散―5

「初代支配人は、ある学者やって話は覚えとる?」

「はい」

「その学者の名前はかい。あたしは、魁の助手をしてたんよ。まだ東京が江戸やった頃、まあ今思えば明治の世がすぐそこまで迫ってきとった時期やね。魁は、いち早く妖の畏怖が減少するやろうことに、気が付いとった」


 畏怖を周知と改めて、怖がらせるのではなく、妖の名前を知らせることを優先すべきという提唱。江戸から明治に変わる時、それに気が付いた妖は、そう多くはなかっただろう。


「そのために、芝居小屋を立ち上げたんよ。あたしは、ずっとその補佐をしてきた。あの人の言うことは、これからの妖にとって必要やと思うたから」


 寧々が、懐かしむような慈しむような表情で、あの人、と口にした。寧々が時々口にしていた、あの人とは魁のことなのだろう。寧々に赤が似合うと言った、その人。


「寧々さんは、その魁さんのことが、好きですか?」

「えっ。ふふっ、そうやね。大事な人や、誰よりも。でも魁は、研究に夢中で前ばかり見て、隣にいるあたしのことは、全然見てくれんかったなあ」

 不満を口にしているのに、寧々の表情からは慈愛が溢れていた。寧々にとって、本当に大切な人なのだと伝わってくる。


「それでも、力になりたいと思うてた。今のよりも、もっともっと小さい芝居小屋が完成した時、名前を決めようてなってな、あの人、真面目な顔して『逢魔が時の芝居小屋』がいいやないかって言うたんよ」


 今思い出してもおかしい、と言いながら、寧々は言葉を切った。

 逢魔が時、というのは、昼と夜の間、夕方の時間帯のことで、人間にとっては恐ろしい時間帯であり、妖が一番活動しやすい時間帯と言われている。


「妖のため、って言いたかったんやろうけど、さすがに芝居小屋の名前には向いてへんて言うたわ。だから、同じ意味合いの黄昏、黄昏座はどうかって提案したんよ。そしたら、目から鱗が落ちたみたいな顔して、楽しそうに『それだ!』って叫んでたなあ」

「黄昏座の命名は、寧々さんだったんですか」

「そうやよ。魁は、頭は良かったけど、なんというか、センスが微妙やったな」

 寧々は、目を細めて窓の外にある月を見上げていた。その視線の先にはその頃の思い出が見えているのかもしれない。


「嬉しかったなあ……。魁と作ったものに、あたしが名前を付けて」

「私も会ってみたいです。その、魁さんは今どこに?」

「……」


 寧々は、何も答えず、自分の分のお茶を一口すすった。

 そういえば、魁が初代支配人だとしたら、二代目の支配人は誰なのだろう。寧々は、自分のことを、支配人『代理』と言っている。寧々が二代目ではないのか。そこまで考えて、思い出した。寧々はこう言っていたはずだ。――いずれ、琥珀が支配人になるけどな。あたしはそれまでの代理やよ、と。


「寧々さん」

「なに?」

「魁さんは、なんの妖ですか?」

「それを聞くってことは、ほとんど気付いとるんやない? 魁は、九尾の狐。琥珀の叔父にあたるんよ」


 あさぎは、息を呑んだが、どこか納得した。琥珀の叔父が黄昏座を作った。そして琥珀はそれを受け継いで、妖を救おうとしているのだ。


「琥珀が幼い頃から、魁を通じてよく会ってたからな、あたしのことも親戚の叔母さんのように思うてるんやよ。信頼というか、付き合いの長さやね」

「……魁さんと、本殿は何かあったんですか」


 寧々と初代支配人、そして琥珀との関係は分かった。だが、どうして寧々が本殿を信用していないかの答えにはなっていない。おそらくだが、琥珀も本殿を信用していない。魁を中心とした物語には、まだ続きがあるはず。そしてそれが、今の琥珀に繋がっている。


「あたしが勝手に話してええのは、ここまで。この先は、琥珀から直接聞くべきや。中途半端でごめんな」

「いえ」

「今日はもう寝よか」


 寧々は、話を打ち切って立ち上がり、布団の準備を始めた。あさぎもそれを手伝うが、頭の中は、琥珀への問いかけが現れては消えていた。

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