○△■

 一九三六年(昭和十一年)二月――。


 木戸の姿は、戦艦〝長門ながと〟の艦上にあった。

 今は、第三砲塔を扱う第三分隊に所属している。

 彼もまた夢を現実にしようと、階級を這い上がっていた。

 そんなときだった。

「東京で何かあったらしい」

 噂好きの所属の分隊士が持ち込んだのは、妙な噂であった。

 この日の早朝、予定に無い出港命令が出され、横須賀にいた〝長門〟を旗艦とした第一艦隊は、東京湾内へと急行をしていた。

 何かあったのかなど、一介の下士官などに知らされていないが、上が妙にピリピリとしたもので包まれているのは感じられた。

(戦争でも始まったのか?)

 新聞などでは、去年の国際連盟脱退以来、過激な記事が多くなっていた。

 とりわけ、国際的孤立を回避するために、ドイツおよびイタリア――同様に国際連盟から脱退していた――と共同防衛を結ぶべき、という主張が唱えられていた。

 だが、ドイツと協定を結ぶとなれば、イギリスの反発は必須だろう。

 イタリア領ソマリランドまで原油を運ぶにしても、最短ルートであるマラッカ海峡を通らなければならない。その入り口には、イギリス領シンガポールがある。

 そこを封鎖されては、外貨獲得している原油事業に大きな支障が来す。

 日本統治下のパラオを経由して南下するルートもあるが、イギリス連邦の一国であるオーストラリアの西を通らなければならない。

 結局、満州の原油は出続けているが、消費地に運ばなければ……加工してもらわねば持て余す事になってしまっていた。

 木戸がそんなことを心配しても仕方がない。だが、国に何かあったときは一軍人として奉仕する覚悟はあった。

 しかしながら、彼の乗る〝長門〟は、何か起きるはずの南ではなく、北に舵を切った。

 浦賀水道を入り、東京湾内へ向かっている。

「クーデターが起きたようだ」

「クーデターだと!?」

「落ち着け、木戸」

「すっ、すまん……」

 続報を持ってきた分隊士の肩を、大柄の木戸は驚きのあまり掴んでしまった。

 話によると、陸軍の一部青年将校が昭和維新を掲げてクーデターを起こしたらしい。政治腐敗と農村の困窮を終息するために起こしたという。

 下手に情報を流せば、賛同するものが出てくるかも知れない。

 それで上が警戒して、下士官以下に情報を正式に流さなかったようだ。

『――配置に付け!』

 突然、艦内スピーカーを通して響きわたった。

 木戸が入ったばかりの頃は、伝令員が走り回っていたが、今はマイクロフォンでアッという間に艦内につたわる。

 しかし、何が起きているのかは窓のない主砲塔からは分からない。だが、〝長門〟を含む第一艦隊は、陸に寄せられるギリギリのところに並ぶと、その主砲を北へと向けた。

 折しも、今日は二七日。

 昨日まで降り続いていた雪がやみ、鉛色の雲が空を覆う日であった。

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