第13話 図書館

 翌日、太陽が沈んでから、私はしんさんのお宅を訪ねた。私は、今日はしんさんを外に連れ出そうと心に決めていた。


 私としんさんは似た者同士である。それは、2人とも人間ではない点において。そして、ここで暮らせる時間が残り少ないという点において(私は大学を卒業したら魔界に帰ると約束しているし、しんさんは生命の炎を消そうとしている)。だから、私は人間界にいる今でしか出来ないことを経験しておこうと努めている。自動車を運転したり、人間の友だちと積極的に交流したり。


 でも、しんさんは、家で翻訳の仕事をするばかりで、ほとんど外に出ない。家主である住職の顕春けんしゅんさんや、その妹の頼子よりこさんと一緒にお茶を飲んだりすることはあるようだが、人づき合いはほとんどないと思う。ましてや、夜の街に繰り出して愉快に遊んでいる様子は全くない。


しんさん、こんばんは」

「ヒロコちゃん、どうしたの?今日は配達の日じゃないでしょう」


 不意に現れた私に戸惑った様子ではあったが、しんさんは、いつものように柔らかな表情で優雅に私を出迎えてくれた。


しんさん、今は急ぎのお仕事を抱えていないでしょう?だったら、これから私とお出掛けしない?」

「確かに、近頃は時間に余裕がありますよ。でも、出掛けるってどこへ?」

「私の通っている大学の図書館へ行くの。ウチの図書館には、しんさんが翻訳した本がたくさんあるんだから。それを眺めに行くのよ。バスに乗って。しんさん、バスで移動したことなんてないでしょう?特別に降車ボタンを押させてあげるわ」


 もう少し難色を示されるかと心配していたのだが、しんさんは意外にもあっさりと、私の提案を受け入れた。


「バスって、交通系 I C カード で料金を払えるんですよね。僕、持っているんですよ。コンビニの支払いにも使えるからって、住職の顕春けんしゅんさんが作ってくれたんです」


 とか言って、結構はしゃいでいる。私は、こんな様子のしんさんを初めて見たので驚いた。これが、素顔のしんさんなのかな。私がいつも目にする彼よりも、ずっとずっと若々しくて、可愛らしい。素直でおっとりとした雰囲気が自然だ。本当に『横浜で海運業を営むおうちのおぼっちゃん』だったんだなぁ…と納得した。


 バスに乗り込んだ私たちは、2人掛けの席に腰掛けた。しんさんには、窓側の席に座ってもらった。しんさんは、初めてのバス乗車を楽しんでいるようだった。


「バスって、車高が高いんですね。窓も大きくて、開放感にあふれています。それにしても、随分と狭い道を走るんですね。何だか、少し怖いなぁ…」

「確かに、この路線は狭い道も走るわね。もう少し行ったら広い道に出るから安心して」


 しんさんは、窓から見える街の様子から目が離せないようだった。加えて、車内の清潔さにも感心していた。バスに乗ることを気に入ってもらえて、私は何だかとても嬉しかった。


しんさん、次の次のバス停で降りるから。次に停車して、お客さんが降りてドアが閉まったら、すぐにこのボタンを押すのよ。いい?すぐよ」

「わかりました。合図して下さいね、ヒロコちゃん。でも、降車ボタンを押すだけなのに、どうしてそんなに…」


「今よ!押して!」

「はいっ!」


【ピンポーン】


 良かった…。しんさん、押せた…。


「ヒロコちゃん。降車ボタンを押すだけなのに、どうしてそんなに焦らなくちゃいけないんですか?」

しんさん、あのね、降車ボタンを押すという行為は、ここに乗り合わせた人のほとんどが狙っているものなの。1番最初に押せた人だけが音を鳴らせるのよ。早い者勝ちなのよ。誰かに先を越されたら、子供ならはっきりとゴネるし、大人だって、内心舌打ちをしているはずなんだから。押せて良かったわ」


