Case3-5 少女

 ……――。

 ……――――――。

 ……―――――――――いつからだろうか。

 完璧な、闇の中をただよっている。

 藻掻もがいても何一つ掴めないこの空間の中で、ふと頭の芯の方から、焦燥が迫ってくるのを感じる。

 断続的に、満ち潮のように、寄せては引き、強まっては弱まり、だがその度に侵食を深めていくそれ。

 すると、やがて焦燥は実体を持ち始める。何も見えないはずの無空間の先に、粒ほどの大きさの「何か」がはっきりといる。

 満ち引きの拍子に合わせて、点滅する光のように現れては消え、その度にこちらへ迫り来る。

 逃げ出したい。どうしようもなく。

 声を上げたかった。

 しかし、体中は張り詰め、金縛りにあったかのように肉体は言うことを聞かない。何もできない。何もさせてもらえない。

 来る。

 「あれ」が来てしまう! 来ないで!

 私の命が終わってしまう!

 やめて!




「やめて!!」


 瞼が勢いよく開いた。

 少女は、自分で上げた声で、浅い眠りから引き起こされた。


 ふっかりとした革製のソファに仰向けで寝そべっており、お腹には冷えないようにとタオルケットがかかっている。

 息がかすかに上がっていて、心臓も無視できないほど強く鼓動していた。

 目尻を伝って、流れ落ちる感覚……涙だ。

 なんと、自分は夢を見て現実で泣いたのだ。そんなこと、今まで経験したことがない。――本来であれば、そのことにもっと驚いていたはずだ。

 しかし、今の少女には、幻涙げんるいを噛みしめているほどの余裕はなかった。


 室内の天井中心に備え付けられたスピーカー。そこから繰り返し鳴り響く、頭を振るわせるような恐ろしい警報音――目ざめた瞬間から耳に飛び込んできたその脅迫に、少女は激しく心をかき乱されていた。


 そこに突然、慌ただしげなノック音が響く。体をびくつかせて扉に目を向ける少女。

 返事を待たずして扉が開かれる。

 すると、初老と見られる男が、焦りを浮かべて室内に入り込んできた。

 青色ベースの一般警備員服を身につけた男は、足早にまっすぐ少女のもとへ。


「レナちゃん、ちょっと緊急事態が起きちゃったから、この研究所から外に出よう。ね。ほら起きて」


 そう言って少女の体を起こしソファに座らせる。

 男は床に揃えられていたポップで可愛らしい靴を手に取ると、片方を少女に手渡し、もう片方を少女の足にかせはじめる。

 少女もまた、急な事態に困惑しっぱなしのままではあったが、いかにも大変そうな警備員のおじさんに合わせて渡された靴をせっせと履き終えた。


「よしじゃあ行こう」


 準備が完了するやいなや、少女は男に手を引かれて移動を急かされる。悪夢でかいた寝汗は既に冷えていて、急に動くと服と擦れてじっとり気持ちが悪い。

 ――と、そんなことに気をとられている間に、気がつけば既に警備員用の休憩室を後にしていた。


 出てすぐの廊下をずんずんと進んでいく。

 その先に構えられている、一階エントランスホールを目指して。

 廊下とホールを隔てているものは一切無く、少女達側からも、廊下奥の広々とした空間が見える。

 普段、暇つぶしの遊び場として親しんでいる空間ではあったが、いつもと明らかに違う様子に、少女の目と頭はより冴えた。


 整然かつモダンアートテッィクなデザインで、広々としている割には人通りの少ないそのホールが、今ではたくさんの白衣を纏った人々で溢れていた。みんなが同じ方向、玄関出口の方へと流れて行っている。


 国立研究開発法人『N-GET』研究所――ここは、研究者である少女の母の職場であり、約半年前から、寝泊まりも含めた少女の生活の場となっている施設である。

 少女はここ半年間、母に見送られながら、一人で無人のオートタクシーに乗って保育施設に通い、先生に見送られながら、また一人で研究所に帰る――そんな日々を過ごしていた。


 きっかけは、研究所に引っ越すよりも少し前。母の携わっている研究がある日をさかいに急激な進歩を見せたことが理由だ。少女の言い分を借りるならば、「お母さんのお仕事がいそがしくなって、家にも帰れなくなるから!」と言ったところか。


 少女の母にとっては、悩んだ末とはいえ、他に選びようのない選択であった。

 保育施設に預けるのにも限界があるのはもちろん、何よりかのトラウマによって不安定になってしまった娘との時間がこれ以上減るのは、なるべく避けたいことだった。そうなると、忙訪ぼうほうの間は、少女と一緒に研究所の宿舎ブースへと生活の場を移すという決断は決して悪くはなかった。

 事実そのおかげで、一日の中で幾度か訪れるご飯時や、眠りにつくまでのひとときと、母娘二人は、家にいたままではおそらく失ってしまっていた時間を共に過ごすことができた。


 そして、研究所には人がいっぱいだ。少女が『一人』になることはなかったし、素敵なことに母以外にも少女に優しくしてくれる大人達はちゃんといた。

 土日のエントランスホールで、警備員のおじさんや、いかにもインドアな研究者達とかけっこをする元気な女の子の存在は、所内で少しばかり有名になっていた。


 しかし、

 何が少女にまとわりついているのか、再び不穏が首をもたげる。

 今まさに研究所では、よからぬ事態が起きているようだった。

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