第6話 回想 ②邂逅

 気が付くと、僕はまだもりの中で倒れていました。辺りはすっかり日が暮れていました。その時、僕は蝶を追いかけている時に、斜面を滑り落ちて脚を負傷したことを思い出しました。疲労と痛みと出血で、僕は動けませんでした。


 夜のもりにいて驚いたこと。それは、夜のもりは昼のもりとは全く違うけれど、夜であっても意外に静かではないのだなということです。フクロウや虫が鳴いていたり、夜行性の動物の気配がしたり。とはいえ、その夜は大きな月が輝いていて暗くなかったせいか、あまり恐怖は感じませんでした。


 でも、デュポンさん一家やラヴァンさん一家に心配を掛けているのだと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になりました。ポールが責任を感じていなければ良いな…と思いました。それでも、ひょっとしたら日本に帰れなくなるかもしれない、ここで命を落とすことになるかもしれない、と思うと、不安で涙が止まらなくなりました。


 すると、カサコソと足音のようなものが聞こえたのです。狼かもしれないと思って緊張しましたが、僕は身動きが取れなかったのでそこにじっとしているしかありません。気配は消せても、血の匂いは消せないので、けものだったらおしまいだ…と覚悟を決めたその時、僕は予想だにしなかったものを耳にしたのです。


「怪我をしているのか?」


 それは、若い青年の声。美しい発音のフランス語でした。フランスのもりの中にいたのですから、フランス語を話す人物に遭遇するのは当然のことです。しかし、夜の人気ひとけのないもりで人間の声を聞くことに違和感を感じました。しかも、猟師や木こりではなさそうでした。何故なら、彼の発音は庶民のそれではなく、貴族的な香りのする優雅なものでしたから。


「…はい。あの斜面を…滑り落ちてしまって…」


 彼は、静かに僕に近づいて来ました。僕の様子をしげしげと見つめているようでした。僕は、傷の痛みと出血で疲れ果ててしまい、彼の方に顔を向けることができませんでした。


「ひどい傷だね。こんなに出血していては、もう、助からないよ」


 彼はさらりとそう言いました。まるで「今日は月が綺麗だね」と言っているかのような、軽やかな様子でした。僕は、絶望的な気持ちになりました。


「ところで、君はどこから来たの?ヨーロッパ出身じゃないよね?」

「日本から来ました。フランス語を勉強するために…」

「へぇ。フランス語がとても上手だ。日本のヒトはみんな外国語が得意なの?」

「…いいえ。僕は、父の仕事の関係で、外国の方々と接する機会が…」


 僕は、何とか彼の質問に答えていましたが、本当はそれどころではなかったのです。出血がひどかったためでしょう。彼の声はとても遠くから聞こえてくるような気がしていました。


「私なら君を生かすことができる。君は助かりたいか?」


 薄れゆく意識の中で、僕は、確かにそう聞いたのです。もう、声を出すこともできずに、僕は弱々しく頷きました。


「私は君を生かすことができる。でも、それは夜の世界に生きるということになるのだよ。もう2度と太陽の光を拝むことはできなくなるし、神に背くことにもなる。それでも構わないか?」


 僕は生きたかった。僕はまだ21歳で若かったし、外国のもりの中で死んでしまいたくなかった。だから、声にならない声で、ほとんど囁くように彼に言いました。


「…僕は、生きたい。僕は…キリスト教徒ではありません…」


 そう言い終わるや否や、彼が僕に触れる気配がしたような気がしました。定かではありません。何故なら、僕はとうとう完全に気を失ってしまったのですから。でも、彼がこう言うのを聞いたような気がします。


「歓迎するよ。異国の友よ」


 僕が目を覚ました時、見知らぬ部屋のふかふかのベッドの中にいました。血や土で汚れていた服ではなく、清潔なパジャマを着ていて、僕はびっくりしました。さらに僕を驚かせたのは、身体のどこも痛くなかったことです。それどころか、あんなにひどい怪我をしていたのに、僕には傷ひとつありませんでした。訳がわからず動揺していた時、1人の青年が優雅な身のこなしで部屋に入って来ました。


「おや、気がついたのか。顔色が良くなったね。お茶でも飲むかい?」


 声に聞き覚えがありました。彼こそが、もりで僕を見つけて助けてくれた人物だと分かりました。早くお礼を言わなければ…と思いつつ、僕はまだ混乱していて、上手く言葉が見つけられないでいました。


「私の名前はルイ。この家の当主だ。まだ疲れているだろう?もうひと眠りするといい。詳しい事情は後からゆっくり話してあげよう。心配することはないよ。時間はたっぷりあるのだから。君の名前だけ聞いておこうかな」


「あの…助けて下さってありがとうございました。僕の名前は、シンです」


「シン…。呼び易いね。素敵な名前だ。じゃあ、シン、また後で」


 そう言い残すと、彼は部屋から出て行きました。僕は、彼が置いていってくれたお茶を頂いてから、再び眠りに落ちました。気掛かりなことはたくさんあったはずなのに、夢を見ることもなく、ぐっすりと深く眠りました。


 そのお茶は、薔薇の香りがした…。








 

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