第二幕 睡蓮の花
睡蓮の花―1
「――さん」
誰かに呼ばれている。
「――さん」
遠いのか、聞き取れない。ふと、声が離れていく。
「待って!」
あさぎは、天井に手を伸ばした状態で、目が覚めた。一瞬、ここがどこなのか理解出来なかったが、すぐにここが黄昏座の楽屋であったことを思い出した。
「……昨日のこと、夢じゃなかったんだ」
「夢やないよ~」
「!?」
部屋の中から、返事が聞こえてきて、あさぎは文字通り飛び起きた。女性が部屋に置かれた座椅子に座っていた。
「よう寝てたなあ」
ゆったりとした口調で話す女性は、二十代中頃で、昨日会った黄昏座の人たちよりも年上に見える。短い栗色の髪に、鮮やかな赤色の小袖で、とても艶やかだ。
「初めまして、あさぎちゃん。琥珀から聞いとるよ」
「は、初めまして。お邪魔しています……」
「いいえ。ゆっくり休めたようで何よりやわ」
あさぎは、女性の顔を見て、あることを思い出した。
「あ、昨日の、赤いドレスの人」
「あら、覚えててくれたん。嬉しいわあ」
昨日見た芝居で、一番初めに若旦那に声を掛ける、真っ赤なドレスの女性を演じていたのは、この人だった。ということは、この人も黄昏座の役者。
「あたしは、支配人代理の
あさぎは、寧々の手の甲の花紋を見た。そこには椿の花の紋があった。丸い囲みはなく、椿の花と葉が共に描かれている。
琥珀たちも、この花紋と同じ苗字を名乗っていた。
「あの、花紋と苗字が同じなのは、偶然なんですか」
「偶然やないよ。あたしたちの苗字は、花紋を使う決まりになってるんよ。この花は、狐とか雪女とかの種族によって決まっとる。家ごとに形は少しずつ違うけど、花は同じなんよ」
「へえ……」
「やから、紋を見るか、苗字を聞けば種族、つまり何の妖か分かるんよ。ちなみにあたしは、猫又の妖。よろしゅうな」
「よろしくお願いします」
あさぎ自身の花紋は限りなく薄いから、何の妖かも判別出来ないということらしい。それとも、記憶がないから紋が薄いのか。
「少しよろしいですか」
部屋の外から、声が掛かった。あさぎにとっては聞き覚えのない声だったが、寧々はどうぞ、と返事をした。
入ってきたのは、長い黒髪を頭の上の方で結い上げた者だった。黒いパンツにベストを合わせた洋装姿で、花音とよく似ているが、少年だった。
「ほら姉さん、何で隠れているんです」
「……」
少年の後ろから、花音が顔を出した。何やら落ち着かない様子で、あさぎをチラチラと見ている。
「あさぎ、というのはあなたですか」
こくりと頷いてあさぎは肯定を示した。
「僕は花音の双子の弟、
「だって……」
双子、と聞いて納得した。二人は本当によく似ている。雪音が髪をほどいたら、花音と瓜二つだろう。
雪音が後ろから花音を引っ張り出した。花音は手を前で組んで指をぐるぐると動かしている。気まずいらしく、あさぎと目が合うと、パッと下を向いてしまう。
「花音ちゃん?」
「その、昨日は、申し訳ございませんでしたわ」
花音が申し訳なさそうに頭を下げた。あさぎは何のことかと首を傾げて、寧々と顔を見合わせた。寧々も知らないらしい。
ゆっくり頭を上げた花音が、説明をするために口を開いた。
「竜胆家から、この黄昏座に間者が紛れ込んでいるという話を聞かされましたの。ですから、昨日はあなたのことを過剰に警戒してしまいましたの」
「今日になって、僕たちを黄昏座から引き離したい親戚による、根も葉もない話だったと分かったんです」
「……本当に、申し訳ございませんわ」
雪音からの補足も交えて、花音は説明の上、もう一度謝罪した。あさぎは、花音の態度の理由が分かり、安心したくらいだった。
「いや、そんな」
「その話なら、山吹家でも聞いたな」
廊下から琥珀の声が聞こえてきた。どこから話を聞いていたのか、琥珀は少し楽しげに入ってきた。
「そうだったんですか」
「ああ。だから記憶喪失だと聞いてからは、一応警戒はしていた。疑わしいなら、一度内側に入れた方が分かる」
だから、琥珀は昨日あさぎを泊めることにした、ということらしい。それを聞いて、なぜか悲しいような悔しいような変な気持ちになった。
寧々が、この場を代表するように、琥珀に問いかけた。
「それで、座長の判断は?」
「白。そもそも間者の話、問い詰めたら出所の分からない噂だと。おそらく竜胆の誰かから中途半端に聞いたんだろうな」
花音と雪音が揃った声で、申し訳ございません、と言った。琥珀は、二人のせいじゃないと軽く流すと、時計を見た。
「ほら、二人とも遅刻するぞ。……ああ、そうだ。今日の芝居、雪音が主役だからな」
「分かりました」
二人は、一礼してから、パタパタと楽屋を出ていった。
「花音ちゃんと雪音くんは、初等中学に通っとってな。ある程度裕福やないと通われへんから、家からの期待も大きいらしいわ」
「さっき聞いた通り、親戚の中にはここに来ることを反対しているやつもいる。成績首位を取り続けることを条件に、何とかここに来れている」
「そうだったんだ」
それほどまでの努力をして、黄昏座に来ているのなら、それを脅かすかもしれない存在を、見逃すなど出来ないだろう。花音の気持ちに少しだけ近づけたような気がする。一方で、琥珀の考えていることが分からない。昨日、花音と同じように疑っていたのに、笑顔で迎え入れてくれ、信用するようなことを言った。
ちらりと琥珀の顔を見たら、ちょうど目が合ってしまった。微笑みながら、どうした、と目線で問い返された。こちらの考えていることを見透かされているような気さえしてくる。
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