第10話 回想 ⑥別れ
しばらくの間は、いつもと変わらない毎日が平穏に過ぎていきました。あの日以降、ルイが取り乱すことはなく、穏やかに優雅に皆に接していました。僕に対してもそうでした。
やがて、屋敷の住人たちにパスポートが配られました。皆、生まれて初めて手に入れた自分自身の身分証明書に興味津々でした。吸血鬼は歳を取らず、ずっと若いままなので、パスポートには定期的に手を入れて、生年月日や住所を修正することが必要であるとのことでした。でも、そういった細かい事は、全てルイが手配するので安心するよう言われました。
実は、この時、僕はパスポートを受け取れませんでした。僕の分だけはまだ未完成であると、ルイに言われました。何故、僕だけもらえないのだろう…。不安な気持ちが募りました。ひょっとしたら、僕を日本に帰したくないルイが、僕にはパスポートを作ってくれないのではないかと考えたりもしました。ルイに対して不信感が湧いたのは初めてでしたが、結構、根深かったですね。表面上はいつも通り明るく振る舞いながらも、悶々とした日々を過ごすことになりました。僕の日本を恋しく思う気持ちは、ますます強くなりました。
そして、ついにその日はやって来ました。待ちに待った僕のパスポートが完成したのです。
「シン、遅くなってすまなかったね。君の分は、手配するものが余分にあって複雑だったんだ」
ルイにそう言われて受け取った僕のパスポートは
「君は日本に帰国するんだからね。日本のパスポートが必要だろう?それでね、日本での君の受け入れ先を見つけるのに時間が掛かったのさ。苦労したよ。シン、喜んでくれるね?」
そうだったのか…!
確かに、日本で暮らすには受け入れ先が必要です。パスポートの申請には、戸籍や現住所が必要ですから。僕は、漠然と日本での生活を夢見ていただけに過ぎません。横浜の実家に戻ることは不可能なのに、僕は、帰国後の生活をどうするつもりだったのでしょう…。これまで僕に生活の不安がなかったのは、ルイの屋敷で暮らす限りは何も心配することがなかったからなのです。ここには全てがそろっていました。ルイが、全部お膳立てしてくれていました。
僕は今回も、ルイにすっかり甘えていたのでした。それと気付かず、彼に不信感を抱いたこともあっただなんて、僕は何と恩知らずだったのでしょう。
「ルイ、嬉しいよ。本当にありがとう。君は、僕の恩人だ。心からそう思う。何度も僕を助けてくれた。いくら感謝しても足りないよ。本当にありがとう…」
僕の名前は『
「シンは佐倉さんの遠縁の息子だということにしてもらったんだ。佐倉さんは、東京のお寺の住職さんで、シン、君をお寺の敷地内の小さな家に住まわせてくれると約束してくれた。その条件は、
もちろん、この条件を受け入れることに、異論は全くありませんでした。僕は、帰国して、人間として一生を終えるつもりでいたのですから。僕にとって完璧すぎる申し出と言えました。それにしても、縁もゆかりもない遠い日本にまでコネクションを作れるとは。ルイのネットワークは計り知れません。恐ろしいくらいでした。
「あはは。まぁ、詳しくは言えないけれど…。何人もの仲間たちに協力してもらったことは確かだよ。私も、佐倉さんに辿り着いた時は、心底ホッとしたよ。これで、やっとシンの望みを叶えてあげられるってね。シンに幸せを感じてもらうのが、私の喜びだから」
1999年11月2日火曜日…この日に僕は日本へ向けて、ロンドンから出国することに決まりました。日本に到着するのは11月3日水曜日です。本当は、もっと早い時期に帰りたかったのですが、僕は日光を浴びることが出来ませんから、日没後に移動が可能な季節を選ばなくてはならなかったのです。11月なら夜が長くなっていますから、好都合でした。
ロンドンから出国するというのは、ルイからの提案です。1994年にパリとロンドンを結ぶ鉄道ユーロスターが開業しました。ルイは、僕と一緒にその列車に乗って小旅行をしてみたかったのだと言いました。嬉しかったですね。僕は、ヨーロッパに滞在中は様々な場所に行きましたが、
1999年というのも鍵なんですよ。ヒロコちゃんは知らないかもしれませんが、この
結果は、何も起こらなかったんですけどね。コンピューターは想像以上に賢くて、というか事務的で、『99』の次は『00』に他ならない…ということでした。拍子抜けするような出来事ではありましたが、当時は真剣に「飛行機が飛ばなくなったら困る」と考えて、2000年を
ルイとの最初で最後のロンドン旅行は、とても楽しかったです。滞在したのは、ルイが所有するロンドンのフラットでした。ここを拠点に、日が暮れてから街へ出かけました。パブでビールを飲んだり、ロイヤルオペラハウスでオペラを鑑賞したり…。映画館にも行きましたよ。運転手が優秀なことで有名なタクシーも利用してみました。地下鉄は大勢の人間で混み合うので避けましたが。
昼間は、厚いカーテンをしっかり閉めて、2人で部屋に籠りたくさんお別れをしました。2人で恋人の儀式をすることは、これが最後なのだと思うと、悲しくて寂しくて…。ルイは、美しくて優しくて優雅な僕の最愛の人…。今でも、彼のことを思わない日はありません。
そして、とうとうその日がやって来ました。1999年11月2日火曜日、僕がロンドンを出国する日です。待ち遠しかった日ですが、同時に、ルイとの別れの時でもあります。僕は、喜びと寂しさが入り混じった複雑な気持ちになりました。21時の飛行機で成田空港へ向けて出発します。ルイはタクシーで、僕をヒースロー空港まで送ってくれました。
「シン。本当は、君とずっと一緒に暮らしたかった。でも、君の幸せが私の喜びだから。君が日本で幸せを感じて生きてくれると嬉しいよ。私のことを覚えていてくれるね、シン」
この時、僕はルイの瞳に涙が浮かんでいることに気が付きました。彼の
僕も、ルイと離れることが辛くて胸が張り裂けそうでした。でも、僕は、ルイに笑顔の僕を覚えていてもらいたかった。だから、幸せだった日々を思い出して、とびっきりの微笑みを彼に捧げました。ルイも、それに応えてくれました。花束のような笑顔を僕にくれました。
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