つむじ風―4



 打ち合わせから五日後。あさぎは、脚本を書いている佐奈に、お菓子を差し入れに行こうとしていた。何か手伝えることはないかと寧々に尋ねてみたら、作業中の差し入れは助かるんよ、と言われた。それならば今一番、作業をしているであろう佐奈に持っていくことにした。


 佐奈の楽屋を覗いてみたが、誰もいなかった。色んな部屋を探して、大部屋でやっと見つけた。もう一人、凪も大部屋にいた。


「佐奈ちゃん、お菓子持ってきたよ。凪も良ければどうぞ」

「”ありがとう”」

「ありがとう。あさぎも何か作業?」

 あさぎの声を聞いて、凪は持っていた紙から視線を上げた。


「ううん、私は佐奈ちゃんに大福を差し入れようと思って。楽屋にいなかったから探しちゃった」

「”ごめんなさい。誰かがいた方が、執筆進むから”」

「へえ、誰かがいた方がいいんだ」

 凪がそれを聞いて、意外そうに、わたしも、と言った。


「わたしも、誰かがいた方が作業にはいいのよ。良かった、佐奈も同じなら、わたし邪魔にはなっていなかったのね」


 佐奈が笑顔で頷いている。二人とも、作業をするためにこの大部屋に来ていたようだ。凪の手元の紙には、五本線に黒い雫が踊っている。


「凪、それは?」

「今度の鎌鼬の芝居で使う歌、になる予定の楽譜よ。佐奈に先に指示をもらって作り始めたところよ」


 凪がこちらに見えるように紙を向けてくれた。五本線の外側には、もう少しゆっくり、感情を伝える、などメモ書きがたくさんある。芝居で使われる歌が今まさに作られているところなのだ。


「この辺りを迷っていて、どう思う?」

 凪は紙を持っていない方の、手袋をしている方の手で五線譜のある箇所を指さした。が、あさぎは楽譜を読めないため、申し訳なく思いつつ、首を振った。


「ごめん、分からない」

「じゃあ一度歌って、それで判断してもらおうかしら。でも、まだ聞いてもらえるほど完成していないのよね」

 凪は、手袋をした手を顎に当てて悩んでいる。そういえば、初めて会った時から、凪は手袋をしている気がする。


「凪っていつも手袋してるよね」

「ああ、これね。昔、手に大怪我してその傷跡があるのよ。あんまり見られたくなくて」

「そうだったんだ、ごめん」

「別に謝ることじゃないわ」


 凪はさほど気にしていない様子で、大福に手を伸ばした。白い粉がふわりと舞い、楽譜がうっすらと雪が降ったようになってしまった。


「あらら、休憩にしようかしら」

「佐奈ちゃんもどう?」


 佐奈にも声を掛けるが、集中しているのか、反応がない。万年筆がカリカリと机の上を滑る音だけが返ってきた。下を向いて執筆しているから、眼鏡がずれてきて書きづらそうだ。あさぎは、佐奈の肩を軽く叩いた。


「佐奈ちゃん、眼鏡で書きづらそう。外したらやっぱり見えないの?」

「”そうじゃない。聞こえすぎるから”」

「聞こえすぎる?」

 あさぎの疑問に答えたのは凪だった。


「佐奈の眼鏡は特殊なもので、それを掛けることで、心の声が少し聞こえにくくなるらしいわ。覚の家で特別に作られているものだそうよ」

「そうなんだ」

「それにしても、本当にあさぎと佐奈は会話が出来るのね。少し羨ましいわ」


 凪は、あさぎと佐奈と交互に見比べた。佐奈は、机から顔を上げて、微笑んだ。休憩にしましょう、と凪から渡された大福を受け取ると、佐奈の目がキラキラと輝いた。もし三つ編みに意志があれば嬉しそうに大きく揺れたところだろう。


