全部事実上の牛とか事実上の豚とか呼んでるけど。


「お連れ様の果実ジュースです」

「どうも」


 その時、俺の隣の席に飲み物が運ばれてきて、誰かが返事をした。

 見れば艶やかな黒髪とクールな表情の美少女が目に入った。

 シャロンが普通に座っていた。


「ふおぉっ!?」

「大声を出さないで」


 驚愕のあまりに椅子の上で五センチぐらい飛び上がる俺に対して、彼女は冷たい声でピシャリと言い放つ。

 いや出すが? いついたの? 待って?


「ど、どうしてここに」

「町を歩いていたら、おびき寄せられた虫のようにこの店へ入っていく先生を見かけたのよ。せっかくなら一緒にと思ったのだけど、先生はずっとお肉をガン見していて一向に気づいてくれなかったわ」


 どうやら極度の集中が、逆に注意力の低下を招いていたようだ。

 にしたって隣に座られても気づかないのはおかしいだろ。

 ……あっ。


「シャロンもしかしてだけど、クユミから何か習って、それを試す絶好の機会だと思ってたりしないか?」

「…………」


 彼女は無言で目を逸らした。

 こいつ……! あとあのメスガキ……! 高火力キャラに『潜伏ハイド』へポイントを割り振る余裕なんて本当はないんだよ! ゲームじゃなくて本物の世界だからってやりたい放題しやがって!


「お前さ、その調子だと隠密移動する巨大砲台を目指してるってこと?」

「流石にそれを主軸に据えようとは思わないわよ、だけど持てる選択肢が多いに越したことはないでしょう?」

「……今回に関してはいいけど。選択肢を増やすしぎて自滅した奴を知ってるから、例外はあるぞ」


 シャロンが潜伏技能を身につけるのは、正直かなり脅威だ。

 効率面を考えるのなら、いつ遠距離から高威力砲撃を叩きこまれるのか分からない状況は怖すぎる。そこにクユミ仕込みのステルスが加われば、いよいよ本格的なスナイパーと化してくるな。

 とはいえやりすぎる、と何がしたいのかよく分からない器用貧乏ビルドになる危険性もある。そこは俺が面倒を見ていく必要があるだろう。


「そうなの?」

「ん、まあな……それで、シャロンはもう注文したのか」

「ええ。先生の後に注文したわ」


 注意力散漫過ぎただろ。なんで気づいてねえんだよ。

 俺の表情から察したのか、シャロンが呆れかえる。


「本当に集中していたみたいね……確かに寮でも、先生は食事にこだわりがあるみたいだったけれど」

「食事ってのは、香りも音もすべてを楽しむものだと思うからね」

「あら、いつになくタメになる授業ね。ノートを持ってこなかったのが悔やまれるわ」


 摘まみだしてやろうかこいつ。

 いつも以上によく回る舌だ。なんかスキルを伝授されたついでにクユミの性格までインストールしてない?


「シャロン、普段よりテンション高くないか?」

「それは……まあ、こんなところで会えると思っていなかったわけだし……」


 彼女はさっと視線を逸らし、何やらごにょごにょと呟いた。

 どうしたっていうんだろうか。


「お待たせしました」


 と、そうこうしているうちに、俺とシャロンのステーキが皿に盛りつけられて運ばれてきた。

 既に一口大に切り分けられているステーキは、表面をこんがりと焼いて熱を通しつつも、その新鮮な赤身は宝石のような透明感を持っていた。

 うーん。見ただけでじゅわっと唾液が出てくる。


「ま、とりあえず食べよう。いただきます」

「そうね、いただきます」


 手を合わせてから、既に一口サイズに切り分けられている肉を口の中へ放り込む。

 瞬間、俺の脳細胞が極彩色に光り輝き、暴力的なまでの肉の旨味が全身を支配した。


 うまい……!

 肉っていうのは、やっぱり咀嚼する時に最も旨味があふれ出す。


「いい肉ね。最近流行りの、サシが入っていればいるほどいいという考え方に真っ向から反発しているわ」


 隣で一口分を食べたシャロンもまた、深く頷いている。

 こいつなんだかんだで相当なグルメなんだよな。いいとこのお嬢さんなだけはある。


「サシがたくさん入っている方が豪華で美味しい、って考えも分からなくはないんだけどなあ。俺だってそういう肉を食べたくなる瞬間はあるし」

「好みは人それぞれなのだから、自分に合うお肉が一番ね」


 育ちが違いすぎて感覚がズレまくってたらどうしようと心配だったが、シャロンはかなり理解を示してくれた。教え子がこういう時に懐の広い性格で俺も鼻が高いよ。


「総合的な評価として、ここは本物の店だと思うわ。先生も見る目があるわね」

「そりゃどうも」


 完全に雰囲気オンリーで選んだだけだったのだが、なんかセンスある側の判定をしてもらえた。ラッキーすぎる。

 まあ確かにここは超当たりだと思う。値段相応ではなく、値段以上の価値をこのステーキからは感じる。


 夢中になってがつがつと食べ進めていると、再びドアがベル音と共に開けられた。

 ちらりと視線をやると、何やら髪型をセットしてジャケットを着こんだキメキメの男と、小太りのおっさんが二人入店してくるところだった。新しいお客さんだろう。


「いらっしゃいませ、二名様ですか」

「ああ失礼、我々は客ではなくてね」


 違うんかい。じゃあ何だよ。

 思わず眉をひそめていると、キメキメ男のそばにいたおっさんがギロリとシェフを睨む。


「君ぃ、ここに店を出しておきながら知らないとは勉強不足じゃないかねえ」

「……?」


 なんか変なこと言い始めたな。シェフも首を傾げていらっしゃる。

 雰囲気の変化を感じ取ったのか、綺麗な所作でステーキを食べ進めていたシャロンも、ナプキンで口元を拭いながらそちらを見た。とたん、彼女の目つきが剣呑なものになる。


「あら……知っている顔ね」

「マジで?」

「若い方は知らないけど。隣の男は、最近王都で売り出しているグルメ雑誌の編集ね。実家がオーナーをやってるお店に取材に来てたのを見たことがあるわ」


 流石はシャロン、こういう情報を網羅している。

 ていうかピール家、飲食店経営もやってんのかよ。多角的過ぎるだろ。


「こちらの方は、ここから通りを七つ挟んだところで同じく鉄板焼きをお店を開いており、王都中で評判を集めている新進気鋭のカリスマシェフ! スグデール・スゴ・クウマイさんですよ!」


 信じられねえぐらいヤバい名前だ……常軌を逸しているとしか思えない……

 っていうかお肉がすぐ出ちゃダメだろ。最低限は火を通せよ。


「なんか揉めてるみたいだけど、あれ大丈夫か?」

「あの雑誌は基本的に高評価で掲載する代わりに金銭を要求してくるカスの集まりよ。お父様も激怒して突っぱねた後、最低評価にされてるのを見て雑誌を火属性魔法で焼いていたもの」


 剣と魔法の世界で、グルメレビュワーの買収問題なんかすんなよ。

 俺より先に着ていた先客さんたちも、気まずそうに顔を伏せちゃってるじゃねえか。


 いや……まあ当然、闖入者二名がだるいのが最大の理由だが……

 同時に、俺の隣に座るダウナー系ギャルが静かに怒りを滾らせているのも、気まずい理由ではあるんだろうなあ。


「シャ、シャロン? 大丈夫か?」

「大丈夫なわけないでしょ。モノを食べる時は誰にも邪魔されず自由で……なんというか、救われてなきゃあダメなのよ。独りで、静かで、豊かで……」


 うおぉっ! 転生した先で原作キャラからパロディ発言飛び出すとビビるな。

 忘れてたけど、確かにシャロンってキャンプパートでメシ食う時たまにこのセリフ言ってたわ。原作シナリオライター、やりたい放題過ぎる。


「……って待てよ。じゃあなんで俺についてきたんだ」

「それは……べ、別にいいでしょ」


 ぷいとそっぽを向いた後、シャロンは咳払いをしてから首を振った。

 何やってんだこいつ。


「実に嘆かわしい! 勉強する熱心さを失ったシェフとは、見習いの皿洗いにも劣る存在ですよ!」


 一方、店に入ってきた男たちは勝手にヒートアップしていた。

 シェフがあんまり明確な反応を示さないので、しびれを切らしたのだろう。

 しれっと皿洗いをディスってるし。倫理どうなってんだ。


「ええ……こんなお店ではなく、この私が経営する本物のお店にこそ来てほしいものだがねえ」

「まったくですな! ……というわけで皆さん、こんな脂の少ない安くてパサついたお肉ではなく、このスグデールさんのお店をですね」


 流れるように、というにはいささか強引な形でおっさんが宣伝を始めた

 ああなるほど、狙いはそれか――じゃねえよ! ざけんな!


「オイちょっと待てよ!」


 あんまりな言い分に、ついカッとなって声を上げた。

 シェフも含めて店中の視線がこちらに集まる中で、俺はキッとおっさんたちを睨む。


「俺たちは普通に食ってるだけだし、お店も普通にご飯を出しているだけだ! 勝手にライバルをでっち上げて勝手に文句を言ってくるのは筋違いだろ! あんたらの脳内でやってる話を現実に持ち込むな! 家に帰ってレビューの紙でも食ってろ!」

「先生言い過ぎよ。どうして途中からさらに加速したの?」


 しまった。なろう系主人公あるあるの『一度スイッチが入ったら誰も手が付けられないぐらい怒る』を発動させてしまった。

 でも俺の場合、キレたら強くなれるわけじゃなくて、キレると口が悪くなるんだよな。最悪のあたりまえ体操?


