第5話 回想 ①渡仏

「でもね、僕は、生まれた時は人間だったんですよ」

 そう言うと、しんさんは、薔薇のジャムが入った紅茶を一口ひとくちすすった。



 僕が久しぶりに、本当に久しぶりに東京にやって来て驚いたこと。それは、街にあふれるほどの人の多さと、高くそびえ立つ建物の多さでした。僕は、長い間ずっとヨーロッパで暮らしていたのです。とは言え、1つの場所に留まることは危険ですから(吸血鬼は歳を取りませんからね。周りの人たちに怪しまれると困るのです)、色々な地域を転々としました。時には都会に住むこともありましたが、大体は、森の中の屋敷に住んでいました。人目に付きたくなかったからです。


 僕が生まれたのは嘉永かえい元年です。西暦で言うと1848年。横浜で生まれ育ちました。僕は、幼い頃から英語やフランス語に親しんできました。


 物心ついた頃から、外国を身近に感じていました。日本はもう鎖国をしていませんでしたし、実家は、祖父の代から海運業を営んでいましたから。横浜には、既に多くの外国人が住んでいたので、その方たちから言葉を学びました。父と兄と一緒に、先生のお宅に行って、教えて頂いていたのです。楽しかったですよ。未知の音の羅列が、次第に意味のある言葉に変わってくるのです。彼らの服装や暮らしぶりも、日本とは全く異なっていて、とても新鮮でした。


 幼い頃から勉強したこともあって、僕の語学力はなかなかのものでした。父の仕事の通訳を任されることもありましたし、英語やフランス語の契約書の翻訳を頼まれたりしました。家業は兄が継ぐことが決まっていましたから、僕は得意な語学を極めて、将来は兄の手助けをしたいと考えるようになりました。


 そんな時に父からこう言われたのです。

しん、フランスへ行ってくれないか?」


 慶応けいおう3年にパリで万国博覧会が開催されることになりました。えっと、1867年ですね。日本からも陶器や漆器、浮世絵などを出展することになり、僕の実家で船を出すことになったのです。そこで、英語とフランス語が堪能な僕に、通訳として同行してもらいたいと頼まれました。願ったり叶ったりです。僕は二つ返事で引き受けました。そして、この機会に、ずっと密かに願い続けて来たことを、父に申し出てみたのです。


「僕は語学をもっと本格的に勉強したいと思っています。だから、現地で学んでみたいのです。万国博覧会でのお務めが終わっても、フランスに残って勉強できるよう取り計らってもらえないでしょうか」


 僕のフランス滞在はあっさり決まりました。理由は単純です。初めから、留学させるための若者が何人か同行することになっていたからです。僕1人くらい増えても、何の問題もなかったようです。僕の受け入れ先は、ずっとフランス語を教えて下さっていた方の恩師であるデュポンさんのお宅となりました。


 僕はパリに住むことになったのですが、とにかく見るもの聞くもの、全てが新しいことばかりで、毎日が驚きに満ち溢れていました。楽しかったですよ。僕の語学力は、既にどんな本も読み通せるレベルに達していたので、デュポンさんと一緒に色々な物語、詩、歴史書を読みました。僕が接したことのない西洋の考え方や様式は、デュポンさんが丁寧に解説してくれました。


 僕が、特に衝撃を受けたのは音楽でした。僕は横浜で、信者ではなかったですけど、教会のミサに行ったことが何回もあったので、西洋の音楽は知っているつもりでした。讃美歌を聞いていましたからね。それに加えて、横浜のホテルで開催される在日外国人の演奏会にも招かれたことがあったのです。でも、パリで開催される演奏会は、そんなものじゃなかった。

 

 まず、劇場が違います。歌劇場の建物が大きなお城のようで、初めて目にした時は足がすくんでしまいました。その内装も、豪華極まりなくてびっくりしました。緞帳どんちょうなんて、高級な帯を思わせるような精巧な造りで、しかも大きくて、美しくて…。舞台で奏でられる音楽は、信じられないほど複雑に音が絡み合っていて、圧倒されました。


 僕の留学期間は、3年間と決められていました。日本を離れる前は「3年では短か過ぎる」と感じたものです。でも、実際にパリで暮らしてみると、1年経った頃から里心がつき始めました。四季をひと通り経験できて、気が済んだのでしょうね。パリの秋は暗くて憂鬱でしたし。冬は寒くて寒くて…。でも、あの時代は、外国に行くこと自体が大変でしたから頑張りましたよ。デュポンさん一家がとても気を遣ってくれて、僕が寂しく感じないよう、いつも明るく優しく接して下さいました。今でも、深く感謝しています。