「ねえ、佐奈。わたしたち筆談でお話しない?」

「筆談?」

「佐奈はあさぎと話しているし、脚本を通じてわたしたちとも意思疎通をしているわ。脚本に書いている佐奈からの指示の覚書を見て演技に取り入れているし、近いことはやっていると思うのよ」


 大福を食べる手を止めて、佐奈は考え込んだ。あさぎも大福を食べようと口元に大福を運ぼうとしていたが、つられて動きを止めた。しばらくして、佐奈は小さく首を横に振った。


「そっか。やっぱり家の目が怖い?」

 佐奈が頷く。


「”禁じられているから。脚本はギリギリ。筆談だと形に残って、見つかった時、怖い”」

 佐奈の口元から読み取ったことを、あさぎはそのまま凪に伝えた。凪は、うーんと唸った後、肩の力をすっと抜いた。


「佐奈がそう言うのなら、無理強いは出来ないわ。わたしも気持ちは分かるもの」

「え?」

 覚の家の決まりのことなのに、凪は気持ちが分かると言った。あさぎは思わず聞き返していた。


「……落ちこぼれなのよ、わたし。だから、家の目が怖いっていう気持ちが分かるわ」


 凪は、眉を下げてほのかに笑った。凪のこんな自虐的な笑顔は初めて見た。あさぎは聞き返したことを後悔しながらも、何も言えなかった。


「人魚の第六感は、歌で気を乱すこと。人間はもちろん、妖にも効くわ。凄い人なら気絶させることも出来るわ。でも、わたしは、ほんの一瞬、眩暈を起こさせる程度。あ、もちろん、芝居の時は第六感を使わないわよ」

「……」

「本邸に住めなくて、一人で、宿屋で暮らしているわ。気楽でいいけれど」

「凪、その、ごめ――」

「これこそ、謝ることじゃないわ。わたしの場合、父が本殿の一員だから、一族に落ちこぼれがいることを隠したいのよ」


 本殿は妖の政府で、絶対的な存在。数多くの妖の頂点にあるが、江戸の頃は中立・不干渉を掲げ、最低限の統括だったらしい。それが明治に入ってから徐々に過干渉になってきたと寧々が嘆いていた。

 それよりも、本殿にいるということが、自分の子どもを遠ざける理由になっていることは、とても悲しい。


「だからね、わたしは琥珀に感謝してるのよ。何も出来なくて一人になってたわたしを、仲間にしてくれた。いつか、蘭の家にも認めてもらえるよう、頑張るわ」

「”佐奈も。誰かと会うことが怖くて、学校も行けなくて。でも、寧々さんに連れ出してもらった。ここは居ていい場所”」

 凪も佐奈も、ここに琥珀や寧々に救われてここに居るのだ。それはいいことだ。でも。


「……っ」

 あさぎは、溢れ出て来る気持ちを、唇を噛みしめて抑え込んだ。気を抜くと目から悔し涙が零れてしまいそうだった。


「もう、どうしてあさぎがそんな顔してるのよ」

「だって、凪は優しくて演技も出来て、佐奈ちゃんは物語が書けて可愛くて、二人とも、すごく素敵な人なのに……。家とか、第六感とか、そんなことで、二人が悲しい思いするなんて、おかしい……おかしいよ」


 一度口に出してしまえば、決壊したかのように言葉が溢れてきた。まだまだ言い足りないのに、声が突っかかって上手くいかない。


 ふと、体が包み込まれた。凪が、幼い子をあやすように、あさぎの背中をさすってくれている。佐奈も、手を握ってくれている。


「ありがとうね、あさぎ。わたしたちにはもう当たり前のことなのよ。でも、わたしたちのために、怒ったり悲しんだりしてくれるのは、嬉しいわ」

「”ありがとう”」


 お礼を言われて、何だか複雑な気持ちだった。もっと二人は怒ってもいいと思うのだが。当たり前なことに怒れないというのなら、今だけは、自分に記憶がないことが役に立ったのかもしれない。

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