 バスを降りると、目の前に大学がある。緩やかな坂道を上っていくと、その先には校舎や図書館が建っている。校舎は歴史を感じさせるおもむきであるが、図書館は建て替えたばかりの、近代的な建物だ。


「ヒロコちゃん、今更いまさらなんですが、僕は図書館に入れるんですか?僕はこの学校の学生じゃないし…」

「大丈夫。この図書館はね、一般に開放されているの。学校関係者でないと本を借りることは出来ないけど、館内での閲覧はみんなに許可されているの。入館の時に、名前と住所と電話番号を書かなければならないけどね。だから、心配いらないわ」


 図書館の入り口にて。

 私は学生証を提示して、専用の通路から館内に入った。しんさんは、一般来館者の窓口で用紙を受け取り、必要事項を記入した後、入館証をもらって中に入ることが出来た。


 しんさんが大学の図書館に入るのは、生まれて初めてのことだった。横浜に住んでいた頃は、大学という制度がなかった。フランスに滞在していた時は、個人教師と一緒に勉強していたので、正式にどこかの学校の学生になったことはないそうだ。初めて足を踏み入れた未知の場所…図書館。彼はその蔵書の多さに驚いたようで、感心したようなため息を吐きながら歩いていた。


しんさん、翻訳家だってバレちゃったんじゃない?」


 柊子とうこが『佐倉森さくらしんは評判が良く、名の通った仏翻訳者だ』と言っていたことを思い出して、私は彼に尋ねた。


「いや、本名を書いたので気付かれてはいないと思いますよ」

「本名?…そうか。佐倉さくらは新しく作ってもらった身分の名前だもんね。本当の名前、何ていうの?」

岸田きしだ岸田森きしだしんです」

岸田家きしだけは、まだ海運業を続けているのか知ってる?」


 今は物事を調べるのに便利な時代だから、その気になれば色々なことを簡単に知ることができる。私は、しんさんが、昔を偲んで家族のことを探っているのではないかと想像していた。でも、しんさんは自分で調べたことはないとのことだった。彼は、にこやかに微笑んでこう言った。


「帰国してすぐに、先代の顕仁けんじんさんが調べてくれました。住職の情報網を駆使してね。僕の1番気になっていることだろうと察して下さったのです。海運業の方は、1970年代に、石油関連の商社にわれて売却したそうです。それ以降は、フランス製品の輸入をする会社に転換し、今も続いています。規模は大きくありませんが、堅い商売をしていて安定しているようです。もちろん、家族で経営しています。実は、今でも時々、顕春けんしゅんさんが実家の様子を知られてくれているのです。」


 2人で館内を歩いて、とうとう目的の場所にたどり着いた。


 しんさんが翻訳した本が並んでいた。


 歴史関連の書籍、作家の評論、小説など、内容は多岐に渡っていた。軽く20冊はある。貸し出し中のものもあるだろう。日本に帰国後は、仕事一筋だったことが察せられる。


「わぁ、たくさん置いてくれていますね。嬉しいなぁ…。でも、何だか、自分が関わった本だという実感が湧きませんよ。こんな立派な建物に収められているからかな…」


 しんさんは、自分の翻訳した本を1冊手に取り、ぱらぱらとページをめくった。そして、こんなに本がたくさん置いてあっても、誰にも読まれていないのではないか…という気弱なことをつぶやいた。私は、近くにあったパソコンの前を陣取り、しんさんが翻訳した本の貸し出し状況を示す画面を開いた。


「ねぇ、これを見て。これは、しんさんが翻訳した本の貸し出し状況を示したページよ。ほら、長年に渡って多くの学生に借りられていることがわかるでしょう?閲覧しただけの人だって大勢いるはずよ。まず第一に『この本を図書館に入れてくれ』という依頼を承認するのは先生なんだからね。つまり、研究者にも認められているのよ。しんさんって、すごいのよ」


 しんさんは、画面を食い入るように見つめていた。そして、自分自身を納得させるかのように、何度も小さくうなずいていた。



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