第8話 回想 ④ミナ

 吸血鬼として生活してみて驚いたこと。それは、僕は、自分でも驚くほどすんなりと、彼らの暮らしに馴染んでいけたということです。屋敷の住人たちは皆とても親切で、新しい環境に不慣れな僕が孤独に陥らないよう、いつも明るく声を掛けてくれました。僕は書斎にある本を読むことが大好きで、全ての書物を読破するという目標を立てました。何しろ時間はたっぷりあるのですから。


 夜の森を散歩することも好きでした。月の光の美しさに心が震えました。日によって月光の色が変わることにも、初めて気が付きました。星のまたたきの繊細さに、目が釘付けになりました。詩人の心を少しだけ理解できたような気持ちになりました。夜露に濡れる草花の愛らしさ、虫の、鳥の歌声…。夜の世界は、穏やかで、慎ましやかな美に溢れていると感じました。


 でも、ひとつだけ悲しいことがありました。


 僕が心を奪われた蝶は、夜に姿を現わさないのです。蝶は、日中にひらひらと可愛らしく舞う生き物です。夜は羽を休めて眠るのです。夜の世界に君臨していたのは、蛾でした。ヨーロッパでは、蛾の羽の模様に美しさを見出し、鑑賞する愛好家たちが大勢います。でも、僕は、蛾を好きになることができませんでした。厚ぼったい羽、太過ぎる胴体…。飛び方だって、優雅ではありません。もう2度と、野原に遊ぶ蝶たちの姿を目にすることは叶わないのだと悟った時、僕は、初めて、吸血鬼になったことを後悔しました。


 それでも、僕は、これからは吸血鬼として生きるしかありません。蝶のことは、手の届かない夢として諦めることにしました。完璧な人生なんて、決して存在しないのだと実感しました。


 完璧な人生を諦めきれなかった人がいました。同じ屋敷の住人であるミナです。


 彼女は、元々は普通の人間でした。裕福な商人の娘で、何事もなければ、良い家柄の青年と結婚して、幸せな人生を送っていたことでしょう。


 でも、彼女はルイと出会ってしまった…。


 ルイは柔らかな物腰の素敵な若者です。その上、かなりの美青年なのです。彼のアイスブルーの瞳はクリスタルのよう。いつもきらきらきらめいていて、どんな宝石だってかないっこありません。彼に出会った人たち全員が、彼に魅了されてしまうと言っても過言ではないでしょう。


 ミナが、いつ、どこで、ルイと面識を持ったのか、僕は良く知りません。どこかのパーティで偶然一緒になったのだと思います。ルイと出会ったミナは、たちまち彼に心を奪われてしまいました。彼女は、かなり積極的にルイに近づいていったようです。そして、どうしても彼と結婚するのだと心に決めてしまいました。


 それは、ミナの一方的な恋慕でした。ルイは誰にでも同じ態度で接しますから、彼女を特別扱いしたとは考えられません。ミナの激しい恋心に戸惑ったルイは、

「自分は吸血鬼だから君とは一緒になれない。1人の恋人に縛られることはない」

と、はっきり言ってしまったようです。


 ミナは諦めるどころか、ますます想いを強くしてしまいました。若いお嬢さんの情熱は、理屈ではどうにもできなかったのですね。ミナは「私は、ずっとあなたと一緒にいたい。私を吸血鬼にして欲しい」と言いました。ルイは、当然のことながら、その申し出を拒絶しました。でも、ミナは頑として自分の意志を曲げようとはしませんでした。人間の熱い想いは、吸血鬼には理解できないものです。抑えるすべを知りません。ルイは、根負けしてしまいました。


 吸血鬼となったミナは、幸福を噛み締めていました。ルイと同じ屋敷に住んで、毎日一緒に過ごすことができるのです。彼の恋人になることもできました。彼は「1人に縛られない」と言っていたけれど、それは自分の深い愛情で克服できる問題だ…と彼女は信じていました。彼女は、ルイが自分の一途な愛に応えてくれるはずだと思い込んでいました。


 しかし、ルイはルイのままだったのです。


 ミナはルイの恋人となりましたが、以前と変わらず、シャルロットもヴァンサンもルイの恋人でした。たまに屋敷を訪れる同類の仲間たちも、やっぱりルイの恋人であり、シャルロットとヴァンサンの恋人でもありました。そのことは、ミナにはどうしても理解できなかった…。ミナは、どんなに素敵に誘惑されても、ルイ以外とは親密な関係になりませんでした。でも、屋敷の雰囲気が悪くならないよう、皆に親切に振る舞いました。ルイをがっかりさせないために。


