第9話 回想 ⑤望郷

 ミナがいなくなって驚いたこと。それは、僕に、日本に帰りたいという感情が芽生えたということです。


 僕は、吸血鬼としての日々をそれなりに満喫していました。大好きな蝶が見られなくなるとか、人との交流が非常に限られてくるとか、多少のわだかまりはありましたが、大きな不満はありませんでした。僕がフランスに残ったのは、フランス語を極めたいと願ったから。日常でフランス語を話し、フランス語の書物に埋もれる生活を送っていたので、その目的は果たせていたのです。屋敷での生活は静かで平穏でしたし、定期的に別の場所に移動することも楽しんでいました。


 でも、ミナがいなくなった時、僕は思ったのです。ミナは最期に「太陽の光を浴びる」という、人間ならば当たり前のことをしたのだなぁと。つまり彼女は人生を終えたのだと言えます。それが、何だかとても羨ましく感じられたのです。


 僕は、もう1度、太陽の光を浴びて蝶を眺めたいと思った訳ではありません。日光に身体を焼き尽くされるだなんて、恐ろしくてご免です。


 僕は、日本が恋しくなったのです。実家の家族に会うことは叶わないかもしれませんが、日本の四季や、畳の匂い、優しい日本語の響き…そういったものを、たまらなく懐かしく感じるようになったのです。僕は、日本人として、日本で人生を終えたいと考えるようになりました。


 それでも、僕が日本に帰ることは不可能だと思われました。当時の移動手段は、蒸気機関車や馬車や自動車。海外へ行くには、船に乗るしかありません。船で日本に渡るには何日も掛かるので、他のお客さんもいる中で、日光を避け続けることは難しいでしょう。パスポートの問題もありました。しかし、様々な技術が、ものすごい勢いで進化していた時期でしたから、僕は、希望は捨てないでおこうと心に決めました。


 僕に強い里心が芽生えたことは、まだ、誰にも言わないでおくことにしました。


 緩やかに、時は流れて行きました。国と国との関係に緊張感が強まり、2つの大きな戦争が起こりました。その間も、僕たち吸血鬼は、もりの中の屋敷で息を潜めて暮らしていました。誰かに見つかるかもしれない…と怯える日々を送っていましたが、不思議と、第三者は現れませんでした。もりの不思議な力が働いて、僕たちを隠してくれていたのかもしれません。


 長く虚しい戦いの後、戦争が終わり、世界に平和が戻って来たと感じました。もちろん、完璧な平和とは言えませんが、とにかく、世の中が落ち着きを取り戻そうとしていました。


 この頃から、ルイは、積極的に街へ出て新たな人脈を開拓し始めたようでした。出掛ける時はいつも1人でした。屋敷の者たちは、彼の真意を計りかねて、少し不安な気持ちになりました。ですから、僕は、ある日、思い切って彼に尋ねてみました。


「ルイ、この頃よく街に出掛けているみたいだけど、一体何をしているの?誰と会っているの?屋敷のみんなが不安に感じているよ。僕も胸がざわざわする」


 僕の問いかけに、ルイは穏やかな笑みを浮かべて答えました。


「心配しなくて大丈夫だよ、シン。私が会っているのは人間じゃない。方々に散らばっている私たちの仲間だよ。目まぐるしく変わって行くこれからの世の中をどのように生きれば良いのか、意見交換をしているんだ。なかなか進歩的な案が出ていて、頼もしいよ」


 これからの世の中をどう生きるのか…。僕にとっても大変興味深いテーマです。具体的にどんな意見が出ているのか、どう変わって行きそうなのか、僕はルイに問いかけました。


「まずは、食事の仕方を改革していく。近頃は、行方不明者の捜索も精度が上がっているだろう?将来は、もっと厳密になると思う。そうなると、これまで通りに人間を襲って血液を頂くのは難しい。すぐに、容疑者として検挙されるのが目に見えている。それは避けたい。我々は、本来は静かに暮らしていたい種族だからね」


 僕は、ルイの言葉に心底驚きました。食事の方法を変えることは可能なのか…?僕は、彼をじっと見据えて次の言葉を待ちました。


「我々の仲間にも、医学や化学に秀でている者が少なからずいるんだよ。彼らは、医療機関で廃棄される血液を回収して、我々が食事をするのと同等の栄養が得られる代替品の開発に成功した。実は、その製品の試食会をおこなっていたんだ。すごい発明だよ。この製品と薔薇食ばらしょくを併用すれば、我々は、もう、食事のために人間を手に掛ける必要がなくなるんだから。あとはね…」


