散―4
「着いたよ」
寧々に下ろされたのは、長屋の前だった。木造の建物が四軒分連なって建っている。その一つに、椿と書かれた小さな木の札が掛かっている家があった。ほんの少し、このまま本殿へ連れて行かれるのではないか、と考えていたからほっとした。
「ここは、寧々さんの家ですか」
「そうやよ。さあ、入って」
中に入って、畳に座り込んで、ようやく力が抜けた。どうして、こんなことに……。
「あさぎちゃん」
「寧々さん、私は本当に――」
「あたしな、琥珀から自分と反対の行動を取って欲しいて頼まれたんよ」
「え? それはどういう……?」
寧々の言う意味が分からず、あさぎはますます混乱する。寧々は、まずは温かいお茶でも飲もうか、と言ってお茶を淹れてくれた。温かい湯呑みを手渡されて、気持ちが落ち着いてきた。
「まず、あの通達を読んで、黄昏座の中に間者がおることは確定したんよ」
「私じゃないです!」
「分かっとるよ」
子どもをあやすように、優しく頭を撫でられた。あさぎはこくりと頷いて、続きを聞かせて欲しいと示した。
「あさぎちゃんの存在自体は、この間、代役をしたから知っとる者はまあまあおる。でも、記憶がないことを知っとるのは、座員だけや」
「!」
「つまり、座員の中に繋がっとる者がいるのは確かなんよ。それに、もし仮にあさぎちゃんが本殿と繋がっとるなら、あさぎちゃんに直接戻ってくるように命令すればええ話なんよ。今まで座員に気付かれんようにやり取りしてたんなら、簡単や」
「確かに……」
「そもそも、間者を入れるなら記憶喪失の者はあまりに不自然や。芝居小屋に送り込むんやったら、演技がそれなりに出来て、すぐに馴染める者を送り込んだ方がええからな」
寧々の話には納得した。だが、それが琥珀と寧々が反対の行動を取ることと、どう繋がるのか。
「誰が間者か分からん、この状況で、なぜかあさぎちゃんを引き渡すように要求してきた。あさぎちゃんを黄昏座に置いておくのは危険やと、琥珀は判断したんや。一刻も早く、間者から引き離そうとして、あんな方法になったみたいやけど」
「じゃあ、琥珀は――」
「あさぎちゃんを守ろうとしとるんよ。急を要するとはいえ、ちょっとやり方が乱暴やったけどな。全く……」
あさぎの頬にすっと雫が一筋流れ落ちた。頬から手の甲に雫が落ちてきてから、あさぎは自分が涙を流していたことに気が付いた。琥珀に疑われ黄昏座から追い出された時は、もう何もかも壊れたと思った。世界があさぎの全てを否定したかのようだった。でも、琥珀は、あさぎを信じてくれていた。守ろうとしてくれていた。
「……っ」
「あらら、こんな可愛い子を泣かせるやなんて、後で琥珀には、きつく言うておかな」
「ちが、安心、して……」
「それでも琥珀が泣かしたのには変わらんやろ」
寧々は、あさぎから冷めた湯呑みを引き取ると、新たにお茶を淹れてくれる。その背中を見つめていて、琥珀と寧々の阿吽の呼吸とも言える行動に、感心するとともに、少なからず嫉妬をした。誰が間者か分からない状態でも、琥珀は寧々のことは少しも疑わなかったということ。
緊急事態の今、妬くなんてあり得ない。でも、琥珀と寧々は分かりあっていると言った花音の言葉が反芻して、こんなことばかりが頭に浮かぶ。
「琥珀は、寧々さんのことを凄く信頼してるんですね」
つい、声に出してしまっていた。あさぎは、言ったことが取り消せるわけでもないのに、口に手を当てて、首を横に振った。
「ごめんなさい、何でもな――」
「そうやなあ、信頼というか、本殿と繋がっとるなんてあり得へん、と確信しとるだけやと思うよ」
「……寧々さんも、本殿を信用していないんですか」
寧々は、眉を下げて微笑んでみせた。それは、肯定を意味していた。
「少し、昔話をしてもええかな。黄昏座が出来た時のこと」
再び温かいお茶に満ちた湯呑みを受け取って、あさぎはこくりと頷く。窓の外はもう暗くなっていた。今日は初めて芝居小屋以外で過ごす夜となりそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます