恋雪―6
*
そして、迎えた本番当日、十一月八日。夕方の本番に向けて、午前中に行なう最終稽古の真っ最中だった。
今回の衣装は全員が和服で、普段は洋装を着ている花音と雪音も和服姿なので、新鮮だ。娘役は淡い水色の着物で帯は白、どこか儚げな装い。若者の着物は、伽羅色に黒い羽織で、見た目の年齢よりも上の装いにしている。
「雪音、少し動きが硬い」
「すみません」
珍しく雪音が緊張している様子だった。他の芝居では、そつなくこなしているように見えていたのだが、今回はやはり特別なようだ。
「雪音、しゃんとするのですわ」
「姉さんこそ、動きが大きすぎます」
「そ、そんなことありませんわ」
雪音の言う通り、花音は気合いが入っている分、稽古の時よりも大きく動いているように思える。黒髪がふわりと広がっているのがその証拠。琥珀のもう一度、という声に応えて、二人は同じ場面をもう一度演じ始めた。娘が若者の手を振りほどいて、立ち去る場面。
『お願いだ。僕には君の冷たいその手が愛おしいんだ』
『嬉しく思います、でも、わたしは……っ』
娘は、若者から顔を背けて、走り去る。そのまま袖に捌けていく。だが、少し大回りになってしまっている。いつもより舞台の端に近い。――危ない。
「花音ちゃんっ!」
「きゃあ!」
あさぎが慌てて声を上げたが、遅かった。舞台から落下してしまった。ドサっと花音の体が床に落ちる音がした。
「姉さん!!」
雪音が顔を真っ青にして、舞台を降りた。一瞬にして、その場に緊張が走った。
「痛っ……」
花音が足首を押さえて、客席の升の中でうずくまっている。寧々が素早く駆け寄って、状態を確かめる。
「痛いところは?」
「足、ですわ」
「……足首を捻っとるみたいやね。骨の異常はなさそうやし、大事には至らんやろうけど、今日は安静にした方がええな」
「でも! 一週間後にはお母さまが」
「もし今、無茶をすれば、それこそ一週間後の芝居に立てんくなる。それでもええの?」
「……っ」
花音が唇を噛みしめて俯いた。床には、雫がぽたりと落ちて染み込んだ。聞こえるかどうかの小さな声で、申し訳ございませんわ、と呟いていた。悔しいのは、花音自身だろうに。
「琥珀」
「座長」
視線が琥珀に集まる。琥珀がどういう判断をするか、その場の全員が息を呑んで待った。
「……花音」
「はい」
「花音のこの芝居にかける想いが理解しているつもりだ。だから、足が回復すれば一週間後の芝居には出す。だが、今日は代役を立てる」
「分かり、ましたわ」
回復さえすれば芝居には出られる安堵と、今日は出られない落胆が混ざり合った、苦しい表情で、花音は頷いた。
「凪はどこにいる?」
「本家の定例会で呼ばれて、今日は来られへんて言うてたよ」
「ああ、そうだったな。どうするか……」
琥珀が顎に手を当てて、悩んでいる。琥珀は、若者の新しい婚約者の役で、女学生の変化をした状態で出ることになっているため、代役は出来ない。
「寧々さんは?」
あさぎは寧々の名前を上げて提案するが、首を横に振られてしまった。
「雪女は年を取るのが人間より遅いって設定を入れとるんよ、この物語では。やから、若者役の雪音くんよりだいぶ年上に見えてしまうあたしじゃ、矛盾が出てしまうんよ」
琥珀は別役がある、寧々も出られない、佐奈は話すことが出来ないから出られない。となると。
「誰も、いない……?」
「中止に、なりますか」
雪音が落胆したように、そう質問した。が、花音が初めて聞くような鋭い声で遮った。
「駄目ですの! 中止は、駄目ですわ。やはり、わたくしが出ま――くっ」
花音が立ち上がり、一歩踏み出したが、足に痛みが走ったようで顔を顰めた。このままでは、花音が無茶をしてしまう。
中止、という選択肢が迫ってきている。誰もそれを望んでいないが、代役がいなければ、中止するしかないのだ。
――いや、代役が出来る者が一人、いる。ここに。
「私が、やる」
手を固く握りしめて、あさぎはそう宣言した。
「あさぎ? 待て、本番は今日なんだ。稽古の時間はあと少ししかない。そもそも、台詞は――」
琥珀は、そこまで言って、はたと止まった。琥珀の言葉を、雪音が引き取って続けた。
「あさぎは、台詞を全て覚えていますよね。舞台袖で手伝いをしてくれていましたけど、一度も台本を見ていませんでした」
「覚えてる。台詞も、動きも」
あさぎは、力強く頷いた。稽古の様子をずっと見てきた。花音の演技はこの目で見てきたのだ。
『お願いだ。僕には君の冷たいその手が愛おしいんだ』
雪音は、さっきまで稽古をしていた、若者の台詞を口にした。続けてみせるよう、目線で促された。
あさぎは、一度目を閉じる。頭の中で、花音の台詞、口調、表情、動きを探し、引っ張り出した。ゆっくりと目を開ける。
『嬉しく思います、でも、わたしは……っ』
あさぎの口からは、娘役の台詞が紡ぎ出された。嬉しさと躊躇いの表情、そして、走り去る動作。花音の演技を、あさぎは完璧に再現してみせた。
一瞬、その場が静まり返った。全員が、あさぎに視線を注いでいた。いや、目が離せなかった。声を奪われたかのように、誰も声を発することが出来ない。
「あ、あの、やっぱり駄目だった?」
沈黙に不安になったあさぎは、演技をパタリと止めて、皆の様子を窺った。
ようやく声を取り戻した琥珀は、皆の中に満場一致であっただろう決定事項を口にした。
「代役は、あさぎでいく。すぐに稽古をする。時間がない、急げ!」
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