彼方より来た真実
突如現れた真結の鬼気迫る様子に、その場の誰もが咄嗟に反応出来なかった。
皆が息を飲み動きを止める中、真結は足を引きずりながらも、真っ直ぐに迩千花に近づき、必死の形相で掴みかかる。
「あれは、あれは誰なのよ!?」
「真結……? どうしたの、一体何……?」
真結が何を問いたいのかを読み取る事が出来ず、震える声で問い返す。
そんな迩千花の様子に苛立ったのか、真結は乱暴に頭を左右に振ると更に詰め寄った。
「あんなに、あんなに強いなんて聞いてない! おかしいわ、あんな力を持っているなんて……! いえ、そうじゃない……!」
自分の腕を掴む力が余りに強くて痛みに顔をしかめるけれど、それ以上に真結が何を言いたいのかが分からない。
真結は誰と戦いこのような有様になったというのだ。
誰の事を、真結は。
「そもそも、貴方に兄なんて居なかったじゃない! あれは、あれは一体……!」
迩千花の目が見開かれる。
兄など居なかった、と真結は言ったのだ。かつて仕えていた女中がいったように、築は……兄は誰だと問うている。
居なかった筈の兄、それを名乗る者は、一体何者だと。
迩千花は答えを返せず、口を開きかけては短く息をするばかり。何か返そうと思っても言葉が形となり紡がれる事はない。
何故、真結もこんな事を言うのだという疑問が心の中を埋めつくす。
築は確かにそこに居て。彼は、確かに迩千花の兄で……。
迩千花の裡で何かが強い痛みとして生じ、思わず小さく呻く。
それは警告のようであり、内側にあったものが浮き上がりかけているようであり。
そこで、不意に迩千花を掴み上げていた真結の腕から力が抜ける。
怪訝に思う迩千花の目の前で、真結の身体が崩れ落ちる。
迩千花が咄嗟に何も出来ぬうちに、真結の身体は鮮やかな紅の飛沫を上げながら、地面に倒れ伏した。
呆然とする迩千花の頬にも着物にも、従妹の赫が飛んだ。
少し離れた地面に転がったのは、あれは……真結の……。
――地に転がった真結の身体には、彼女が誇った美しい顔がないのだ。
「下手に強い力を持ってさえいなければ、他と同じ様に騙されたまま死ねただろうに」
血を踏みしめる音と共に、変わらぬ穏やかな声音で呟きながら、その人影は姿を現した。
迩千花にとっては見慣れた、慕わしい筈の人――迩千花の兄である、築が。
このある種異常な空気の中を、平素と変わらぬ様子で悠然と歩んできている。
誰もが凍り付いたように動かない中、築は『それ』の目の前で足を止めた。
呆然とした表情を浮かべたまま地に落ちたもの――恐怖のまま表情を凍らせた真結の首を見下ろして、築はわらう。
「お前は先の世も現世も、扱いやすくて本当に助かったよ」
誰も何も言う事が出来ない。不気味と言える程穏やかな声音で呟かれた言葉の後に満ちるのは恐ろしい沈黙だった。
あまりに常軌を逸した光景に誰もが呆然としていた中、それでも一番初めに我に返ったのは見瀬の長だった。
愛娘の無惨な姿に顔色無くしていたが、直ぐに湧き上がる怒りを感じさせながら叫ぶ。
「何という、事を……! どういう事だ! お前は見瀬に下った筈だろう!」
ああ、やはりと迩千花は心の中で呻いた。
内通者は築なのではないか、という想いがどこかにあった。幾つかの事実が築を示していたから。
それでも、それだけはあって欲しくないから見ぬふりをしていた。それが、肯定されてしまった。
迩千花の父母たちも、息子の裏切りに驚愕している。
怒りに震える者達、驚愕に言葉を失う者達を悠然と見回しながら築は溜息と共に言葉を紡ぐ。
「もう少しうまく立ち回って欲しかった。首尾よく二人を引き離せていたら、生かしておいてやる事も考えたのに」
「それは、どういう……」
ひび割れた声で、伯父は言葉をかろうじて絞り出した様子だった。
