第14話 蝶

 しんさんと私は図書館を後にし、家に帰るために再びバスに乗り込んだ。しんさんは、疲れたのだろうか。ほんの少しだけ、息が荒くなっているように感じた。


しんさん、大丈夫?バスに酔ってない?」

 私が心配そうに覗き込むと、彼は爽やかに微笑んでこう言った。


「心配いりませんよ、ヒロコちゃん。図書館に連れて行ってくれてありがとうございました。自分の翻訳した本が、みなさんの勉強に少しでも役立っていることがわかって嬉しかったです。僕は、出版された後のことは、あまり気にしたことがなかったので…」


 しんさんは色白だ。日光に当たらないのだから当然だ。でも、今日はいつもより白さが増しているように思える。『紙のように白い』という表現があるけれど、正にそれが当てはまる。私は少し嫌な予感がしたのだが、それを信じないことにした。だって、私は予知能力を持っていないのだし。気分を変えようと、私は努めて明るくしんさんに話しかけた。


「また、バスに乗ってどこかに行かない?東京タワーなんてどう?」

 私の言葉に、しんさんは瞳をキラキラと輝かせた。


「東京タワー!良いですね。実は、間近で見たことがないんですよ。家の近所を散歩している時に眺めてはいますけどね。あの辺りからは、よく見えますね。…東京タワーを見ると、パリを思い出します。エッフェル塔に似ていますから。バスで行けるんですか?」


「行けるのよ。この路線じゃないけど。どのバス停で乗れば良いのか調べておくわ」


 楽しみだなぁ…とつぶやいて、しんさんは窓の外の景色に視線を移した。商店街の明かりが少しまぶしく、今日も大勢の人たちでにぎわっている。


 しんさんを薔薇屋敷ばらやしきまで送り届けて、私が家に向かって歩き出そうとした時、しんさんに呼び止められた。


「ヒロコちゃん、少し家に寄って行きませんか?実は、薔薇ばらのジャムを作り過ぎてしまったので、貰って欲しいのです。色々な形のびんに保存してありますから、好きなものを選んで下さい。1つじゃなくても良いですよ」


 遠慮なく頂くことにした私は、薔薇屋敷ばらやしきの台所に立っていた。しんさんは、少し疲れたからと言って、居間に置いてあるり椅子に腰掛け、静かに揺れていた。


 薔薇ばらのジャム…。本当に手作りしていたんだなぁ。いや、別に疑っていた訳ではないんだけど。清潔な台所には薔薇の香りが漂っていて、食器棚にはからの瓶が常備されている。


 …そうそう。ジャムだった。しんさんと一緒にお茶を飲むようになるまで、私は薔薇ばらでジャムを作ってしょくす…という行為自体に全く馴染みがなかった。実は、私は花を食べるという行為に抵抗があった。昔観た映画の中で、俳優が花束の花をわしわしと食べながら登場する場面があり、それを目にした私は思わず目をらしてしまった。何だか…おぞましくて。俳優が花を食べたのは、あくまでも映画の表現の1つであって、一般的な食生活とはかけ離れたものであろうとは思ったけれど。


 でも、実際に、ヨーロッパではスミレの花を砂糖漬けにして食べたり、紅茶に薔薇のジャムを添えたりすることがあるのだ。驚いた。とはいえ、実際に口にしてみると、甘くて、良い香りがして美味しいと感じた。こんな私でさえも。日本の食用菊だって、絶対に口にしない私でさえも。


 この薔薇ジャムたちは、今ではしんさんの主食であると言っても過言ではない。長い間作り続けてきただけあって、香り高くてなめらかで、上品な甘さで完成度がとても高いと思っている。紅茶にも、お菓子にもとても合うし。今まで遠慮していたのだけれど、本当は、私はこのジャムを狙っていた。何とかひと瓶でも分けてもらえないかと、おねだりしたかったのだ。ずっと。


 私は、ゆっくりと瓶を眺め、慎重にジャムを選んだ。そして最終的に、牧場のミルク缶の形をした瓶に入った物、切り株のような形をした瓶に入った物の2つをもらうことに決めた。


