恋雪―10

「くそっ」


 琥珀は、通路を抜けて楽屋の前まで来て、壁を固く握った拳で叩いた。苛立ちをどうにかして発散させたかった。

 何も知らないくせに、なんてよく言えたものだ。知らないのは琥珀が話していないから。当たり前のことだ。ただの八つ当たりだ。


「はあ……」

「ずいぶんと、余裕がないですね」

 いつからそこに立っていたのか、雪音がいた。苛立ちを見られていたのかと思うと少し気まずかった。


「あさぎ、可愛いですよね。一生懸命で」

「は?」

 突然、何を言い出すのかと琥珀は、雪音を凝視した。やがて、雪音は笑みを堪え切れなくなって吹き出した。


「ふふっ、すみません。ここにいたら会話が聞こえてきてしまったので」

「聞いていたのか」

「はい。座長が何を隠しているのか、僕は知りませんけど、あさぎが可哀想だと思いまして」

「……雪音は、その、あさぎを気に入っているのか」

 この聞き方が正しいのかは分からないが、聞いておかねばならないと思った。


「いい人だと思っています。でもまあ、座長が言うのとは違うと思いますよ。そもそも僕は土俵にすら上がれていませんし」

「それはどういう」

「ふふっ、いつも完璧な座長の珍しい顔が見れましたから、満足です。あの時、僕が言ったのは僕を想い人に見立てて演技をすればいいと、それだけですよ」


 つまり、あさぎは雪音を想い人に見立てたことで、恋をしている演技が飛躍的に上手くなったということ。あんな風に想う相手がいる、ということ。


「あさぎの演技、凄かったですよね。姉さんにもだいぶ刺激になったみたいです。舞台袖から、心配なかった、と言いながらもあさぎから一度も目を離しませんでした。もう新人や手伝いだとは思っていないようです。ライバルだと言っていました」

「そうか」


 あさぎの想い人、それが誰なのかが気になり、正直雪音の話に集中出来ない。

 雪音は肩をすくめて、僕はこれで、と言って自分の楽屋へ戻ろうとしていた。琥珀は慌てて引き留めた。


「雪音は、本当に、その……」

「座長、本当にらしくないですね。僕には、姉さんがいますから」


 雪音は今度こそ、楽屋に戻った。

 あさぎの想い人、それが自分ではないかと、自惚れている面もある。だが、雪音であるかもしれない。失った記憶の中にいる誰かである可能性もある。あの演技が、琥珀を見立ててされたものなら、どんなにいいか。だが、それが違う誰かに向けての表情なら、と考えただけで、腹の中が煮えくり返る。


 雪音の、らしくない、という言葉がのしかかる。


「何してるんだ、俺は」





 あさぎの代役は、初日と二日目だけだった。三日目からは花音が復帰し、以前よりも磨きのかかった芝居を見せた。長い黒髪は、舞台の上でとても美しく輝いている。花音と雪音が並ぶと、絵画のように綺麗だ。


 最終日には、二人の母が予定通り黄昏座へやってきて、雪女の芝居を見て行ったそうだ。花音も雪音も、いつも以上に緊張をしながらも、素晴らしい演技を見せた。大成功だった。


「母と話してきてもいいですか」

「わたくしも行きますわ」


 終演後、花音と雪音は待ちきれないというように、琥珀の返事も待たずに二人の母の元へと駆けて行った。抱きついている花音と、傍で誇らしそうに笑っている雪音。とても幸せそうだ。


 後片付けをしていると、隣に琥珀がやってきた。初日からこの一週間、ギクシャクしたまま、最低限の会話だけをして過ごしていた。


「琥珀、その」

「すまん、あさぎ。あの日は少し苛立っていて、本当に悪かった」

 琥珀は大げさなくらい頭を下げている。あさぎは慌てて頭を上げさせた。


「こちらこそ、琥珀のこと何も知らないのに、勝手なこと言った。ごめんなさい」

「いや、それは」

「私は、琥珀のことを知らない。だから、教えて欲しい。今じゃなくていいの。いつか、ね」


 一週間考えて、あさぎが出した答えだった。知りたいと思う。けれどそれはあさぎ自身のわがままだから。いつか教えてもいいと思ってもらえた時に聞くことが出来ればいい。

 琥珀は、何かを言いかけたが、そのまま口を閉じてしまった。でも、柔らかい笑顔になって答えてくれた。


「ああ。いつか必ず」

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