Case5-3 山本理柚

 ――そして私は今、横たわり、口で呼吸をしている。

 それ以外の全てを放棄していた。つまり、擬態ぎたいしていた。


 鼻は駄目だ。くさいとかくさくないとかじゃなく、匂いがいけない。私の肩についたものも、今このラボ内に漂っているものも、もし強く嗅ぎ取るようなことがあれば、『それらの匂い』であるという事実で、私は絶対に出し戻すだろう。

 だが私が出すものは、他の同僚たちが床に出したものよりすぎる。

 それがいけない。

 それでは擬態が見破られる。そんなことを考える――。


 視界はほぼ真っ暗だ。私が、やっとのことであの覆い被さった体を避けた頃には、既にライトは全て破壊されていた。

 スピーカーもどうやらやられてしまっているようで、あれだけ耳障りだった警報音は、今は別の箇所で続いているものが遠く聞こえてくるだけだ。


 私の、おそらく後ろには、いまだ不可視の獣がいる。

 重く、荒く、腹立たしく、唸りながら脚を鳴らし、

 自ら壊したものに追い打ちをかけるように八つ当たりしていた。

 私がいることをわかっているのだろうか。それでも私を見つけられないことにいかっているのだろうか。


 私は――私の気配は、それほど生きることをやめているのだろうか。


 なるほど、きっと今の私は最悪な顔をしているのだろう。それこそ死人同然の。創り上げているのは、他でもない私の心なのだから、私の心は、生きることをやめているのだろう。

 ちょうどいい。同僚たちの死体に紛れている、この間だけは。


 アケビコノハ――

 枯葉そっくりに装い紛れる彼らも、天敵に狩られる寸前はきっとこんな思いをしているのかもしれない。

 いや――、奥に最後の威嚇翅いかくばねを隠し持つ彼らの方がはるかにたくましいか……。


 ……私は、いつまで死体でいればいい?


 この時間は、いつまで続くのか。

 いつ終わりを迎えるのか。

 聞こえていないわけではない。遠く聞こえるのは警報だけではない。

 終わったとして、その次は部屋の外にある悲鳴達の仲間になれとでも言うのか。

 もう、どれでもいい。

 いっそのこと今すぐに――――




「死ぬなんて、考えちゃダメだよ」




 ――誰?




「君は今正気を失っている。なんとなくわかるよね?」




 ――……ああ、

   確かにそうかもしれない。




「だけど大丈夫。僕がなんとかしてあげるから。だからどうか、死ぬなんて考えないでほしい。だからどうか、僕の言葉に耳を傾けてほしい」


 幼い――しかし、芯の通った、大人びた声音だった。

 その真っ直ぐな語りが、私の混沌とした精神にじわりと溶け込み始める。


「ゆっくりでいい。手を伸ばして? 僕の手があるから、それを握って?」


 やはり真っ暗で何も見えない。

 だが言われた通りにすると、触れるものがあった。少しずつ、受け入れていく私と同じ速度で、手の平が包まれていく。私と同じくらいの、小さな手に。

 暖かい……。

 安心できる……。


「いいかい? 今君の後ろにいるアレは、確かに恐ろしい存在かもしれない。ただ、決してそれだけではないんだ」


 彼の言葉に、私は心まで傾けた。


「アレの名は、バンダースナッチ――。

 忘れた自分を探し続ける、哀しき存在」


 ――どこかで聞き覚えのあった名称に、瞬きをする。


「彼らは、とある呪いにかけられ、半永久的に自分が何者であったのかを忘れさせられてしまっているんだ。自身の姿形からはじまり、何によろこび、何にかなしみ、何を求めることできていたのか、もはや自力では思い出せない。

 ゆえに、彼らは自分の存在の定義を他者にゆだねる」


 どういう意味だ。まだ掴みきれない。


「喜怒哀楽を問わず他者の意思を汲み取り、善悪を問わず他者が望んだ存在になるきることで、そこにあるかもしれない己の手がかりを探しているんだ」


 ――他者が、望んだ……? 「そう――」


「きっかけがどうであれ、君たちは最初にバンダースナッチを恐れた。そして危害が及び、挙げ句には殺害される未来まで想像してしまった——そうでしょう? 彼らはその、ある種の期待に応えたんだ」


 到底、受け入れ難かった。だが、論理は間違ってはいない。

 だとすればだ。彼に話しかけられる直前――そのことを思うと、ゾッと戦慄が走った。


「つまりね、君が助かる方法は至ってシンプル」彼はそう言って人差し指をピンッ、と示す。そうしている気がする。「バンダースナッチが恐ろしくない存在であることを、君が望めばいいんだ」


 確かに。

 シンプルではあった。だが難解すぎやしないか。


「ど……どうやって?」純粋な疑問から、私は初めて彼に言葉を発した。

「フフ それはね」


 そして彼は、至って真面目に、こう述べてみせた。




「歌えばいいんだよ」

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