虫歯

あべせい

虫歯



 街の小さな歯科クリニック。

 医師の俳枝(はいえだ、35)が、女性患者(35)の口の中を覗きながら、

「どうしました?」

 女性、口を大きく開けたまま、

「アーアー、いあくて……」

 俳枝、患者の口の中に指を入れて、いじりまわす。

「これはァ……抜くしか、ないですね」

「うく、れすか?……やめてくらさいッ!」

「痛いッ!」

 患者が思わず、口を閉じたのだ。

 俳枝、噛まれた人差し指を見つめる。

「奥さん……」

 患者、俳枝にペコリと頭を下げる。

「すいません、先生……」

「きょうの治療は終わりです!」

「そんなッ、先生! このままにしちゃうンですか」

 俳枝、マスクを外す。

「交代! やってらンないよ。奥さんは、これで2度目だ」

 患者、眼を丸くして、

「2度目、だった、かしら?」

「先々月の学会で、歯科大を卒業してから10年ぶりに会っただろう。そのとき、『虫歯の治療はどうやっている?』という話になり、お互い困っていたから、『じゃ、昔のように治療し合おう』と決めた。それで、きょうがその初回だけど、研修医時代、同じことをしたとき、奥さんはいまのようにぼくの人差し指を噛んだンだよ」

「覚えていないわ。そんなこと」

「奥さんは、昔から三拍子揃ったガリガリ亡者だった」

「ガリガリ亡者、って。 私、そんなに欲深?」

「痛ガリ、怖ガリ、恥ずかしガリ……」

「俳枝クン。痛い、怖い、恥ずかしいは、女性の特権よ。それがないと、女性らしさは維持できないの」

「しかし、削っても抜いてもいないのに、痛いッ、って叫ばれたら、治療なンかできやしない」

「黙っていたら、俳枝クンは、やりそうだから」

「奥さんのその犬歯は、実際グラついているンだから、抜く以外に方法はないじゃないか。ぼくがいまここで抜いてあげる」

「ほら、抜きたがっている。あなたも昔から三拍子揃ったガリガリ亡者よ。虫歯を見れば抜きたガリ、お金を見れば使いたガリ、女性を見れば……これはいいわ。それに、さっきから気になっているンだけれど、どうして、私が『奥さん』なの?」

「10年ぶりに会ったとき、苗字が変わっていただろう。だから……」

 俳枝のことばに被せて、

「だから、亭主持ちと考えた、ってこと?」

「そうだけど、離婚したの?」

「この前、言わなかったかしら。死別よ。間違わないで」

「それは、ご愁傷さま……」

「いいの。30才も年上の開業医の家に後妻として入ったのはいいけれど、夫は内科医だった。私は、勤めていた滋養会赤塚中央病院でしばらくそのまま勤務医を続けていた。それが結婚3年目の去年の暮れ、夫が心筋梗塞で突然死。私は夫の内科医院を歯科医院に改装しようとしたのだけれど、夫の前妻のこども、といっても、私と同い年の外科医だけど、その義理の息子が、夫の医院を引き継ぐといって看板を外科医院に掛け直して、いまに至っているわ」

「そうか。この前、一度聞いたンだっけ。でも、あのときは夢中で、頭に入らなかった」

「あなたは、ベッドでは頭が空っぽになるから、何を言ってもダメね」

「相続では、もめただろうな」

「そうよ。元々、義理の息子には結婚のときにも猛反対されたから、覚悟はしていたけれど、夫の遺言書を開けたら、私には現金だけ。内科医院を含む夫の屋敷と土地は、夫が私と結婚する前に、義理の息子の名義に変わっていたわ」

「3年の結婚生活じゃ、贅沢は言えないよ」

「あなたは、どうなの? この歯科クリニックは最新の設備があって真新しいけれど、あなたの器量じゃなさそうね」

「味由(みゆ)ちゃんは相変わらず、ズバズバ言うね」

「味由なンて呼ばれるの、何年ぶりかしら?」

「このクリニックは死んだ女房の、と言いたいけれど、女房の美砂はまだ生きている……」

 味由、衝撃を受けて、

「まだ生きている、って、あなた……」

「事故に遭って、入院しているンだ。1ヵ月余りになる」

「そうだったの……」

「美砂は開業医の一人娘だが、医学部はとても無理、金の力を借りて歯科大にもぐりこみ、どうにかなれた出来の悪い歯科医だ。父親が娘のためにこのマンション1階に歯科医院を開設したが、美砂は腕が悪いから、患者が寄りつかない。そんな噂を耳にしたぼくが、押しかけ派遣医を買って出て、いつの間にか、亭主に収まった。そろそろ1年になる」