 ジャムの入った瓶を2つ手にして、私はしんさんがひと休みしている居間に向かった。この家の中はとても静かだ。彼が腰掛けている揺り椅子の背が見える。揺れてはいない。


しんさん、お言葉に甘えて2つ頂くことにしたわ。可愛らしい瓶がたくさんあって迷っちゃった」


 私の言葉に、しんさんからの反応はなかった。静かだし、椅子も揺れてないし、彼は眠ってしまったのかもしれない。起こしたら悪いとは思ったが、黙って帰る訳にもいかないので、私はお礼を言おうと彼の正面にまわった。


「…!!」


 その時、私が目にした光景は…。

 瞳を閉じて、ぐったりしているしんさん。

 彼は、右手の指先から少しずつ、ちりと化している。

 とうとう、その時が…。


しんさん、しっかりして。まだ逝かないで。一緒に東京タワーに行くって言ったじゃない」


『ヒロコちゃん、僕はもう…。君に謝らなければ。僕が君と一緒にお茶を飲みたいと誘ったのは…最期の瞬間に1人でいたくなかったからなんです。魔界から来た君なら…僕がどんな姿になっても怖がったりしないと…。ごめんね…ヒロコちゃん…』


 しんさんは、ちりと化している。

 もう、右肘みぎひじまで進んでしまった。

 今、私と話しているのは、しんさんのたましい…?

 一緒に東京タワーに行くって言ったじゃない…。


「謝らなくてもいいの。最期に私にそばにいて欲しいだなんて、光栄だわ。嬉しいわ。どんな時にだって、好きな人に側にいて欲しいと言われることは、幸せなことよ。本当よ」


『…ヒロコちゃん、僕のこと、好き…だったの?』


 しんさんは、ちりと化している。

 右腕は、全て塵になって…。

 右足が、爪先つまさきから塵となっていく。

 私の視界がぼやけてきた…。それは、どうして?


「好きなの。過去形じゃない。自分の気持ちになかなか気付くことが出来なかったけれど、でも、好きなの。初めて会った時からずっと」


『…そうだったんだ…。ありがとう、ヒロコちゃん、好きだと言ってくれて…。僕は、ヒロコちゃんが…薔薇ばらを届けてくれる日が楽しみだった。ヒロコちゃんと一緒にお茶を飲んだり、話をしたり…。君と一緒に過ごす時間が…僕にとっての…た……』


 しんさんは、ちりと化している。

 右半身は、全て塵になって…。

 左半身は、まだ肉体が残っているのに、しんさんの声が聞こえなくなってしまった。

 私の目からは、涙があふれ出る。私がこんなに泣けるなんて…知らなかった。


 しんさんは、ちりと化している。

 どんどん、どんどん塵となっていく。

 私は、静かに涙を流しながら、しんさんが塵と化すさまを見守る。

 一瞬たりとも、目を離したりはしない。


 しんさんのどんな姿も、私の瞳と心に焼き付けるんだ。

 魔界からやって来た私だからこそ、そうすることが出来る。

 そして、それは多分、しんさんが望んでいたことなのだろう。


 しんさんは、完全にちりとなってしまった。


 私は、しばらくの間、ちりと化したしんさんを見つめていた。涙が止めどなく流れていた。何も考えられなかった。


 すると、しんさんの塵の中から、ひらひらと何かが現れた。ひらひら、ゆらゆらと舞うそれは、1とうの蝶だった。青味の強い深い深い紫色の羽を持った蝶。しんさんは、蝶は夜には現れないと言っていたのに…。


 蝶は、私の頬に留まった。私は、もっと蝶を見たくて、ガラス窓に自分の姿をうつした。すると、蝶は、口吻こうふんを私の目の中に入れ、私の涙を飲んでいた。美しい羽を開いたり、たたんだりしながら。その蝶からは、薔薇ばらの香りが強く漂ってきた。


 この蝶は、しんさんだ…。


 私が窓を開けると、11月の冷んやりとした空気が入ってきた。蝶は、しばらくの間は、私の涙を飲んでいたが、やがて、窓の外へと飛んで行き、夜の闇へとまぎれていった。



 

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