睡蓮の花―2
「そうや、あさぎちゃん。変な噂に巻き込んでしまったお詫び、になるか分からんけど、黄昏座を見学していかへん? 案内するよ」
寧々の口調は、ほわりと相手を安心させるようで、いつの間にか力んでいた肩が解れた。こくりと頷いて答えた。
「はい、ぜひ」
「じゃあ、俺も一緒に」
「えっ」
「嫌か?」
言葉に詰まったまま固まっていると、琥珀が、そうか、と一人で何か納得していた。
「俺も、花音と同じく黄昏座のためとはいえ、あさぎを疑ったわけだ。気を悪くして当然だな。悪かった」
「……うん」
今、謝罪をしている琥珀の様子は演技には見えなかったし、ちゃんとこちらの気持ちを汲んでくれている、と思う。
「お詫びに、あさぎの言うことを何でも聞く。俺に何をして欲しい?」
「いいよ、もう」
「本当か?」
そう聞いてくる琥珀の顔が近付き、あさぎは思わず視線を外した。見透かすような目も、わずかに上がった口端も、背中がくすぐったくなってくる。
「じゃ、じゃあ、もう一度芝居に招待して欲しい」
「分かった」
琥珀は意外そうな表情を一瞬だけ見せたが、嬉しさを滲ませた顔で了承した。
「よし、見学に行こかー! まあ、そない大きい所やないけどな」
話がまとまったのを確認して、寧々が両手をパンと打った。分かりやすいようにと、見学は最初に入った裏口から始めることになった。
「ここは座の皆が出入りする裏口やよ。土間と、畳を敷いたちょっとした空間があるんよ。身支度を整えたり、雑談したりもするわ」
昨日、ここで凪や花音とも話した。芝居小屋の中と外を繋ぐ、中間地点のようなものだろうか。
そこから、中に向かって真っすぐに廊下が続いている。木目が綺麗な廊下を進むとすぐに左側に細い通路があった。そこは通り過ぎて、廊下をさらに進む。
「この廊下に面したところに楽屋とか、衣装、大道具や小道具の部屋がある。新作を作る時は泊まり込みで作業をすることもあるな」
琥珀はそれぞれの部屋を指で示しながら教えてくれる。各部屋は、あさぎが泊まった部屋も含めて、木枠に擦りガラスがはめ込まれたもので、雰囲気が統一されている。
廊下の端まで行くと、また左側に分かれていた。
「この廊下は、舞台をコの字型に囲むようになっとるんよ。この壁の向こうが舞台なんよ」
寧々が白い壁を触りながら説明してくれる。
「この細い通路は客席に繋がっているんですか」
「いや、この通路も、客席のある空間とは壁で仕切られていて、さらに進むと、表玄関の方に出る」
おいで、と言われて琥珀に手を差し出される。あさぎはその手に自分の手を重ねて、一緒に通路を進む。二人が並んで歩くには少し狭く、上の方に明かり取りの小窓があるだけだった。上を見ていたら転びそうになり、後ろから空いている手を掴まれた。
「狭いから気を付けてな」
「ありがとうございます」
両手を繋いで、少し気恥ずかしい気持ちもあったが、探検をしているみたいで、楽しくなってきた。
通路を抜けると視界が一気に開けた。両手を離して、辺りを見回す。昨日、花音に連れられて入った、表玄関に出てきた。受付があり、切符を見せ、客席に向かった、あの場所。今日は時間が早いからか、客の姿はない。
「あっという間に案内終わってしまったなあ」
「楽しかったです!」
あさぎは満面の笑みで答えた。知らない場所を探検して、わくわくした。
「そう言ってもらえたんやったら、良かったわ。さて、まだ開演まで時間あるし、どうしようか」
「今日の芝居は、寧々さんは出るんですか」
芝居の話題になり、あさぎは目を輝かせて聞いた。今日のは昨日とはまた違うものらしい。昨日は出番が少しだった寧々の演技をもっと見たいと思っていた。
「出るよ。遊郭を舞台にした恋物語で――あっ、衣装を調整せなって言われてたん忘れてた」
「寧々さん、大事なこと忘れないでくれ……今双子いないってのに」
琥珀が頭を抱えてため息をついている。どうしてここで双子のことが出てくるのだろうと、あさぎは首を傾げた。
「あの二人がいないとだめなの?」
寧々が眉を下げて、そうやの、と返した。
「黄昏座は、人数が少ないから、役者と裏方を兼任しとるんよ。あの二人は衣装担当やの」
「なるほど……」
「ちなみに、琥珀は演出全般。凪ちゃんは小道具と必要なら歌も。あともう一人、脚本と音響照明の裏方を一手に引き受けてる子がおるんよ、役者はしやんけどな」
「寧々さんは?」
「あたしは、支配人代理。表向きのここの代表で、運営と宣伝を主にしとるんよ」
でも、琥珀が座長、と言っていたのに、と思ったが、それが顔に出ていたらしい。あさぎが何か言う前に、琥珀が付け足した。
「座長っていうのは、演出をしているからっていうのと、寧々さんが、あくまで長は俺だと言ったから、そうなってる」
「いずれ、琥珀が支配人になるけどな。あたしはそれまでの代理やよ」
「……」
琥珀はなぜか押し黙ってしまった。次の瞬間には、寧々の言葉は聞かなかったことにして、話を戻した。
「衣装、どこを調整するのかくらいは見ておかないとな。ほら、寧々さん」
「そうやね。あさぎちゃん、小屋の中、好きに見とっていいからな」
「はい」
琥珀と寧々は、先ほどの通路を戻っていった。楽屋と並んであった衣装部屋に向かうのだろう。表玄関に一人残されたあさぎは、言われた通り、中を見て回ることにした。
誰もいない客席を見てみた。試しに一番前に座ってみたが、もしここで芝居を見たら、自分もその世界の中にいるかのような錯覚を起こしそうだ。様々な場所に座って、そこから見る芝居を想像し、一人にこにこと笑っていた。
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