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 一九三四年(昭和九年)――。


 呉の港でふたりの人物が、〝駿河〟に成るはずだった船体を眺めていた。

 ひとりは紺色の第一種軍服を纏っている。

 男は木戸と言った。今は、海軍二等兵曹の身だ。

 男の特徴といえは、その巨大であろう。昭和一桁台の平均的な日本男児と比べて、頭ひとつ分を軽く越える一八〇センチ台の身長。それに肩幅も広く、鍛えられた筋肉が軍服の上からでも伺える。

「番長よ。僕たちの夢はダメになったかな……」

 と、隣にいるもうひとりの男は、ため口で呟いた。その男の顔は暗く落ち込んでいる。

 こちらは白鳥と言った。今は、背広にネクタイ、コートを羽織っているが海軍の造船大尉。こちらは木戸二等兵曹とは対照的に、小柄で身長も平均と比べたら低めだろう。身体検査をギリギリ通れるぐらいだろうが、彼の頭の中は別だ。

 帝国大学の工学部を卒業し、技術士官として海軍に入った身だ。

「番長よ……」

 白鳥は再び、隣にいる木戸に声をかける。彼の顔を見ると、ギュッと口を一文字に結んだままだ。

(番長か……)

 木戸は子供の頃、そう呼ばれていたのを思い出し、口を開こうとした。

 懐かしいあだ名で呼ばれて、応えたかった。しかし、海軍の厳密な階級社会では、いくら技術士官の大尉であったとしても、一介の二等兵曹がタメ口で話すのは、はばかれるだろう。

 ここは呉。海軍の鎮守府も置かれている場所だ。

 今は、見たところ他の者はいないが、いつ誰が後ろを通るか分からない。

 白鳥が私服を着ているからといって、下手にそんなところを見られたら、どんな仕打ちがあるのか分かったものではない。

「――白鳥造船大尉。まだ終わっちゃいません」

 木戸は、葛藤の末、何とか絞り出した。

 それを聞いた白鳥はハッとした顔をする。そして、再び〝駿河〟を見た。いや、彼と顔を合わせられなかった。

(自分は木戸に迷惑をかけてしまった……)

 士官と下士官の見えない壁がある事を、改めて気づかされた。

 木戸と白鳥は同郷の幼なじみであったのだが、しばらく合わないうちにふたりの間には、大きな壁が出来てしまったようだ。

 自分は大学から下士官を飛び越えて士官になった。だが、木戸は……今の姿を見れば、すぐに理解できた。高等小学校を卒業して、すぐに海軍に志願したのだろう。そして、まさに血と汗で、今の海軍二等兵曹の地位に這い上がってきた。

(それも、あの夢のためかも知れない)

 それは、子供の頃の戯言といってしまえば、お終いなのかも知れない。だが、このふたりは子供の頃語り合った夢を掴むため、ここまで来たのだ。

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