 ルイを自分だけのものにできない苦しみを抱えたまま、ミナの月日は流れました。


 そして、僕が屋敷にやって来たのです。


 血まみれの僕を抱えていたルイは「この子、森の中で死にそうだったから連れてきた」と言ったそうです。それを聞いたミナは、彼には人助けをする優しさがあるのだと、感激しました。でも、すでに僕が吸血鬼になっていたと知り、嫌な予感がしたのだと言っていました。


 ミナの予感は的中しました。僕は、ルイの恋人になりました。シャルロットとも、ヴァンサンとも親密になりました。


 僕が彼らと関係を持つようになったことについて、特に抵抗はなかったですね。


 僕は奥手でしたから、初めはどう振る舞えば良いか分からずに戸惑いました。でも、ルイがとても優しく導いてくれました。ルイが言った「恋は人生の彩り」とはどういう事なのか、僕は身をもって理解することが出来ました。


 僕が純情だったのは、別に、強い貞操観念があったからではありません。僕が生まれ育った時代は、今よりもずっと男女関係について大らかだったと思います。でも僕は、将来は、親の勧めてくれるお嬢さんと所帯を持ち、兄の右腕となって家業を盛り立てて行くつもりでした。だから、良い縁談が来るように、放蕩息子と呼ばれることは避けたかったのです。あの頃は、年頃になるとお見合いの話が持ち上がるのが普通でした。恋愛結婚は一般的ではなかったと感じますね。


 僕とルイの関係に傷付きながらも、ミナと僕は兄妹のように仲良しでした。彼女は僕に親近感を持ってくれていたのです。彼女と同じように、人間から吸血鬼になった者として。だから、彼女は、僕には何でも話してくれました。


「シンは、ルイを独り占めしたいと思ったことはないの?」


 ある日、お茶を飲みながら庭で月を眺めていると、ミナが僕に話し掛けてきました。


「ないよ。独り占めはこの屋敷の作法ではないからね。僕は、新しい環境に対する順応性が高いんだ。そうでないと、こんなに長く異国で楽しく暮らしていけないよ」


「そう…。そうね。シンの言う通りだわ。私は、慣れることができなかった。ルイしか見ることができなかった。ルイにも私だけを見て欲しかったけど、それは、初めから無理な話だったのよね。ルイが言った『1人に縛られない』とはどういうことなのか、近頃ようやく理解できるようになったの。吸血鬼になる前に、ルイが最初に警告してくれた時に納得できていたら良かった。…70年も掛かってしまったわ…」


 次の日の夜半、お茶の時間になってもミナが姿を現さないので、僕は彼女の部屋へ迎えに行きました。ノックをしても返事がなかったので、扉を開けて中に入ると、彼女の姿はどこにもありませんでした。散歩にでも出掛けたのかと思い、居間に戻ろうとしたその時、僕は机の上に書き置きがあるのを見つけました。


『久しぶりに、日の出を見に行って来ます。ルイ、シャルロット、ヴァンサン、シン、マリー、ジャン。皆さん、いつも優しくしてくれてありがとう。大好きです。   ミナ』


 僕は慌てて外に出ました。日の出を見るということは、朝一番の太陽の光を浴びるということです。昔ならともかく、今のミナは吸血鬼なのです。日光は最も避けるべきものなのです。僕は、必死にミナを探しました。


 屋敷から少し離れた場所に丘があります。そこは、さえぎるものが何もなく、非常に見晴らしの良い所です。僕とミナは、そこでよく星を眺めたものでした。


 そこで、灰にまみれたミナのドレスを見つけました。それを見た瞬間、僕は全てを悟りました。ミナは、本当に朝日を浴びて焼けてしまったのだと。僕は、出来るだけ多くの灰を集めてドレスに包み、屋敷に持って帰りました。


 ルイ、シャルロット、ヴァンサン、マリー、ジャン…屋敷の住人全員がミナの死を悲しみました。僕も悲しくて辛かったです。僕たちは、ミナの好きだった野薔薇の根元に、彼女の灰と最後に着ていたドレスを埋めました。




 



 


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