「あなた、腕のいい歯科医だったっけ? 研修医時代はいちばん無器用だったじゃない」

「その代わり、抜歯の速さだけはだれにも負けたことがなかった」

「そうよね。麻酔が効くか効かないうちに、抜くから」

「それでも、患者には不自由していない」

「奥さんの事故って?」

「スマホを操作していて、駅のホームから落ちたンだ」

「まァッ」

「そのとき、ぼくが美砂のスマホに電話を掛けていたから、責任を感じている」

「快復の見込みはどうなの?」

「それを聞いて、どうする?」

 そのとき、チャイムが鳴る。

 俳枝、インターホンの受話器をとった。

「きょうは、お休みをいただいております」

「私だ」

「お義父さん!」

 俳枝、狼狽する。

「味由ちゃん、まずいよ。美砂の親爺だ。このクリニックの実質上オーナーでもある椎家忠志(しいけただし)」

 味由、冷静に、

「どこかに隠れましょうか?」

 俳枝、考えをまとめるのが精一杯で、

「待って。(インターホンに)お義父さん、どんなご用件でしょうか?」

「キミこそ休診日に、こそこそ何をしているンだ?」

「こそこそだなンて。あ、いえ、新しい治療技術の練習です」

 椎家、勢いこんで、

「だったら、モルモットが必要だろう。私がなってあげる」

「お義父さんが。そんなこと……いえ、もう実験台は用意してあります」

「だれかを連れこんだというのか?」

 俳枝、困った。

「いえ、その、ぼ、母校の学生で、このクリニックの患者でもあるンですが、快く引きうけてくれました」

「そうか。なら、用はないか、と言いたいところだが、きょうはキミに折り入って話があって、やって来た。ここを開けてくれ」

「はい……」

 俳枝、覚悟を決める。

「味由ちゃん、キミは現役の歯学生だからね。そのつもりで」

 味由、治療室の鏡で化粧を確かめながら、

「私、歯学生? うれしいけれど、務まるかしら……」

 俳枝、治療室を出る。

 まもなく義父の椎家(65)と現れる。

 治療台の味由は、ハンカチを二つ折りして目の上に被せている。

 椎家、味由を見ると、

「これは失礼。実験台というのは女性ですか……」

 椎家の顔色が激変する。

「俳枝クン、これはまずいンじゃないか!」

 俳枝、急にオロオロ。

「お義父さん、誤解されています」

 椎家、怒りがこみあげる。

「キミたちにどういういきさつがあるのか、そんなことはどうでもいい。キミは、私の娘がいまどういう状態なのか、わかっていないようだ。休診日の治療室に女性、それも若くて美しい女性を連れ込み、治療と称して、何をしている。キミ、恥じを知りたまえ!」

