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 一九二一年(大正一〇年)から各国で話し合いが行われた。

 このワシントン海軍軍縮条約で、戦艦の新造は条約締結後一〇年間凍結。例外として、艦齢二〇年以上の艦を退役させる代替としてのみ、建造が許可される事となっていた。

 ちょうど金剛型戦艦の四隻が、一九三〇年代にその艦齢二〇年がやってくる。

 日本で新造艦が出来ると言うわけだ。

 条約締結時に分かっていたことであるが、その年が迫ってくると、アメリカとイギリスが待ったをかけてきた。それに制限の掛からない補助艦――巡洋艦や潜水艦など――の性能向上も、目に余るものがあったのであろう。

 一九二七年(昭和二年)に再度、軍縮会議がジュネーブで開かれることとなる。

 会議を始めてみれば、日本の新造艦に対してよりも、アメリカの比率主義とイギリスの個艦規制主義が対立。平行線のまま決裂寸前になったのだ。

 この会議ではむしろ日本が両国の間を取り持ち、締結に至ることになる。

 そこで決まったことの詳細は省略するが、補助艦のカテゴリー化と合計排水量の分配。戦艦については、各国共に何隻かの廃艦または練習艦にすることでの保有を認めた。

 そして、戦艦の建造中止措置の五年延長を努力する、となった。

 曖昧な言葉を使うのは良くなかった。

 そう『努力』という言葉が、後で問題になってくる。しかしながら、この『努力』という言葉によって、日本は新造艦の建造の権利を獲得したことになる。

 翌年から日本の海軍艦政本部は、新造艦『A一四〇』のちの駿河型となる戦艦の建造に向けて設計を開始した。

 新造艦の設計は、藤本造船大佐(当時)を中心としたグループで行われたのだが、ここに白鳥造船中尉(当時)も加わることになる。

 しかし、一九三〇年(昭和五年)この計画が中止に追い込まれようとしていた。

 米英が、軍縮条約の再討議を求めてきたのだ。

 後の世でいう第一次ロンドン軍縮会議であるが、この会議は日本とフランス、イタリア――この時の接触がイタリアとの関係の始まり――の反対で、ジュネーブ会議での決定事項を継続することのみとなった。

 一つ目の危機を越えて、翌年一九三一年に新造艦『A一四〇』の一番艦が呉工廠で、二番艦が横須賀工廠で起工した。

 続いて、翌年の一九三二年には三番艦、四番艦がそれぞれ神戸と長崎で起工。

 順調に工事が進む中、その時がやってきた。


 一九三三年になって国際連盟を通じて、再度軍縮会議を開くこととなった。

 再びロンドンに集まった海軍国家。のちに第二次ロンドン軍縮会議と呼ばれるものは、ほぼ米英の思惑通りになったと言えるだろう。

 求めたのは駿河型の廃艦。すでに一番艦、二番艦が同年に進水していた。

 理由は、中国大陸で日本軍が起こした事変。それに伴い誕生した満州国の建国だ。

 当初、中華民国の訴えにより、米英を伴う国際連盟は満州国の建国を容認しない方針だった。だが、国際連盟理事会が満州に派遣したリットン調査団は、とんでもないものを見つけてしまう。

 調査団に接触した住民は親日家で、気を利かせたのだろう。だが、それか世界を変えてしまうとは思ってもみなかったようだ。

 その者は、黒竜江省哈爾浜ハルピン市の西に油田があることを彼等に教えたのだ。

 元々、調査団はそんなものを見つけるつもりはなかった。

 政治状態を調べる目的だったのだから、関係ないといえばそれまでだ。しかし、興味を示した調査団の一部が調べてみると、莫大な量の油田がそこに眠っていることを突き止めたのだ。

 黙っていることも出来たかもしれない。だが、人の噂には蓋が出来ない。

 中国大陸で見つかった大油田の情報は、世界を駆け巡った。

 満州国の油田は、実質上、日本国の支配下での事。

 昨日まで油が無いと、嘆いていた国が一夜にして、原油産出国となったのだ。

 とはいっても、原油では船も、飛行機も、車も動かすことが出来ない。

 原油を加工して、重油なり、ガソリンなりにしなければならない。しかも、日本の貧弱な加工技術や設備では、満州から採れる莫大な原油を処理することが出来なかった。

 結局、加工技術のある欧米へ持ち込まねばならない。

 ここで問題になっているのは、人件費の安い満州産の原油が市場に溢れることだった。


 自国の経済を守らなければならない。


 そこで欧米は、そろって尋常ではない関税をかけた。

 さらに、原油だけではなく、日本が加工技術を手に入れるための資材や設備などにも、関税をかけたのだ。

 横暴と思えるやり方に、日本は憤慨した。だが、駿河型戦艦の廃艦と引き換えに、関税の段階的な撤廃と、満州国の承認を通達してきたのだ。


 戦艦を取るか、原油を取るか。


 アメリカで始まった世界的な大不況からの脱却は、未だ適わず。

 それに長年の放漫な政策と、日露戦争での国債の借り換えなどで、日本の財政は厳しいものがあった。

 駿河型戦艦の廃艦は、自ずと決まった。


 これだけでは、白鳥造船大尉が呉に飛ばされることはなかっただろう。

 そう、彼は艦政本部からここに左遷された、と感じていた。

 理由はこの年に起きた、いわゆる友鶴事件だ。

 訓練中の水雷艇〝友鶴〟が転覆を起こし、多数の人員が事故死した事件が起きた。

 これを重く見た海軍は、原因を徹底的に調べることになった。

 その結果、仕様上は充分な復原力を保持していたが、過重な兵装と未熟な工作技術による重心上昇トップヘビーと復原性不足を負っていたことが、原因とされた。その背景として、物理法則を無視した用兵側の要求――軍令部の非現実的な性能要求――に追従し、根本的欠陥を抱えた艦船を多数送り出してしまっている設計側――ジュネーブ軍縮会議内に納めようとし無理をした――の状況が指摘された。

 これにより海軍は、この数年間に設計された艦船を中心に、復原性・重心対策改修をしなければならない事態になっていた。そして、関係者には何らかの処分が必要と感じたようだ。とはいっても、用兵側の処分は難しい。

 そこで矢面に立たされたのは、同型艦の設計監督をしていた藤本造船少将だ。

 同少将を謹慎。その他、関わった部員の艦政本部からの追放をもって、人事の処分が終わった。


「――白鳥造船大尉。まだ終わっちゃいません」

 白鳥は、木戸の声で我に返った。

 とはいっても、白鳥造船大尉の呉での仕事は、恐らく修理や整備だけであろう。

 新造艦の設計の夢は諦めるしかない。

 失意のままこの地に訪れた白鳥は、呉の街で十数年ぶりに木戸にあった。そして、何気なくふたりは埠頭に着てしまった。

 見えるのは、改修を待つ艦……そして、廃艦が決定した戦艦〝駿河〟だ。

「――終わったさ。あいつのように、錆びて朽ち果てるだけだ……」

 白鳥がようやく口に出来たことは、木戸とは違ってあきらめであった。

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