「はあ……素人の意見はこれだから困る。そんな安物の肉で満足しているのなら、言葉が通じなくても仕方ないか」

「スグデールさんのおっしゃる通りですね。サシがたくさん入っていて柔らかいお肉こそ、市民たちがご褒美として食べる日に相応しいお肉でしょう」


 普通にめっちゃディスられた。

 ちょっ、いいすか?

 すみません、頭に来たんだけど、いいすか?

 あの、『救世装置(偽)』起動していいすか?


「そこの、貴族のお嬢さんですか? あなたもそう思うでしょう?」


 こちらが何か言い返す前に、脂ぎった豚みたいなおっさんがシャロンに水を向ける。

 どうやら服装からして、いいとこのご令嬢とでも思われているようだ(正解)。

 シャロンは腕を組んで数秒黙った後、静かに口を開く。


「……そういう意見があることは分かっているわ」

「おお、流石! 味覚が澄んでいる人は分かってらっしゃる!」

「でもそれとこれは別ね。あなたはお店を売り出したいのではなく、手掛けているお肉の方を売り出したいのでしょう? レストランでするべき話題ではないわよ」


 場の空気が凍り付いた。

 名探偵シャロンが、今までの会話を完全にシカトして、勝手に相手の目的をぺらぺらと喋り始めたからだ。


「は、ははっ、何を……私はただ、グルメライターとして、こちらのスグデールさんのお店を紹介したくてですね」

「あなたの身体から、畜舎の臭いが微かにするわ」


 シャロンの指摘を受けて、おじさんの顔がさっと青ざめた。


「そ、それは……」

「飼育に携わっている人間なら、誰よりも畜舎の臭いに気を遣うからこんなことにはならないわ。あなたは取引をしに行っただけでしょうね」


 確かに、飲食店に臭いを持ち込むようでは信頼が得られないという話はありそうだ。

 俺が素直に感心している間に、シャロンは席から立ちあがり、獲物を追い詰めるかのようにゆっくりと歩いていく。


「つまりあなたは単に競合店を持ち上げているだけの雑魚ではなく、競合店にお肉の仕入れ先を紹介している……この構図全体を描いた黒幕の雑魚ということになるわ。グルメ雑誌の編集から、経営者に転身したいのかしら? だとしたら脳と顔と体を取り換えてからにするのをお勧めするわ」

