覚醒―2


 誰もいない黄昏座に、凪とあさぎの足音だけが響く。客も役者もいない客席はがらんとしていて寂しい。前を歩く凪は、何も言わないまま、客席をくるくると歩いている。


「ねえ、琥珀は?」

「琥珀? ああ、ここにはいないし、無事よ」


 凪は、あっけらかんとそう言った。息も全く上がっていない。さっき、あさぎの元へ来た時も、演技だったのだろう。


「……間者は、凪だよね」

「ずいぶんと冷静ね」

「うん。聞いてたから」

「聞いてた?」

「あの日、寧々さんに連れて行かれる直前、佐奈ちゃんが口を動かして言ったんだ。――間者は、凪さん、って」

 凪の顔に、驚きが広がった。目を見開いてこちらを見ている。


「わたしが間者だと分かっていて、ここまで付いてきたの? どうしてよ!?」


 さっき寧々の家の前で会った時、あさぎは凪が間者であることを知っていた。だが、凪はあさぎが知っていたことを知らない。凪は自分を疑っていないから、付いてきたのだと思っていたのだろう。あさぎが理解出来ないと、疑問をぶつけてきた。


「助けたいから、凪を。佐奈ちゃんは、――間者は、凪さん。でも本意じゃない、助けてあげて、って言った。だから、来た」


 苦しげに顔を歪ませた凪を見て、佐奈が言ったことが本当であることを察する。本意ではないのに間者をしていた理由までは分からないが、あさぎは凪に手を差し出した。


「無理やりやらされてるなら、一緒に逃げよう。皆にも協力してもらって、ね?」

「そんなの無理よ。わたしは、ずっと嘘をついてきたわ。皆を騙していたのよ」

「全部が嘘じゃないでしょ? 私、優しい凪が好きだよ」


 ――さん、――さん


 ふいに、あさぎを呼ぶ声がした。時々聞こえてくる、この声。いつも雨の中にいるかのようにはっきりと聞こえないが、応えなければと、強く思う声。


「わっ」

 声に気を取られて、あさぎは一瞬、ぼんやりしていたようだ。凪に手を叩かれて、ハッとした。凪は、口を横一文字に結んで、あさぎを見つめている。


「わたしは、優しくなんてない。でも、そうなりたかった」

「凪?」

「逃げて! 今すぐ、ここから逃げて!」


 顔を覗き込んだあさぎを、凪は思い切り突き飛ばした。よろけたあさぎは、凪の気迫に押され、そのまま玄関へ走り出した。


 だが、客席への入り口に誰かが立っているのが見え、急停止した。初めて見る人で、黄昏座の関係者ではない。白髪頭で、厳めしい表情をした初老の男性。紋付の羽織を着た彼の後ろには、スーツ姿の若い男性が二人控えている。異様な威圧感があった。

 初老の男性が、手にしていた杖で床を付き、カンッと高い音が響いた。杖を持つ手には蘭の花紋――人魚だ。


「おい」

「ご当主様……っ」


 低い声と杖の音に、凪が崩れ落ちた。男性をご当主と呼び、恐怖によって染み付いた動きで、床に額を擦り付けた。遅かった、と呟くのがあさぎにだけ聞こえた。


「それが、例の記憶喪失じゃな」

「……」

 当主が、あさぎを一瞥してから、凪に問うた。凪が押し黙っていると、お付きの者が声を荒らげた。


「早くお答えしろ! ご当主様がわざわざ夜に、こんな場所にまで足を運んでくださったのだぞ!」

「……はい。そうでございます」


 凪の声は完全に萎縮しきっていて、聞いている方が息苦しくなってしまう。

 当主が、苦々しくあさぎのことを上から下まで、品定めをするように見てきた。あさぎは、気持ちが悪くて、二歩、三歩と後ずさった。


「本殿や甲族でないのに、畏怖を操れるなど、あり得ぬ。この訳の分からん小娘が原因じゃ。そうに決まっておる」

「……恐れながら、ご当主様、あさぎは関係ありません。どうか、帰してください」


 声を震わせながらも、凪は当主にあさぎを帰すように進言した。言葉を発するだけで、凪の額には薄っすらと汗が滲んでいる。尋常ではない様子に、あさぎは凪に駆け寄り、背中をさする。


「黙れ! お前ごときが意見するな!」

「ただの乙族や丙族風情の集まりが、畏怖を操れるものか!」


 付きの者が、再び凪に罵声を浴びせる。凪は消え入りそうな声で、申し訳ございません、と口にして、額を床に擦り付けた。鎌鼬の階級が上がった要因は、芝居ではなく、規格外のあさぎの存在だと、そう言っているようだ。


 どうして、凪が罵られなければならないのか。黄昏座のことだって、この人たちは馬鹿にしている。何も、知らないくせに。


「そんなことない!」

 気が付くと、あさぎは立ち上がって、当主たちに詰め寄り、言い放っていた。


「琥珀たちの努力で、鎌鼬はたくさんの人に知られるようになった。黄昏座の皆の力。乙族とか丙族とか、そんなの関係ない!」



 ――パンっ



 頬に痛みと衝撃が一度に来た。当主に頬を叩かれたのだと、一拍遅れて気が付いた。体が投げ出され、そのまま床に倒れこんだ。肩と腕をしたたかに打ち付けて、思わずうめき声を上げた。倒れた拍子に、睡蓮の髪飾りが外れて床を転がった。


「あっ」

 落下の衝撃で、花びらの一枚が少し欠けてしまった。

 当主は、あさぎに近付いてきた。その目を見てゾッとした。この人は、あさぎのことをその辺の石ころ同然に見ているのだ。

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