第5話

 目が覚めた時、そこはバッタに連れていかれた林ではなく、

先程まで俺が居た、アパートの裏側の空き地だった。

 巨大バッタの姿は、もう見当たらない。


 立ち上がり辺りを探すと、少し離れた所にバッタを捕まえようとした時の

虫捕り網が落ちていた。

 持ち上げて眺めると、網が破れている。夢じゃないのだ。


 だが、喉元過ぎれば熱さ忘れるではあるまいが、

あれだけ異常なことが起きた後だというのに、俺は妙に落ち着いていた。

 誰かに相談しようにも、これを理解してくれる人がいる筈は無いことを、

子供ながらにどこかで悟っていたのだ。

 焦る焦らないではなく、その余地が無かった。完全に諦めていた。


 それにしても、ふと目の前を見ると、何故だか辺りがキラキラと美しい。

 風に揺れる雑草が、まるで宝石のように輝いて見える。

 俺はそこに付いている葉っぱを一摘みむしってみた。

 そして、それをおもむろに口に入れて咀嚼する。


 そのまましばらく噛み続けていると、

これまで雲に隠れていた日の光が不意にその姿を覗かせて、俺の顔を眩しく照らし始めた。

 その瞬間、俺はハッと我に返った。そして、同時に口の中の異物と苦みを激しく自覚した。


「――おえっ?! げ、げほ、げほ!! なんだって、こんな草を口に……??」


 俺は訳の分からないまま、呆然と空き地に立ち尽くしていたが、

しばらくすると、無言で自宅のアパートへと戻った。


 ――結局、この日の出来事はそのまま誰にも話すことは無かった。



 空き地を見る度にその時の事を思い出すものの、

何故かそこに生えている雑草を眺めていると心が落ち着いていき、

巨大バッタの記憶は恐怖心を抱かせるどころか、

どこか懐かしい、癒しすら感じさせる思い出となっていた。

 そしてそれは、次第に記憶から風化されていった。


 その後、俺は小学校を卒業して、中学、高校、大学へと進み、社会人になると一人暮らしを始めた。

 実家も引っ越しをした為に、空き地へ寄り付くことも殆どなくなった。


 ごく普通の平凡なサラリーマンの生活。

 特に変わったことは無く、特別な幸運も、そして災いも起こらない平穏な日々。

 そんなある日、俺は一人の女性に恋をした。

 水原美咲(みずはらみさき)さんという、同じ会社の同僚の女性だ。


 彼女は優しく美人な上に、誰にでも気遣いが出来て、

異性からも同性からも慕われていて、まるで社内に咲く一輪の花のような人だった。


 今まで女性と付き合ったことの無かった俺からしてみれば、正に高嶺の花。

 彼女とは仕事上での会話ですら、しどろもどろになる始末だったが、

それでも、俺はある時思い切って食事へと誘ってみた。

 結果はやはりと言うべきか、その日は予定があるということで丁重にお断りされたのだが、

恋愛経験に乏しい俺はその時、それを額面通りに受け取ってしまった。


 予定があるなら別の日にしようと考えて、その後再び、彼女を食事に誘ってしまったのだ。

 本当は予定のせいではなく、俺と食事に行くことを拒絶しているのだと気が付くことは出来なかった。


 一年に一度、棚卸しで俺の部署ではすることが無く、午前で仕事が終わる日の終業後、

俺は、また声をかけようと彼女の座るデスクへと向かった。

 すると、俺が声をかけるよりも先に、数人の女子社員が彼女に近寄り、そのまま連れていってしまった。


 自販機のある給湯室の方へ向かったので、コーヒーでも飲むつもりなのだろうかと思い、

室内から出てくる所を待って再び声をかけようと、俺も遅れて後に続き、

 そして、給湯室のドアの前で立ち止まった。


「ちょっと、何あれ? さっき沢崎、水原さんに声かけようとしてなかった?

ていうか、この間も声かけてたでしょ。何か言われたの?」


「う、うん……食事に行きましょうって……でも、その日は予定があって……」


「えー? 本当に?? やばいって絶対。はっきり断った方がいいよ? ああいう奴って、空気読めないんだから」


「え、でも……」


「大体、身の程知らずよ。どの面下げて、水原さん誘ってるのって感じ。

水原さんだって嫌だよね? あんな奴」


「そ……それは……」


「嫌に決まってるじゃない。聞くまでもないわよ。

あんまりしつこくされるようなら、課長に報告したほうがいいよ」


 盗み聞きするつもりでは無かったが、俺が後からついて来ているとは思っていなかったらしく、

その声はヒソヒソ話と言うのには余りにも大き過ぎた。そのせいで嫌でも聞こえてしまったのだ。

 

 俺は彼女達の会話にショックを受けて、しばらくその場に立ち尽くしていたが、

給湯室の扉がガチャっと開く音がした瞬間、ハッと我に返り、逃げるように駆け出した。

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