 3年が過ぎ、僕のフランス暮らしがいよいよ終わりに近づいた6月に(僕はその年の9月に帰国の船に乗ることが決まっていました)、デュポンさん一家と旅行に出掛けることになりました。場所は、お恥ずかしい話ですが、よく覚えていません。でも、汽車に乗って、自然の多い田舎の方へ向かったのです。デュポンさんのご友人のラヴァンさん一家と一緒に、ラヴァンさんが所有する別荘に滞在させて頂きました。


 フランスの6月をご存知ですか?それはもう、素晴らしく美しい時期なのですよ。日本の6月とは全く違います。湿気がなくて爽やかで、緑の木々が生い茂り、色とりどりの花々が咲き誇っているのです。僕は横浜で生まれ育ち、加えて実家が海運業を営んでおりましたから、日本にいる頃は海だけに関心を寄せていました。フランスに来てからも、暮らしていた都市は大都会のパリですから、草木と言えば、街路樹か公園の草花くらいしか知りませんでした。ですから、ラヴァンさんの別荘付近の自然の豊かさには目を見張りました。


 さらに僕の目を惹き付けて止まなかったのが、蝶です。かぐわしい匂いを放つ花に群がる蝶たち。ひらひらと頼りなく、可愛らしく飛び回る姿に魅せられました。蝶の羽の模様は美しく個性的です。僕は、蝶の姿を飽きることなくずっと見つめていることができました。僕は、別荘に滞在中は、建物の裏手のもりに通い詰めました。


 もりは、別荘の裏にあると言っても、人の手がほとんど加わえられていない場所です。うっかりすると迷ってしまうし、足を滑らせて怪我をするかもしれない、野生の動物に襲われるかもしれない…ということで、デュポンさんとラヴァンさんからは「決して1人ではもりへ行かないように」と申し付けられていました。


 僕は、彼らの言いつけを守って、もりに行く時は必ず誰かと一緒に行きました。デュポンさん夫妻やラヴァンさん夫妻、そしてラヴァンさんの子供たちのポール、イザベル、ジャン。僕に最も付き合ってくれたのは、ラヴァン家の長男のポールでした。彼は、僕より2歳下でしたが、遠いジャポンから来た僕にとても親切でした。


 その日も、僕はポールと連れ立ってもりに出掛けました。午後のお茶の後、他の人たちは昼寝をしたり、本を読んだりして過ごしていましたが、僕は蝶を見たくてじっとしていられなかったのです。ポールは、もりの中で考え事をするのが好きで(表向きは『考え事』ですが、実際には詩作にふけっていたのです。彼は密かに詩人でした)、だから、度重なる僕のもり散策に付き合ってくれたのだと思います。


 もりに入ってしばらくの間は、僕はポールと並んで大人しく歩いていました。でも、僕は見つけてしまったのです。まだ目にしたことがなかった美しい蝶を。太陽の光を浴びて輝くその姿は、まるで紫の水晶のようでした。その蝶が、水辺で群れをなして水を飲んでいたのです。スミレの花々が風に吹かれて揺れているかのように、蝶たちが羽を閉じたり開いたりしていました。僕が、彼らの姿に見惚れていると、突然、蝶たちが一斉に飛び立ったのです。


 僕は、我を忘れて蝶の後を追いました。背中に、足許に気を付けるよう注意するポールの声が聞こえましたが、僕は空返事を返したのみ。初めて見る種類の蝶の群れに釘付けで、周囲の様子は目に入りませんでした。そして、ついに僕が蝶に追い付いたと思ったら…。


 突然、身体がふわりと浮いたのです。そして、次の瞬間、僕の両足はくうり、もつれて倒れました。そして、斜面から滑り落ちました。かなりの距離を落ちたと思います。見上げても、元にいた場所は見えませんでした。


 ポールはびっくりしたことでしょう。目の前を走っていた僕の姿が、急に消えてしまったのですから。彼が僕の名前を呼ぶ声が微かに聞こえました。彼は、すぐに助けを呼びに行ってくれたようでした。でも、僕が救助の声を聞くことはありませんでした。僕は、落下した時に脚を怪我して、痛みと出血がひどく、気を失ってしまったのです。








 




 

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