「お前も言い過ぎだろ。なんでブレーキを踏めないんだよ」


 クユミから悪い影響を受けている! いやクユミもここまでは言わないだろ、新世代の口悪すぎ人間が爆誕してしまったらしい。


「こ、このっ……言わせておけばっ!」


 おじさんの青くなっていた顔が、今度は一気に真っ赤になった。

 ずいと踏み込む彼とシャロンの間に、慌てて割って入る。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

「邪魔だ! 何だお前! このっ……このっ、え? 背高ッ! 力強ッ! え? デケぇ木?」


 掴みかかってきたおじさんが、俺をどかそうとしてもまったく動かせず、だんだんしょぼくれていった。

 可愛そうになるぐらい全然怖くない。力比べする相手を間違えすぎだ。


 さてどうするかな。

 背後のシャロンは完全にあったまっている。相手をブチのめさないと気が済まないモードだろう。

 先ほど煽られた時は俺も頭に来ていたが、流石に今は冷静さを取り戻せている。このおっさんたちに、何とか平和に出て行ってほしいところだが……


「そこまでにしてもらってもいいかな」


 と、その時だった。

 優しく、柔らかで、けれど威厳に満ちた声が場を切り裂いた。


『……ッ!?』


 一同がバッと振り返れば、その男はカウンターの端っこ、窓際の席に座っていた。

 サラサラの蒼い髪に爽やかで柔和な表情。呪いが解けたブレイブハートに少し系統は似ているが、あいつよりずっと親しみやすさを感じるイケメンだ。

 逆に爽やかすぎて胡散臭いまである。CV石田彰って言われたら納得できるかも。


「せっかくのご飯を不味くしてしまうなんて、もったいないじゃないか」


 ゆっくりと立ち上がり、その男性はこちらへ歩いてきた。

 客がいるのは分かっていたが、今気づいたのが不思議なほど、その体からは……強者というか、本物のカリスマだけが持つオーラが放たれている。


「食事というのは、香りも音もすべてを楽しむものだ――こういう騒音は、好ましくないだろう?」


 あまりにも雰囲気たっぷりというか、今まで存在感を消していたのが信じられないぐらい、彼が身に纏う覇気は場の空気を制圧していた。


「彼は?」

「ウチがお世話になっている牧場の土地を持っていらっしゃるアジャクシオ家の当主様、シリウス・グルマンディーズ・アジャクシオ様です」


 俺の問いかけに、シェフが小声で答えてくれた。

 うおぉっ……俺とは格の違う、マジのお忍びの人がいたわ……


「あ、あんたが貴族様だろうと、私たちには王都の本当に美味しい店を知らしめるという使命が……」

「なら、このお店を紹介するべきだ。名ばかりの張りぼてを称賛するのは、いい行いとは言えないね」


 言い返そうとするキメキメ男に対して、シリウスは柔らかな表情のまま、悲しいほど一瞬で言葉を切り捨てた。

 彼がそう言ったからにはそうである――すでに場はそう定まっていた。


「このお店は既に成立された式だ、君のように害意を持つ変数はいらない。今日はこの辺りで、出て行きたまえ」


 シリウスは決然とした面持ちで告げる。

 その姿に動揺も恐れもない、ただ己の役割を果たしているだけだという自信が見て取れた。

 あー……おっさんたちも運が悪いな。これ本物だわ。超本物の貴族様だわ。社交界でこっちが下手に出るだけじゃ全然話が進まない、正面からぶつからねーとどうにもならない、厄介な手合いだわ。


「ぐっ……ど、どうなるか分かってないらしいな!」

「覚えていろ! 後が怖いぞ!」


 キメキメ男と豚のおっさんは、カスみたいな捨て台詞を吐いて店から出ていった。

 窓の向こう側には、二人がドタドタと走っている後姿が見えた。

 どうやら危機(?)は去ったらしい。


「やれやれ……店主殿、すまなかった。ここまで大きな騒ぎにするつもりはなかったんだ」

「いえ、そんな」

「しばらくは家の者を来させて、連中が危険な手段を取らないか見張ってもらうよ」


 お店の雰囲気が元通りに落ち着くのを見計らって、シリウスがシェフに話しかける。


「あ、アジャクシオ様、あなたにそこまでやっていただくわけには……」

「遠慮はいらないよ。私のような田舎貴族は、名ばかりで富も権力もない。だが民を守る責務だけはあり、そのために生きているんだ。ここで何もしないなら家を取り潰された方がマシさ」


 そう言って肩をすくめるシリウスに、先ほどまでのカリスマオーラはない。

 あれって自分の意思で出したり消したりできるらしいんだよな。意味分かんねえよ。


 お忍びに合わせてか、服装は平民に寄せてるし、常識もある。

 そんな彼はふとこちらを、正確に言えば――シャロンを見て、動きを止めた。


「ん、んん……? もしかして……ピール家のご令嬢ではありませんか?」


 おっと流石はご令嬢シャロン様、顔が広い。広すぎる。

 とはいえこれだけ知り合い、というか彼女を知っている人が多いと、覚えているのも一苦労に思えるが……


「随分と前に、一度お会いしたことがありましたね。あの時は幼かったものですが、覚えていただけていたとは光栄です」


 要らぬ心配だったようだ。

 上品な微笑みを浮かべ、シャロンが優雅に一礼する。急にご令嬢モードになられると心臓に悪いな。


「いえいえピール嬢。むしろこちらこそ……まだ幼かったというのに、私のような者を覚えてくださっていたとは」

「とんでもありません。というかあなたは、その、お変わりないというか……なさすぎるというか、あの時と本当に変わらないままで……」

「ははっ。毎朝体操をして、粗食を貫き、散歩をしているだけなのですがね」


 この当主様、正直外見年齢は俺とほとんど変わらないように見える。

 しかし話を聞く感じでは、シャロンが小さいころ、既に当主だったようだ。

 ……やっぱり人って外見で判断したらだめなんだなあ。


「そちらの方は、お知り合いでしょうか? または護衛?」


 と、シリウスがこちらに水を向けてきた。


「何にせよ、君のような若者がいるとは感心しました」

「あ、いえ、俺は別に……」

「最初に声を上げてくれて、助かりましたよ。恥ずかしながら私も口を出すかどうか悩んでいたんだが、君が最初に……いや」


 言葉が不意に途切れる。

 シリウスはじっと俺の顔を見つめた。


「待ってくれ、え? いや……まさか、そんなはずは……えっ? いや……え?」


 だんだんと空気が重くなり、互いに脂汗が浮かび始める。


「君、というかあなた、もしかしてなんだが……勇者の末裔ハルート殿か?」

「えーっと……まあ、はい」

「うおぉっ……私とは格の違う、マジのお忍びの人がいたか……」


 それはこっちの台詞なんだよ!


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