 ルイは、実に楽しそうに僕を見つめました。早く続きを話したくて堪らない様子でした。


「あと我々に足りないものは、身分証明書だ。これからの時代は、これがなくては生活に差し障りが出て来ることは明白だ。そこで、戸籍やパスポートの偽造をおこなう方法を開拓中なんだ。これは、なかなか難しいんだが、あと一歩のところまで来ているからね。仕上がるのは時間の問題だよ」


 パスポート…!それこそ、僕が心から手に入れたいと思っていた物です。それさえあれば、僕は日本に入国することが出来る。日本に帰ることが出来る。僕は、思わずこう言ってしまいました。


「ルイ、パスポートが出来たら、僕が日本に帰国出来るよう計らってもらえないかな?実は、ずっと前から考えていたんだ。日本に帰って、そこで日本人として人生を終えたいと…」


 ルイは、目を見開いて僕を真っ直ぐ見つめました。彼は、震えていました。その震えが、悲しみに因るものなのか、怒りに因るものなのか、僕には分かりませんでしたが、彼の美しい瞳には、みるみるうちに涙が浮かんで溢れ出て来ました。そんなルイを見るのは初めてでした。


「人生を終えるだって…!?シン、君は死にたいのか…?私を恨みながら死にたいのか!?あの、あの可哀想なミナのように…」


 可哀想なミナ…。ルイは確かにそう言いました。ルイは、彼女のことを覚えていたのです。もちろん、彼女のことを完全に忘れてしまえるほど、彼は冷酷な人物ではありません。しかし、涙が止まらなくなるくらい、ミナの死に傷付いていたとは、僕は、想像すら出来なかったのです。


「ルイ、そうじゃないんだ。僕は、君にとても感謝している。本当だよ。僕は、あの日、もりの中で死んでしまいたくなかった。だって、僕はまだとても若くて、やり残したことがたくさんあったんだから。僕の生命を救ってくれた君は、恩人だ。心からそう思っているよ」


 ルイの涙は、まだまだ止まりません。彼は、こんなに泣き虫だったんだ…。ちっとも知らなかった。僕は、彼のことがとても気の毒に思えて辛かったのですが、僕の気持ちを伝えるのは今しかないと、言葉を続けました。


「ルイ。僕が君に出会ったあのもりに行ったのは、日本に帰国する前の記念の遠出だったんだ。僕は、ずっとパリに住んでいたから。僕はね、日本が恋しかった。日本に帰ることを心待ちにしていたんだ。だから、吸血鬼になってからも、条件が整えば帰国したいと願い続けていた。誰にも言わなかったけど。心配を掛けたくなかったからね」


「でも…。シン…、血液代わりの製品は、外国に持ち込むことは出来ない。何かと聞かれても説明できないし、成分を分析されたら、事態はややこしくなる。それに、目立つことは危険だ。シン、私は君にここにいてもらいたいし、死んで欲しくない。短期滞在では駄目なのかい…?」


 僕は、自分の祖国に住みたいのだとルイに伝えました。ルイのお蔭で、思い切りフランス語を勉強できて満足できたから、日本人としての暮らしに戻りたいのだと言いました。僕は、吸血鬼になったことを後悔していません。でも、僕の中身はやっぱり人間で日本人なんだと気が付いたのです。何年も前から、気付いていたのです。畳が恋しいし、ご飯とお味噌汁の匂いを嗅ぎたいし、お風呂でお湯に浸かりたいのです。


「ルイ、お願いだ。僕は人間に戻りたい。日本に帰りたい。分かってくれ」


 僕は、ルイを傷付けてしまったかもしれないと胸が痛みました。ルイは、流れる涙を拭おうともせず、びしょ濡れの瞳で僕を見つめていました。そんなルイは、生まれたての子犬のように頼りなげに見えました。


「…分かった。…シン、決意は固いんだね。私はとても寂しい。屋敷の皆もきっと寂しがるだろう。でも、君の意思を尊重するよ。帰る場所があるというのは、とても幸運なことだ。シンには、幸せな気持ちでいて欲しい。パスポートが作成されるまでは、我々と一緒に楽しく暮らしてくれるね?これまでのように」


 僕は、深く頷きました。ルイを悲しませてしまった罪悪感が、僕の心に生まれました。でも、それ以上に、日本に帰ることが現実味を帯びてきたことを嬉しく思いました。帰国することが、僕の生きる希望となりました。






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