第6話

 この歳で失恋でショックを受けるなんて、恥ずかしいことなのかもしれないが、

 まさか、水原さんが俺に誘われることで同僚とこんな会話をしている等と思いもしなかった。

 

 怒りなのか動揺なのか、身体はヒンヤリとしているのに、

次から次へと嫌な汗が流れてシャツを湿らせている。


 会社を出た俺は自宅へは戻らなかった。何故だか真っ直ぐに帰りたく無かったのだ。

 気が付くと俺は回り道をして、子供の頃に住んでいたアパートの方へと向かっていた。


 辿り着くと、そこは当時と殆ど変わっていない。

 昔家族で住んでいた部屋の窓には、見慣れないカーテンが掛っていて、

それだけが唯一、時間の経過を感じさせている。


 それを見た瞬間だった。これまであまり思い出さなくなっていたあの記憶が、

まるで何かのスイッチを入れたかのように奔流の如く溢れ出してきたのだ。

 俺は思わず走り出すと、アパートの裏へ回り込み、そして凝視した。


 やはり、残っていた。当時遊んでいた雑草生い茂るあの空間、あの空き地が。

 但し、一つだけ違っていたことがある。それはスケールだ。スケールが当時の比ではないのだ。


 俺の背丈を超える雑草が無数に伸びて、地面に異様な影を落としている。

 何故手入れをしないのかは分からないが、伸び放題に伸びて巨大化している。

 まるで、そこだけ治外法権で、何人も立ち入ることを許されていないかのように。


 その光景を目の当たりにした突如、俺の身体は不意に激しく打ち震えた。

 巨大バッタのボスに捕らえられ、無理矢理に食わされた、あのバッタ団子の味、臭い。

 それらが一気に思い出されて、俺はその瞬間、


 ――渇望した。


 空き地のフェンスを踊るように乗り越えて、勢い良く雑草の中へと飛び込むと、

無茶苦茶に転げまわりながら、俺は草を食んだ。


 キラキラと輝いて、まるで黄金のような眩しさを湛えたそれらは、

俺の口の中で咀嚼されて、肉体へ染み渡るように吸収される。


 旨い!!!! 旨すぎる!!!! た、楽しい!!!! 楽しすぎるーー!!!!


 水原さんに振られた悲しみと苦痛、その陰鬱の全てが、まるでこの快感の糧となったかのように、

俺の感情はその暗さと反比例した喜びの奔流に支配された。


 例えるなら、それは爆発だ。

 俺の中の殻が割れて中から飛び出してきた本当の俺の誕生した瞬間とでも言うような、

 魂のビッグバンだ。


《――今はまだ、分からなくて良い。いずれ自覚する時が来る。その時まで――》


 俺をさらった巨大バッタのボスが残した言葉が頭の中で繰り返される。

 まるで、今がその時と告げるかのように、俺の身体が、心が、魂が、そのことを認めているのだ。 


 何もかもが肯定されて、何もかもが輝いて、その波に身を委ねる喜び。

 それを知った瞬間から、この空き地という極楽は、平凡な俺の”生きがい”のその全てとなったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る