「お義父さん、彼女は、いえ本当のことをいいますと、彼女は同じ母校出身の歯科医で、互いに虫歯の治療をし合おうと約束しています。きょうがその初日……」

「うるさい! 見苦しいゾ。女性と2人きりでいることが何よりの証拠じゃないか。私は娘に代わってキミに離婚を要求する。この医院から即刻退去しなさい!」

 俳枝、急過ぎる展開に、思考がついていけない。

「そんな! 理不尽です」

「なにが理不尽だ。離婚に応じないのなら、弁護士を通じて、すぐに離婚調停を始める。キミに勝ち目はないぞ」

 俳枝、味由を揺り動かし、

「味由ちゃん、何とか言ってくれよ。キミとぼくはなんでもない、って」

 味由、治療台から体を起こす。

「すいません。私、この方に奥さまがおられるなンて、少しも存じませんでした……」

 俳枝、わけがわからなくなる。

「なんてことを言うンだ。こんなときに言うセリフじゃないよ。それじゃまるで、ぼくが……」

 椎家、怒りを満面に表す。

「キミはこの女性を騙して、ここに連れ込んだ。娘が不憫だと思わンのか!」

「お義父さん、落ち着いてください!」

「娘のために買った、このマンション9階の部屋からも、出ていくンだ。キミの物は何一つない。身一つだから、簡単な話だ」

 俳枝、椎家に押されるようにして、ドアの方に後ずさりしながら、

「ぼくはどうすればいいンですか。行くところがないッ」

 味由、気の毒そうに俳枝を見ながら、

「俳枝クン、お義父さまはいま昂奮なさっておられます。ここは一旦、引き下がって、改めてお話なさったほうが賢明では」

「味由、キミはどうしてそんなことを言うンだ。キミはぼくと同じ学び舎で歯科医を志した、仲間じゃないか」

「そうだったわ。でも、10年の歳月が私を変えたの」

 椎家、ドアの外に俳枝を追いやり、

「キミはあきらめが悪いな」

 俳枝、閉じられようとするドアの隙間から、椎家の背後にいる味由に向かって、

「ぼくとキミは清い関係だろう?……」

 味由、のほほんとして、

「そうだったかしら」

 俳枝、必死に、

「ぼくたちは歯科医としてのつながりしかない。そのことをお義父さんに説明してくれ。後生だ。こんなことで、ここから追い出されるのは納得できない」

 しかし、ドアは無情にも閉じられる。

 味由、ニヤリとして、

「そうね。納得できないことは世の中にいっぱいあるわ」

 椎家、閉じたドアノブのラッチを押してロックする。

「これですっきりした。あの男があんなに悪あがきするやつだとは思わなかった」

 味由、椎家の首に両手を回して、

「あなた、これで計画完了ね」

「娘の離婚はまだ成立していない。2ヵ月はかかるだろうが」

「美砂ちゃんはよくなるンですって?」

「2度目の手術がうまくいって、あと1ヵ月もすれば退院できる。昨日聞いたばかりだ。あの男はまだ知らないが」

「それはよかった」

「娘が元気になったら、娘は私の歯科医院で働かせる。私がそばにいて、歯科治療を一からしっかりたたき込む。だから、このクリニックはキミに任せる」

「ありがとう。あなた。でも、美砂ちゃんは離婚に同意なの?」

「それは娘が言い出したことだ。ホームから転落した事故だが、娘はあの男に後ろから押されたのじゃないかと疑っている」

「そのようす、ホームの監視カメラに映っていなかったのかしら?」

「だれかがカメラにガムを張りつけたらしくて、はっきりわかる映像はなかったそうだ。だから、娘の臆測に過ぎないが、娘は、俳枝が娘に電話を掛け、電話に気を取られている娘の背中を、そっと押したのだろうと……」

「でも、彼がお嬢さんを殺害して、どんな得があるの?」

「それはこのクリニックだよ。ここは娘の名義になっている。それに9階の3LDK。2人にこどもはいないから、ヤツは少なくても、この2つを相続できる」

「怖い話ね……」

 味由、考えている。

 

 2ヵ月後。同じ歯科クリニック。

 味由が俳枝の虫歯を治療している。味由、治療しづらいのか、

「もっと大きく、口を開けて」

 俳枝、味由の顔を見ながら、

「これいりょう、うりたよ」

 味由、エアタービン(歯科用ドリル)を手放し、ライトを消す。

「もォ、やめッ! おしまいよ」

 俳枝、首にかかっている紙エプロンを外して、

「キミはすぐにキレる。昔の悪い癖は治っていないな。壁のモナリザが笑っているよ」

「あのモナリザ、うちの人が有名な画家が描いたモナリザのリトグラフだと言って、掛けたのだけれど。私、あの目を見ていると気味が悪くて。私、こどもの頃から、モナリザは好きになれない」

「治療はもういいよ。この虫歯は。自分で抜くから」

「まだ使える歯を抜いて、どうするの。あなたはそんなことをしているから、ヤブから抜けられないのよ」

「きょうは、キミの旦那のことで来たンだから、歯の治療は形だけでいい。それで、どうなンだ」

「何が?」

「旦那の体の具合は?」

「余命3ヵ月と聞いているわ」

「人間ドックに入って、いきなりガンが見つかったなンて、信じられない。しかし、2ヵ月前、ここで会ったときも、顔色は悪かった。元々、胃腸病みで、長くはないと思っていたが。若いキミと再婚して、ますます体を悪くしたンだな」

