睡蓮の花―7

 徐々に陽が傾き、客が増えてきた。受付の前を通る人も重なるようになってきた。あさぎは、切符を見逃さないように、注視していた。


「あの、これが落ちていました」

 ふと、学生らしき青年が声を掛けてきた。手には、一通の封筒。落とし物を届け出てくれたようだ。


「ありがとうございます」

 あさぎは、それを受け取り、青年の切符を確認して中へ促した。あさぎの手にある封筒を見て、佐奈が顔を顰めた。


「”また、この手紙”」

「これがどうかしたの、佐奈ちゃん」

「”最近、凪さんと花音さんに、いやがらせの手紙が、来る。二人とも、怖がってる”」

 それを聞き、あさぎは封筒から手を離し、台の上に乗せて遠ざけた。



 客の波が落ち着いたところで、琥珀がやってきた。

「大丈夫だったか……ってまたこの手紙か」


 封筒を見た途端、琥珀も顔を曇らせた。佐奈が悲しそうにこくんと頷いた。


「佐奈さん、これを届けたやつの顔は分かるか?」

 ふるふると首を横に振る佐奈。


「まあ、そうだよな。これだけ人がいれば。そもそも拾って届けたやつは毎回、人相が違うらしいからな。どうしたものか」

「あの、琥珀」

「ああ、ここはもう大丈夫だ。助かった。約束通り、芝居を見て来るといい」


「そうだけど、そうじゃなくて。手紙を届けてくれた人は、左側後ろ寄りに座っている学生さんだよ。でも、手紙を落としたのは、前の方にいる、外套を着た男の人」


 あさぎは、琥珀にも分かるように客席を指さしながら、説明した。琥珀は、ぽかんとした表情で、客席とあさぎを交互に見た。


「見えて、いたのか」

「うん。鞄から手紙を出したのに、そのままわざと下に落としたみたいだったから、変だなって思ってた。ちゃんと切符は持っていたから、気にしてなかったけど」


「人混みの中、たまたまその瞬間を見ただけでも凄いのに、顔まで正確に覚えている? まさか」

「……疑ってる?」

「いや、驚いただけだ」

 くいっと袖を引かれ、佐奈の方を見ると、唇を動かした。


「”琥珀さん、疑ってない。信じてる”」

「うん」


 佐奈は、再び琥珀に疑われているのでは、と不安になったあさぎを安心させるために、そう言ってくれた。続けて、真剣な表情で聞いてきた。


「”花紋は、分かる?”」

 もしも階級が上の者なら、解決に手間取ってしまうかもしれない。佐奈はそう言いたいのだろう。あさぎは目を閉じて、細い糸を手繰り寄せるように、その時のことを思い出す。男の手の甲に意識を集中し、そして、見えた。


「藤。花紋は、藤だったよ」

「藤ってことは狸か。狸とは相性悪いんだが、そうも言っていられないな。行ってくる」


 琥珀は、あさぎの示した男の元へと歩いて行った。あさぎは佐奈と共に、遠巻きにその様子を見守る。話しかけられた男の方は、ひどく慌てた様子で立ち上がり、その場から立ち去ろうとしたが、琥珀がそれを阻止し、表玄関まで連れてきた。ここでは、人目があるからと裏まで連れて行くことにしたらしい。



 芝居を見ていいと言われていたが、手紙の主がどうなったのか、気になる。もうほとんど人は来ないから大丈夫だと言われ、受付を佐奈に任せて、あさぎは琥珀を追いかけた。


「琥珀!」

「ん? 来たのか。芝居は」

「だって、こっちが気になって」

「そうか」


 琥珀は、裏口の畳に仁王立ちして、縮こまっている男を見下ろしていた。すみませんでした、と男は細い声で言っている。


「手紙の主はこの男で間違いなかった。が、いやがらせではなく、ただ応援する気持ちをしたためただけだったらしい」

「え、でも、凪も花音ちゃんも怖がってるって」

「それが……字があまりにも不格好で、呪いの文字か何かだと思っていた。俺も含めて」

「じゃあ、どうしてわざわざ手紙を落としたりしたの」

 男は、肩を震わせて、細々とした声で答えた。


「ぼくのような丙族からの手紙なんて、読んでもらえないと、思ったので」

「はあ……」

 琥珀の長いため息が空間を覆った。男は、さらに体を縮こませて、すみませんでした、と繰り返している。男のことが不憫に思えてきた。


「ねえ、琥珀」

「分かってる。いやがらせが目的なら出禁にするつもりだったが、応援している者を追い出すことはない。本人たちには、俺から説明しておく。手紙は、字を改善させてからにすること、いいな。……いつも応援、感謝する」

「は、はい……! ありがとうございます」


 男は何度も頭を下げて、礼を言った。そして、途中からでもいいから、芝居を見たいと懇願し、琥珀から許可されると、裏口から出て走って戻っていった。


「本当に、凪や花音ちゃんを応援してるんだね」

「途中からの観劇になったから、もう一度招待するべきだろうな。終演後に捕まえるか」

「そうだね」



 あさぎも客席に行こうかと思ったが、騒動がひと段落して力が抜けてしまった。ふにゃりとその場に腰を下ろした。


「あさぎ、大丈夫か?」

「大丈夫。少し、疲れただけ」

「ありがとう。あさぎのおかげで、最近の悩みの種だった手紙が解決した」

「そんな、私はたまたま見ていただけで」

「いや、本当に助かった。もう一度芝居を見せる約束は、繰り越しだな」


 琥珀がからからと笑う。その表情は、ほっとしたようにも見える。


 役に立てた。そのことがとても嬉しく思えた。もっと、誰かの役に立ちたいという思いが内側からむくむくと湧き上がってきた。記憶を失くす前、そうしてきたような気がする。

 ふと、琥珀は何かを考える表情になり、あさぎの顔を、目をじっと見つめてきた。


「な、なに……」

「もしかしたら、あさぎは、目にまつわる妖なのかもしれない、と思ってな。さっきの手紙のことも、佐奈の口の動きが分かるのも、目がいいという共通項でまとめられる」

「目がいい、妖……」


 昨日も今日も聞こえた、誰かが自分を呼ぶ声、あの声に答えなければならないという思いが、強く在る。自分自身を思い出さなければならない。


 役に立ちたいという思いはある。だが、自分が何者なのかも分かっていないのに、誰かのためだなんて、とも思う。


「ねえ、琥珀」

「ん?」

「私、自分が何者なのか思い出したい。それと同じくらい、誰かの役に立ちたいと、思う。……変かな」

「いいや。変じゃないと思う」


 琥珀は、柔らかく微笑んでそう答えた。見透かすような目でも、愉快そうに口端を上げるでもなく、優しい顔だった。胸が小さく跳ねた、気がした。いや気のせいかもしれない。


 あさぎは、どちらも叶えるため、決断をした。


「琥珀、私をここに置いて欲しい。雑用、手伝い、何でもする。お願いします!」


 あさぎは、立ち上がって琥珀に頭を下げた。ここで、役に立ちたいのだ。畳が広がっていた視界の中に、手のひらが現れた。あさぎは顔を上げる。


「ああ、これからよろしく、あさぎ。黄昏座の一員として」


 まるで、あさぎがそう言うことを予想していたような口調だった。あさぎは、琥珀の差し出した手を握った。この握手をもって、あさぎは黄昏座の一員となった。

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