夫との遭遇、ふたたび

 ルイさんと一緒に学校の計画を立て、街に見学に行く。ジェイドを解放出来るよう、自分の意思で動けるように練習する。


 繰り返しているうちに、私の中で何かが変わってきたようだ。だから、2回目の遭遇では前回ほどの醜態をさらさずに済んだ。


 ルイさんは毎日来れるわけではなく、少し期間が空いてしまう事もある。自由に外を歩く楽しみを知ってしまった私は、家の中に閉じこもりっぱなしだと閉塞感を覚えるようになっていた。


 とはいえ、一人で街に行くことはルイさんにも止められている。安全とは言い難いそうだ。


 庭の散歩をするしかないけれど、日中の庭に出て好奇の目にさらされたり詮索を受けるのはおっくうだ。夜にカルロに遭遇した恐怖は、まだ忘れられない。


(では、早朝なら?)


 早起きは得意だ。日が昇りかけたくらいの時刻に散歩に出ることにした。


 もうすぐ冬にさしかかる。薄着では肌寒さを感じる気温だ。明るくなりかけた空には薄い雲がかかり、風がそれを揺らしている。少し冷たい空気を思い切り楽しみながら、のんびりと朝露に濡れた草を踏んで歩いた。


 池を見に行きたい。


 カルロとジェイドと一緒に庭を駆け回っていた頃には、その池に小石を投げ込んだり葉っぱを浮かべたりして遊んだ。手入れが行き届き澄んだ水面に反射する日差しがとても美しい池だった。3人ともこの池が大好きだった。


 水面に浮かぶ月を見たくて、この前はカルロに遭遇してしまった。でも、この時間は大丈夫だろう。朝日が差す水面が見られるかもしれない。


(相変わらず、鏡のように美しいわね)


 鳥のさえずりが聞こえる。もうすぐ日が昇りそうだ。風が止み水面はしんと落ち着いている。私は池を鑑賞するために置かれたベンチに腰かけた。思い切り伸びをして空気を吸い込む。


 ザッ。


 草を踏みしめる音が背後から聞こえた。振り返るとそこには。


(カルロ!)


 一気に内臓が引き絞られるような緊張感が体を支配する。身動きが出来ない。


 カルロの方は目線を足元に向けているせいで、まだ私に気が付いていない。今のうちに逃げなければならないのに体が動かない。ジェイドが言っていたことを思い出す。


(あの頭の中には枯れ草が詰まっている。恐れる必要はない)


 結婚式の日の恐ろしい顔を思い出す。身体が震えだす。


 最近ルイさんがよく言い聞かせてくれることを思い出す。


「オリヴィは自分に自信を持て。君はちゃんと物を見て考えられるし意思も感情もある。君の思う通りに行動するんだ」


 私はあの時の私よりも強くなった。少し悪妻らしくなったし、ルイさんと一緒にジェイドに秘密を持って学校を作る計画を立てている。街にだって行くようになった。ルイさんの見守るように優しい琥珀色の瞳を思い出した。


 心の中が少し温かくなり体の震えが止まった。


(動ける、大丈夫)


 私はそっと立ち上がり、足音を立てないようにして立ち去ろうとした。


「オリヴィ?!」


 カルロに声をかけられた。見つかってしまった。


 私は全力で駆けた。でも朝露に濡れた草は滑りやすい。あっと言う間に追いつかれて腕を取られてしまった。


「離して! どうして追いかけてくるの? 私に関わらないんじゃないの?」

「すまない、分からないけど、逃げるからつい」

「では、逃げません。だから離して」


 カルロは大人しく腕を離した。私は少しずつ後ずさり、数歩離れたところで背を向けて歩き出した。


「待てよ! 逃げるんじゃないか!」


 慌てた様子でカルロがまた私の腕を取る。


「離して! 逃げてないもの。ただ家に帰るだけよ」

「何だよそれ」


 その呆れた口調は一緒に遊んでいた時のカルロの口調で、急に懐かしくなった私の目から勝手に涙があふれだした。


(どうして涙が出るの)


 私はカルロに背を向けたまま思い切り力を入れて腕を振り放そうとする。でも離してもらえない。涙も止まらない。とにかく、ここに来てしまったことを後悔する。


(もう、二度と池を見に来たりなんてしない)


「⋯⋯泣くなよ」


 私はカルロに泣き顔を見られないよう顔をぐっと背けた。


「離して、帰るの」

「ごめん、この前は夜に怖がらせたみたいだから朝なら来ないと思って」

「離してってば」

「何か困ってないか?」

「何も困ってない」

「ジェイドとは一緒に暮らしてるんだろう。仲良くやってるか?」

「うん、仲良くしてる。色々と助けてもらってる」

「そうか」


 なぜか、すごく安心したような声を出す。今日は昔の私が好きだった時のカルロみたいで思わず振り返ってしまった。


(私が知ってるカルロだ)