「ずいぶんね」

「2人してぼくをワナに掛け、このクリニックから追い出した天罰だ」

「ワナに掛けたなンて人聞きの悪いことを言わないで。あなたこそ、美砂ちゃんを駅のホームから突き落としたンじゃないの」

「冗談じゃない。ぼくにそんな度胸はないよ」

 俳枝、味由をにらみ、

「ぼくは、彼女を突き落としたのは、キミじゃないかと考えている」

 味由の顔色が変わる。

「ナニ、言ってンの! 彼女は、義理とは言っても、いまは私の娘よ。言葉に気をつけなさい」

「しかし、そう考えると、いろいろ辻褄が合うンだな。彼女がホームから転落したのは、キミと学会で再会して、一晩過ごした翌々日の夜だ。ぼくはホテルで、キミにこう言った。『わがまま放題に育った開業医の娘なンて、1年ともちそうにない。できれば、キミに代わって欲しい』って。それをキミはどう受け取ったのか知らないが、彼女が死ねば、ぼくに相続財産が入る。キミはそれを狙って……」

「わたしは、あなたのために彼女を殺そうとしたって言うの?」

 俳枝、味由の目を見つめて、

「いや、そうじゃない。キミは、この状態を予測して、犯行を企てた。遠大な計画を、だ。ぼくは離婚、そして、キミは美砂の父親、椎家忠志と再婚。キミと椎家忠志は、ぼくが忠志の娘と結婚する前からのつきあいだった。椎家忠志はキミとの再婚をためらっていた。それは一人娘の反対を無視できなかったからだ。しかし、美砂の転落事故で、父の気持ちは一変した。一人娘が死亡すれば、椎家家の医業を継ぐものがいなくなる。しかし、キミならまだ年齢的にも充分こどもが産める。だから、忠志は、キミとの再婚を決意した。キミの計画は、緻密で、よく計算されているよ」

「それだけ、言いたいことは? あなたの筋書きは、それで終わり?」

「キミがナニを考えているンだ」

「決まっているじゃない。椎家忠志は急性白血病で亡くなる。私は未亡人として、莫大な財産を譲りうける。娘の美砂は反対したくても、父親の遺書があるからどうにもならない」

