Case3-4 少女

 遠くから声が聞こえる。自分の名前を繰り返し呼ぶ声。ひどく焦りの伴った声。それでもどこか、大好きな声。呼ばれているのであれば、しっかり返事をしなければ。お母さんも、保育の先生も、それが大事だと言っていた……。

 そうして少女は、おぼつかない返事をしながら目を覚ました。


 こちらを覗き込んだ少女の母の表情が、丁度安堵に包まれていくところであった。

 辺りが明るい。廊下の窓より日の光が差し込んでいた。


 母の後ろで、祖父がVブイ-リングで通話をしていて、救急車を呼んでいる。

 母と祖母に支えられつつ、少女は自ら体を起こす。痛みというほどではないが、体全体に違和感を覚えた。特に右の頬あたりがじんわりとしている。

 それもそのはずで、少女の右頬は痛々しい青痣あおあざによって変色してしまっていた。


「痛いよね。今救急車呼んでるから。大丈夫だからね」


 母はそう言って痣をそっと撫でると、少女に何があったのかを尋ねた。


 夜中にふとトイレに行きたくなったこと。暗がりの中一人で向かったこと。少女は一つ一つを思い出しながら、出来事を紡ぎ伝えていった。しかし途中で少女は急に言葉を失う。すると、今度はみるみるうちに顔がくしゃくしゃになっていって、とうとうワっと泣き出してしまった。気づいたのだ。今こうしているうちにも自分の命が終わろうとしていることに。

 突然のことで驚き慌てる母に、蛇の毒を受けたことを必死に訴えかける少女。苦しみたくない。死にたくない。ただその一心で助けをう。そうなってしまうと、今この純粋な幼子を冷静にさせる手段は一つもなかった。


 通話を終え、何事かと駆け寄った祖父が、いくらと説明しようと、少女は聞き入れることをせず、自分はもうじき死ぬのだと、それを繰り返し訴えかけることで精一杯なのであった……。


 祖父いわく、蛇の名前はアオダイショウ。無毒の種だ。

 少女が心から落ち着きを取り戻したのは、病院の先生から「死なないよ」という言葉を受け取ったあと、その言葉を飲み込むことができた帰りの車の中であった。


 その一騒動後、何か事件があったかと言えばそんなこともなく、ごくごく平穏な日々が過ぎ去っていった。

 しかし、明確に前とは違うことが一つだけあった。

 少女は、以前と比べ幾ばくか臆病になった。

 もちろん、元々の性格は変わっていない。しかし、外に出ることがあれば不安げな顔で自分の足元や背後をよく気にするようになり、草陰や森林、それに畑にもあまり近づかなくなってしまった。何より、一人になることを極端に嫌うようになった。家の中でさえ、部屋に自分だけという状況を作らないようにしたり、それが無理な時は誰かのあとをついて回ったり。


 当然のことである。あの夜を経たことによって、少女は今まで見ようとしていなかったものが見えるようになっていたのだから。それこそ別に幽霊やそういったたぐいのものではない。見ようと思えば誰にでも見えて、そして感じることができるもの。