 そこに立つのは結婚式の時の恐ろしい顔をしたカルロではなく、優しい眼差しを向けてくれるカルロだった。


 一緒に遊んでいた頃のカルロは、いつも優しかった。蔑みの視線を浴び冷遇されるジェイドや私にも他の人と分け隔てなく接し、集まりの中の主流で華やかな子たちと離れて私たちと遊んでくれる。


 活発なカルロと冷静なジェイドは息がぴったりで、好奇心が強いくせに深く物を考えない私は、二人が仕掛ける悪戯にひっかかっては、ひゃあひゃあ驚いて二人を笑わせていた。


 足が速い私は、かけっこだけは二人に負けなかった。カルロが負けることを悔しがり、体力が尽きそうになるまで何度も何度も競争させられたこともある。


 二度と戻ってこない子供時代の楽しい時間。


「あんな言い方をして、傷つけて悪かった」

「今日は私が知ってるカルロに見える。この前は知らない人みたいだった。どうしてあんな言い方したの?」

「嫌われないと、意味がなかったから」


 (嫌われないと意味がない?)


「ちゃんと話してくれたら理解できたよ。結婚が嫌だったことも、私とは関わりなく暮らしたいことも、ちゃんと説明してくれたら受け入れたよ。我儘を言って、つきまとったりしなかったよ。⋯⋯怖かったけど嫌いになんてなれないんだから、あんな事しても意味ないよ」


 多分、悲しく思う気持ちは変わらなかったと思う。それでも、ちゃんと話してくれたら受け入れられたのに。結婚前だったとしても、それでも結婚を必要とすると言うなら従ったのに。


「嫌いに⋯⋯なれない?」


 カルロが戸惑ったような顔で、心細そうな顔で、私にすがるような視線を向ける。


 話してみて分かった。結婚式の日の恐怖や悲しみは忘れられない。でもカルロを嫌いになったわけではない。


「当たり前じゃない。ずっとずっと大好きだったのに、そう簡単に嫌いになれるんだったら、あんなに悲しい思いをしたりしない」


 腕を強く引かれて抱きしめられた。意図が分からず離れようとしても力が強くて全然離れることが出来ない。


「どうしたの? 離れて!」


 ますます腕の力が強くなり苦しい。カルロの強い鼓動を感じる。


「あんなことしたのに何で嫌いになれないなんて言うんだよ。あそこまでやったのに、何で」


(泣いている?)


 私の顔はカルロの肩に押し付けられていて彼の顔が見えない。でも泣いているように思える。


「ずっと好きだったなんて優しい事言うなよ。あきらめられなくなる。後悔したくなる」


 何をあきらめて、何を後悔するのか。カルロの言っている意味が全然分からない。自分らしい結婚をあきらめた事を後悔しているのだろうか。


 それなら、この結婚に縛られているのはカルロも同じだ。


(学校を成功させて、一人で生きて行けるようになって、ジェイドとカルロを解放する)


 学校の成功は私たちみんなの成功につながる。


「今ね、悪妻になる努力をしてるの」

「悪妻?」


 悪妻路線から、夢路線に少しだけ変更しているけど、詳細はまだ教えられない。私はカルロの背中をポンポン、と優しく叩いた。


「そう。すっごく悪いこといっぱいするのよ。でもね、成功したら、みんなが幸せになれるの」

「何だそれ? 全然意味が分からない」

「ふふふ。今はね。でもいつか分かるから楽しみにしていてね」


 もう一度、背中をポンポンと叩いた。


 カルロは、ふふっと少し笑ったようだった。


「そういえば、お前はそうやって、突然理解出来ない事を言うやつだったな。お前、全然成長してないじゃないか」

「そんな事ないわよ。私は何度も脱皮して、もう昔の私ではないの。まだ成長するんだから、いつか驚いてね」


 やっと腕をゆるめてくれた。私はそっと身を離す。


「悪いけど、今朝の事はジェイドには言わないで欲しい」


 カルロが俯いて言う。表情は見えない。


「分かった。じゃあ、私帰るね。いつか、また会いましょう」


 いつかまた、夫に言う言葉ではないな、なんて思いながら背を向けて今度こそ立ち去った。


 私はもう、カルロに怯えることは無い。ジェイドには言えないけれど、ルイさんには克服したことを報告しよう。きっと褒めてくれる気がする。

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