「遺書があるのか!」

「当たり前でしょ。彼女は、この9階の3LDKのマンションだけで我慢することになる」

「キミは椎家が亡くなった後、再婚はしないのか」

「だれと? 私の財産に見合う男がいるっていうの? まさか、俳枝クン、あなた、自分を売り込むつもりじゃないでしょうね」

「しかし、キミはぼくとの結婚を口にしたことがあったじゃないか」

「あのときといまでは、状況がまるで違うわ。月とスッポンほどにね」

「しかし、もしもだよ、椎家忠志が奇跡的に快復したら?」

「快復?……」

 そのとき、チャイムが鳴った。

 味由、首を傾げ、

「きょうは休診日なのに……まさかッ」

 味由、インターホンの受話器をとる。

「もしもし、どなたでしょうか?」

「私だよ」

「あなたッ、待って!」

 味由、慌てて、俳枝に、

「ハンカチを二つ折りにして目の上に被せて、治療台の上に横になっていて。いい、あなたは歯の治療に来たのよ」

 やがて、椎家が入ってくる。

 味由、夫を迎えて、

「あなた、病院を抜け出して来たンじゃないでしょうね」

「いや、そんなことはしない。おまえこそ、休診日なのに、ご苦労だな」

 椎家、治療台の俳枝をチラッと見てから、

「治療の練習か?」

「エ、えェ、そうなの。急に思い立って……」

「モルモットはすぐに見つかったのか」

「エエ、その……」

 椎家、目隠しして治療台に横になっている俳枝を見下ろし、

「男か。女医と男性患者……」

「あなた、この方はそういう方じゃ……」

「まァ、この男なら問題はない」

「エッ、あなた……」

「見れば、わかることだ」

「なに?……」

 味由、夫の言っている意味がわからない。

 椎家、鉢植えのゴムの木に近付く。

「見れば、って。あなた、きょうはここに何しに来たの?」

 味由、ゴムの木を鉢から引き抜こうとしている夫に、

「あなた、それはあまりいじらないほうがいいのよ」

 椎家、ゴムの木を鉢から引き抜き、空になった鉢の中から、小さな黒い長方形の箱を取り出す。

「これを取りに来ただけだよ」

 味由、驚いて、

「それ、ナニよ!」

「この黒いケースは最新の録画装置だ」

「この治療室にカメラがあるの!」

 椎家、壁を指差し、

「壁にかかっているその絵……」

「モナリザ!」

「モナリザの左の目に極小のカメラが埋め込んである」

「どうして、そんなことをするのよ」

「おまえは女医だ。しかも、飛びきり魅力的な女医だから、男性患者がよからぬ考えを起こしたら困るだろう。だから、万一のために、この部屋のようすを撮影している」

「監視カメラなの!」

「監視じゃない。犯罪防止用の防犯カメラだ」

「音声も録ってあるの!」

「もちろんだ。ことばの暴力だってあるだろうが」

「この部屋のようすを撮影した映像が全部、その黒いケースに記録されている」

「おまえはものわかりがいい。問題ないだろう。もっとも、この男なら、ヘンな気持ちは起こさなかっただろうがな……」

「24時間、記録してあるの」

「もちろん。夜間、侵入者があっても困るだろう」

「あなたがこの治療室に入ってくるまで、この治療室のようすは全部、音声と一緒に記録されている、っていうわけ?」

 椎家、録画機器を操作しながら、

「勿論だ。いま新しいSDカードと交換した。これ(取り出したSDカードを示し)に、1日分の映像と音声が記録されているが、何も問題はなかろう」

 味由、すがる思いで、

「あなたはまだ、その映像を見ていないのね」

「なにを心配しているンだ。これはSDカードだが、映像と音声を電波で飛ばして、車の中のモニターでリアルタイムで見ることもできる。さきほどまで、私の知らない味由をとっくり見させてもらったよ」

 味由、混乱する。

「私が死んだあとの遺産まで心配してくれるとは。キミは出来た女房だ。いや出来過ぎだ。しかし、出来過ぎはいかん。昔から言うだろう。過ぎたるは及ばざるが如し、とな」

「あなた、急性白血病は?」

「見事な誤診だった……」

「わたしを担いだのね」

「人間ドックで急性白血病が見つかることはあるかもしれン。しかし、私は人間ドックは嫌いで、やったことがない。但し、どんな診断書でも書いてくれる、使い勝手のいい医者と懇意にしているから、どんなガン患者にでも、すぐになれる」

 椎家、俳枝の肩をたたき、

「おい、キミ、もういい、起きろ」

 俳枝、起きあがり、

「お義父さん、うまくいきましたね。入籍は待ったほうがいいといったでしょう。女は魔物です」

「そうだな。老いては子に従え、か」

 味由、開き直り、

「待ちなさい。2人して、私をどうするつもりヨ!」

「味由、キミの負けだ。美砂を駅のホームから突き落としたのが、キミのしわざとわかれば、美砂はぼくとよりを戻すだろう。ぼくは再び、このクリニックの院長になって、虫歯の治療に専念できる。世の中、そんなに捨てたものじゃない、ってことだ」

「私は、総合病院の勤務医に逆戻り、ってこと?」

 俳枝、深く頷く。


 2ヵ月後の同じクリニック。

 俳枝、味由の歯の治療をしている。味由、俳枝の手を掴み、

「いいのよ、虫歯なンて。放っておいても死ぬわけじゃないンだから……」

「治療しないでどうするンだ。歯の治療をし合うって約束じゃないか」

「いいの。あなたは奥さん一人で満足できる男じゃない……」

「モナリザが見ているンだゾ」

「あなたのことだもの。カメラの電源は切ってあるンでしょう?」

「あの親爺のことだ。ほかにどんな仕掛けがあるか、知れやしない」

「そんな心配はしないの」

「待ってくれ。いまキミの誘いにのったら、同じことの繰り返しになる」

「でも、あなたはガマンができない……、そうでしょう?……」

 俳枝、味由の熱い唇を見つめて、

「おれはどうして、こうなるンだァ……」

                (了)

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虫歯 あべせい @abesei

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