築が言葉の意味を理解できていないだろう見瀬の者達を、そして玖珂の者達を見る。
それは、まるで価値なきものを見るような……もう『用済み』の道具を見るような一かけらの情も籠らない眼差しだった。
「言葉通りだよ『伯父上』。……もう貴方方、見瀬も。玖珂すらも、必要ない」
築の言葉に応じるように、数多の影が地面から湧き出るようにその場に現れる。
迩千花はそれが何か認識すると、身を強ばらせた。
あれは、あの日迩千花を襲った黒い獣だ。
けれども今姿を見せているそれは、迩千花への敵意は感じない。
純粋にその場にいる迩千花以外の人間に対して牙を向いている――地を蹴ったかと思えば玖珂も、見瀬も関係なく屠り、喰らっていく。
ああ、術を以て抗っていた伯父に獣が群がる。噛みつき、引きちぎり、断末魔の悲鳴と共に伯父の命が身体ごと消えて行く。
父も母も、異能を封じる戒めを受けている為に逃げ惑う事しか出来ていない。
やがて追い詰められて、伯父と同じように噛みつかれ、喰らわれて……。
何が起きているのか、わからない。
目の前で血のつながった者達が命を散らしているというのに、理解が追い付かぬせいで何の感情も湧いてこない。迩千花の顔色は紙のように白かった。
自分は、囚われた玖珂の者達を助ける為に、見瀬と交渉を持つ為にこの場にやってきた。
玖珂の者達は我が身可愛さに織黒を封じようとして、自分はそれに抗って。
――そして今、玖珂も見瀬も関係なく、その場に居る者達は血生臭い光景を繰り広げさせられている。呪いの獣が次々とその場にある命を血祭りに上げている。
「おにい、さま……?」
上がる血飛沫に、悲鳴に。紅の花の庭を満たす咽返るような鉄さびた臭いに、眩暈がする。
これは悪い夢だと思いたい、性質の悪い冗談であればと思いたい。
しかし、命が消えていく様は紛れもない『現実』であるのだと思えば、声は声にならず、空気の漏れるような掠れた音が喉から漏れるだけ。
漸く紡げたのは、乾ききった声音の言葉だけだった。
心のどこかでは、目の前の人をそう呼ぶのは正しくないと気付いているけれど。迩千花の口から紡がれたのは、その言葉だった。
「ああ、すまないな。迂闊だった。顔も着物も汚れてしまったな。すぐに綺麗にするから」
全く感情の籠らぬ仮面のような表情が、瞬時に明るく温かなものに変化する。穏やかで理知的な笑みが迩千花に向けられる。
その変わりようはただ恐怖でしかない。何時も見慣れていた筈の笑顔が、狂気すら孕んで見える事に迩千花の身体は震え始める。
この人は、誰? と迩千花の裡を問いが埋めつくす。
異能を失った迩千花を変わる事なく慈しんでくれた優しい兄。冷たい一族の中、ただ一人変わらぬこころを向けてくれた大切な兄。
その心が、今は見えない――。
築が迩千花に向って一歩歩みだした時、迩千花の視界が広い背中で遮られる。
織黒が築と迩千花を遮るように前に踏み出したのだと気付いたのは、一瞬遅れての事だった。
「止めろ……! 迩千花に近づくな……!」
思わず、震える手で織黒の着物を握りしめてしまう。
確かなのは指先に感じる、縋る織黒の背の温もりだけ。
迩千花を背に庇い真っ直ぐに築の居る方角を見据える織黒が、どんな表情で惨劇を見ているのか迩千花からは分からない。
けれども、その声には煮えたぎる怒りと、底に微かな哀しみがある気がした。
土を踏みしめる音は続いている。築は無言のまま歩みを進めている。
低く呻いていた織黒は、その腕から黒き焔を放ちながら咆哮のような叫びをあげた。
「お前が迩千花に触れるな! 久黎……!」
織黒が築を攻撃した事に驚いて声を上げかけた迩千花が、凍り付いたように動きを止めた。
織黒は今、築を何と呼んだ?
くれい、と。
――久黎と、呼ばなかっただろうか?
