第14話

 あれから、一か月程経った。

 沢木も他の社員達も、もう事件の話をすることも殆ど無く普通に仕事をしている。

 沢木が再びバッタマンになれ等と言ってくるかもしれないと思ったが、そのような様子は無く平穏な日々に戻っていた。


 そんなある日の終業後。

 帰宅途中、駅のホームでの事だった。

 ふと前方に目をやると、小さな女の子の姿が目に留まった。

 その子は、母親と一緒に電車が来るのを待っている様子だったが、快速電車がホームを通過しようかという時、

不意に持っていたキーホルダーのような玩具を落としてしまった。

 丸く転がりやすい形状のそれは、黄色い線の外側へ向かってコロコロと転がっていく。

 すると女の子はそれを拾おうとして反射的にそちらへ向かって走り出した。

 慌てた母親が女の子を制止しようとしたが、焦って自らの足を絡ませ転んでしまった。

 女の子は転がっていく玩具を追いかけることに夢中で、全く周りが見えていない。

 近くに他の人間は居らず、母親は転んだ体制のまま必死に女の子へ向かって手を伸ばすが届かない。

 玩具がホームから線路へと転がり落ち、走ってきた女の子も自らの勢いを止められずに

一緒に落下しそうになったそのタイミングが、通過する快速電車と合わさった。

 母親が叫び声を上げたが、それは電車の音に掻き消されてしまっていた。


 ――数秒後、電車が轟音と共に遠ざかって行くのが見える。

 泣き叫ぶ母親の腕の中には、先程の女の子の姿が無事なまま収まっていた。

 自身に起きた事を理解出来ていない様子で、ポカンとした表情をしていた。


 俺は快速電車が通過する前と同じ場所に立ちながら、先程と同じように親子を眺めていたが、

しかし、一つだけ違うことがあった。それは、俺の口元に一房の草が咥えられていたということだ。

 それをガムを噛むように、クチャクチャと音を立てながら咀嚼している。


 しばらくすると、今度は各駅停車の電車がホームに停まった。

 俺は抱き合っている親子から視線を外し、開いたドアからゆっくりと車内へ乗り込んだ。


「もしかすると、監視カメラには映っているかもな。でもまぁ、余程のスロー再生でもしない限り、

気が付かれることは無いだろ」


 俺は、誰にも聞こえないような小さな声で独り呟いた。


 真相は簡単だ。

 女の子が電車に牽かれそうになる寸前で、俺は携帯していた草を口に入れたのだ。

 この一か月、俺は理性と人間の姿を保ったままで自らをバッタ化する方法を模索していた。

 適切な分量や種類、あらゆる方法を試していた。

 そして見つけたのが、まず第一に草を飲み込まないということだった。

 ガムのように噛むことで、快楽の奔流を最小限に抑えつつバッタの能力を発動させることに成功した。

 第二に松葉のような常緑樹の葉の方が、理性を保ち易いということだった。

 その辺に生えている雑草だと効果が劇的過ぎるのだ。

 そのことに気が付いてから、俺は常に松の葉を携帯している。

 松葉には、クロロフィルやテルペン精油等の血圧を安定させる成分が含まれていて、

そのことが興奮を抑えることに影響しているのかもしれなかった。


 さらに、一か月前に暴漢達を倒した時と今とでは、発現する力も雲泥の差となっている。

 沢木に言われて感化されたみたいで嫌だったのだが、俺なりに力のコントロール方法を訓練していたのだった。

 バッタマンとしての使命云々に関心は無かったが、それでもいざという時、前回のように理性を失わないように、

自らを安心させる為のマニュアルを作っておきたかったのだ。 


 今の俺は、本気になれば誰にも姿を視認することが出来ないような高速で移動することも可能だ。

 ホームで女の子が落ちそうになった時、瞬間的にそこまで跳躍して母親の元にその身体を押し戻したのだった。


「正義の味方ってやつか。まぁ、悪くないけどな」


 一人車内の窓際に立ち、流れる景色を眺めながら俺は少しニヤけた。

 とはいえ、これを沢木に言うつもりは無い。

 あいつに知られたら、再び使命がどうとか言われて、面倒くさいことを押し付けられるに決まっているからだ。


 俺は今、誰にも知られること無く他人が持ち得ない力を得ることで、小さな優越感を楽しんでいた。

 これから先この能力は、草むらで遊ぶことの極楽と共に俺の生活を愉快にしてくれる。

 そんな気軽な調子でいたのだ。

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