恋雪―9
今日の観客からの拍手は、格別だった。無事に終えることの出来た安堵と、まだ残っている娘役の感情がない交ぜになって、自分が自分じゃないような心地だった。
あさぎは、衣装から普段着に着替えてから、抜け殻のように舞台裏で呆けていた。佐奈が歩み寄ってきて、頭を撫でてくれた。
「”良かった。よく頑張ったね”」
「えへへ、ありがとう」
寧々も舞台裏にやってきて、あさぎを見つけると顔をぱあっと輝かせた。
「あさぎちゃん、こんなところにおったんやね。お客さんの間で、あの代役の子は誰やって話題になっとるよ! 評判だいぶええみたいやわ。よう頑張ってくれたわ、ありがとう」
「本当ですか。凄く、嬉しいです」
自分が楽しんで芝居をして、それが観客に楽しんでもらえた。何とも言えない満足感だった。雪音にお礼を言いに行こうと、あさぎはようやく立ち上がった。
「あさぎ、ちょっといいか」
「あ、うん」
琥珀に手招きされて、舞台裏から客席、玄関を通って楽屋へと続く通路を歩いた。前を歩く琥珀はなぜか無言だった。あさぎは後を付いて行くが、沈黙に居心地が悪くなって、話しかけた。
「琥珀、どうだった? 代役ちゃんと出来てた?」
「ああ」
「お客さんも褒めてくれたらしくて」
「ああ」
こちらを振り返ることもなく、平坦な返事しか帰って来ない。
「琥珀?」
呼びかけると、琥珀は通路の途中で、立ち止まり振り返った。少し怒っているような、そんな表情をしていた。琥珀にとっては、あまり良い芝居ではなかったのだろうか。
「何を、言われたんだ」
「え?」
「稽古の時、雪音に何を言われたんだ。そこから演技が変わっただろう」
「あっ……」
琥珀が何のことを言っているのか理解した。あさぎは、自分でも今顔が赤くなっているだろうことが分かった。だが、それを言うわけにはいかなかった。
――あさぎ、僕のことを想い人に見立てて演技をすればいいですよ。そうですね、座長とか
――えっ!? なんで、琥珀を
――好きなんですよね、座長のこと
――私は
雪音に言われて、琥珀のことが好きなのだと、自覚した。助けてくれた恩人で、大切な人であることは確かだった。でもそれ以上の何か、自分ではふわふわしていた気持ちが、人に言われて明確化してしまった。それも不意に。琥珀の存在はあさぎの中で一番大きくなっていたのだ。
それをきっかけに恋をする演技が良くなっただなんて、こんなこと、恥ずかしくて本人を前にして言えるわけがない。
「な、何でもないよ。ちょっと助言してもらっただけで」
「助言?」
琥珀が、距離を詰めて聞き返してくる。まっすぐ目を見れなくて、視線を壁へと逃がす。何か話を変えなくてはと頭を回転させる。
「それより、芝居って楽しいね! 自分じゃない他の人になるって面白かった」
「へえ、そうか」
琥珀の返答は淡泊だった。さすがに話を変えたのが無理やり過ぎただろうか。
「琥珀は、変化で色んな姿にもなるし、芝居もたくさんするし、楽しいこと二倍だね」
「そういうものか」
琥珀の返事がどこか他人事のようで、違和感があった。あさぎは、つい、聞き返してしまった。
「琥珀は、芝居、楽しくないの?」
すぐ傍にいるはずの琥珀が、とても遠くなったような、違和感が確信に変わるような、そんな表情だった。口端は上がって笑みを浮かべているのに、目は酷く冷たかった。
「俺は、芝居を楽しいと思ったことは、ない」
「……っ。そんなことないよ!」
背筋がゾクっとして、一瞬言葉に詰まってしまったが、あさぎは声を張り上げた。
「芝居をする琥珀は凄く楽しそうだった。私は、そんな琥珀に――」
「そう見せていただけだ。何も知らないくせに、勝手なことを言うな」
吐き捨てられるような言葉を残して、琥珀は背を向けて離れていった。一度もこちらを振り返りはしなかった。薄暗い通路で、一人で立ちすくむ。
琥珀の近くにいると心臓は落ち着かないし、でも離れると不安になる。傍にいたいと思う。それは確かな自分の気持ちだった。でも、あさぎは琥珀のことを何も知らない。黄昏座の座長。九尾の狐。あさぎを拾ってくれた恩人。芝居が上手い。……でも芝居を楽しいと思ったことはない。あさぎの知る琥珀は、それくらい。それだけだ。
もっと、琥珀のことを知りたい。髪飾りにそっと触れ、琥珀の背中があった通路の先を見つめた。
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