有り得ない、それは玖珂が祭り続けた神の名前だ。三年前の祭祀での事故以来、沈黙してしまった祭神の名前だ。
築は人間であって、迩千花の兄であって……。
冷たい汗が一筋背を伝う。迩千花が言葉を紡げずに居る中、築は大仰に溜息をついた。
「何だ、記憶を取り戻したのか」
「……あの呪いの杭のおかげでな……」
織黒は怨嗟が籠っていると思う程に低い声音で返し、それを聞いた築はならば感謝する事だな、と嘲笑を返す。
二人のやり取りに、迩千花の理解はいよいよ限界を迎えようとしていた。
築は――築だったひとは、呼びかけられた内容について、一言も否定を口にしていない。
迩千花は一歩踏み出して、そこに居る相手を見つめた。
穏やかな微笑みに底知れぬ畏怖が宿る兄であった存在。人ならざる、白き真神。
一族が祭り続けてきた、そして三年前から沈黙し続けてきた祭神。
余りに荒唐無稽で、嘘だと言いたくても出来ない。迩千花の中にある何かが、それが事実だと告げている。
失われた過去の向こうにある真実が、そうであると。
彼こそが、失われたとされていた久黎であると……。
――それならば、私のお兄様は一体。
脳裏にそう呟いた瞬間、頭が締め付けられるように痛み、迩千花は思わず顔を顰める。
それは、この身体にのこった『迩千花』の記憶の欠片だった。
切れ切れに浮かぶ幼い日の記憶。
周りには大人ばかり。子供にすら見透かせる、下心が見え見えの人間達の中に一人で寂しかった迩千花。
迩千花には誰もいなかった。
日々その地位に相応しくあるように励んでも、本当に気遣い労わってくれる人も、損得など抜きに慈しんでくれる人も。
迩千花の兄。そんなものは、初めから。
それが『迩千花』の中の、真実。そして『わたし』のものではない真実……。
心の天秤をもはや平衡を保つ程が出来ぬ程に揺らし続ける出来事、明かされた事実。
そして、白き真神と黒の真神が同じ場所に立つ姿。
ぐらりぐらりと地面が揺れているような気がする。魂を掴んで揺さぶられているような心地がする。
けれども、少しずつ必死に耐える。その向こうに、求めていた答えがある。自分が、何者であるのかという答えが。
何処から来て、何故此処にあるのか。三年前に、何があったのか。
長い間揺蕩っていた霧の向こうに、足を踏み出す時が来たのだ。苦痛が伴うとしても、自分が『誰』なのか知る時が来たのだと――。
「『迩千花』に、兄なんて、居なかった……」
低く呻くような囁きに、男二人が弾かれたように声の主の方を見た。
二つの眼差しを感じ、魂が揺れる苦痛に顔を歪めながらも、掠れた声で続きを紡ぎ続ける。
「貴方を兄と呼ぶのは……『迩千花』でも、『わたし』でも、ない……」
震える声で紡がれる言葉に織黒の顔色が変わり、久黎の瞳に喜色らしき光が宿る。
固く閉じた扉をこじ開けるような痛みとも何ともつかぬ感覚に耐えながら、彼女は顔を上げ、二人を見据えた。
そこには、戸惑いの果てに真実を手にした者の強い光があった。
「きょうだいなのは、貴方達……」
玖珂の祭神である二柱の真神、久黎と織黒。白と黒の狼こそが真の兄弟。
二人は共に玖珂に祀られ加護を与え続けてくれていた。
自分はそれを知っている。だって、自分は彼らとずっと共に居たのだから。
何より大切と想い、側にいたのだから……。
織黒は呼びかけようとしているが、その言葉を中々口に出せずに居るようだった。
彼もまた記憶を取り戻したばかりであり、過去と今の繋がりを受け止め切れずにいるのかもしれない。
「ああ、どうやらお前も思い出したようだな。……兄など居なかったと。いや……」
築であった者――久黎は場に緊迫した空気に合わぬ柔らかく優しい笑みを向けながら言葉を紡ぐ。
待ち望んできた時が来たという喜びを露わに、彼女にとって絶対的な事実を口にする。
「……自分が『迩千花』ではないと」
そう、自分は『迩千花』ではない。
少なくとも、そう生まれ落ちて育ち、三年前まで生きて来た存在ではない。
この身体は確かに玖珂の長女であるもの。
けれども、自分は違うもの――。
彼女は織黒、そして久黎へと視線を向ける。
その眼差しは懐かしさと愛しさと、あまりにも哀しみに満ちていた。
ああ、この場所だ。この彼岸花、いや曼殊沙華の咲く庭が何時もの場所だった。
あの日、温かな日差しの庭を三人で歩いた。徒然事を語りながら、笑い合いながら過ごして居た。
私が居て、織黒がいて、そして……。
「織黒……久黎……」
「ああ、漸くお前にそう呼んでもらえた」
複雑すぎる声音に、織黒は何と応えていいのかと逡巡している様子だった。
だが、久黎は万感の思いが籠っているのではなかろうかという呟きを零す。
彼女が、望む通りの状態に辿り着いた事を心から喜んでいるようである。
何よりも愛しいものを見つめる眼差しで見つめながら、久黎は告げた。
「おはようかな? ……寿々弥」
――わたしは、かつて『寿々弥』と呼ばれた者。
玖珂の一族の長であったもの。
そして、二人の真神と共にあったもの……。
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