 それは、「恐怖」そのものである。


 外に広がる自然はもちろんのこと、

 部屋の死角や、廊下を行けば背後に伸びる空間、わずかに開いた扉奥とびらおくに広がる闇間やみま、閉めたカーテンの先、

 中でも、まぶたを閉じたあとの枕元。

 少女は、ありとあらゆる場所に「蛇」の存在を見ていた。




 やがて帰りの日は訪れる。来た時同様、見事なまでの晴れ。

 車の窓が開かれるやいなや、少女は中から身を乗り出して祖父母に抱きついた。またしばらくはお別れなのだから、今のうちにたくさん大好きを伝えておかなければならない。

 色々あったが、二人に会えたことは心から良かったと思う。もちろん絶対にまた会いたいと思う。

 ただそれでも、少女は「また来なさい」という言葉に上手く返事をすることができなかった。


 母娘ははこを乗せて、車は舗装の荒い道をぐらぐらと動き出す。


 母に促されて後ろ窓をのぞけば、こちらに手を振る祖父母が見えたので、少女もまた笑顔を見せて手を振り返した。

 徐々に遠離とおざかっていく二人。それに比例して、周囲の景色が視界に中に流れ込んでくる。

 やがて二人が豆粒くらいの小ささになった頃にはあのトマト畑も見えてきた。濡れた葉々はばが日を反射し、相も変わらず快晴下かいせいもと海原うなばらのように緑色りょくしょくにきらめいている。

 やっぱり好きな景色なのだ。それは変わらない。しかし少女の頭の中には、あの緑に隠された海底にて潜む、蠢くものの存在がどうしてもよぎった。


 心に嫌なものが差し込むのを感じた少女は、畑から目を背けるように前へ向き直ると、外からは見えなくなるほどに座席へと深く深く体をうずめた。

 そのままじっと、さらにさらに畑から遠離っていくのを待つ。すると、自然と体の気が抜けていくのがわかった。心の芯から安堵が満ちていく。

 そうか。自分はようやく解放されるのだ――そんな思いが、彼女の年に似合わぬ疲れきったため息をもたらした。


 しかし、その期待は、まったくの的外れに終わってしまう。

 都会へと戻り、もとの生活に戻った少女は、それでもなお日々の中で「蛇」の存在に怯え続けることとなる。


 祖父母邸ではない、自分の家にいるというのに、夜中に一人でトイレに行くことはもうできなくなってしまった。

 それだけではない。屋内にできた暗がりを見つけると、いまだに気が張り詰めてしまう。その暗がりを見つめていると、かぱりと開いた大口から飛び出た二本の鋭い毒牙が、自分の瞳めがけて襲い来る瞬間を想像せずにはいられない。もっとも、アオダイショウにそんな立派な牙など生えていないというのに。

 保育施設の本棚にも近づくことはなくなった。動物図鑑の表紙を見たくはない。

 並べられた住宅の間を行く夜道など、とても一人じゃ歩けない。人溢れかえる街がふと鎮まる空間だ。そこにいると決まって、背後のアスファルトに突如出現する気配に追われるはめになるのだ。


 わかっている。いるはずがない。

 今までもそうだったのだ。この、ビルがひしめく青い都市に、あの生き物を見かけたことなど一度もない。

 何も不安に思うことなんてない。

 わかっている。


 わかっているはずなのに、

 それなのにもかかわらず、

 少女は自分でもわからないままおびえ続けた。

 それは何故か。


 少女は一つ、大きな勘違いをしていた。

 確かに、蛇は怖い。あの得体の知れない体の動き、そして、思い出すほどに痛みが大げさになっていく牙のイメージ。

 だが違う。それではないのだ。そんな表面的なものではない。


 少女は自分でも気づかぬ間に、心の奥底で、「蛇」に対して、蛇なんかよりももっと強い恐怖を抱いていた。

 その恐怖とは、「死」そのものである。

 少女は、蛇という存在を通して、その先にある「死」を感じ取っていたのだ。


 あの夜にて、産まれて初めて、死ぬという根源的怖れがその小さな体に鋭く刻み込まれた。それは蛇に対するものとは比べものにならないほどに支配的だ。

 ただ少女は、幼いが為にその感情の名を知らなかったにすぎない。だから無意識に蛇という名をつけざるを得なかった。


 突如姿を現し、理不尽にも命を連れ去っていく――少女にとって、「蛇」とは正に、「死」の象徴と化していた。

 この恐怖は、どこへ逃げても、影と等しくまとわりつくもの。

 いずれ鈍感になることはできたとしても、少女がこの恐怖を忘れることは、少女が生き物であり続ける限り、未来永劫不可能みらいえいごうふかのうなことなのだ。ちょうど、あなたと同じように。

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