少女は選び、そして抗う

 父母が織黒にその呪いの杭を突き立てたと認識出来たのはひとつ、ふたつ、瞬きした後だった。


 迩千花は織黒に縋りつき、必死に名を呼び続けた。

 穿たれた傷による苦痛よりも杭が帯びていた呪いが身を蝕むのが辛い様子で、迩千花に己に触れるなと言いながらも、呻き声が止む事はない。

 蒼褪め震えながら、迩千花は声を振り絞り問いを叫ぶ。


「お母様……お父様……何故……?」

「わ、私たちが助かる為に他に道はないのです……!」


 何故、と問いが迩千花の中を埋めつくす。

 織黒に呪いを帯びた杭を打ち込んだのは、見瀬の者達ではない。

 助けにきた筈だった、玖珂の者達だ。織黒を崇めていた筈の、迩千花の父母だ。

 迩千花は、この人達を助ける為に交渉の場に出向いてきた筈だったのだ。それなのに、その人たちは織黒を害したのだ。

 狂ったような甲高い声で母は叫び、迩千花はそんな母を信じられぬと睨みつける。

 かつて見た事もない程強い眼差しを向ける娘に一度怯んだものの、母は更に喚き散らす。


「その祟り神を封じれば、私たちは助かるのです……!」


 迩千花は母が何を言っているのか、欠片も理解出来なかった。

 あれだけ持ち上げ尊いと祀っておきながら、何故今になって再び祟り神と蔑むように言うのか。

 皆を助けに来た織黒を封じる事が、何故皆を救う事になるのか。

 何故、織黒は今苦痛に呻いているのか。自分は、一体何の為にここに立っているのか。


「織黒を、封じる……?」

「可能だろう。……お前がそう願えばいいのだ」


 問いに問いが重なり、最早様々な感情が綯交ぜとなり言葉を紡げずに居る迩千花は、言われた言葉を無意識のうちに繰り返していた。

 そんな迩千花に、伯父は酷薄な笑みを浮かべながら言う。


「そうすれば呪いは再びその祟り神を喰らい、そやつは眠りにつく」


 呆然としながら、迩千花は伯父を見据えた。

 織黒は今呪いに食われまいと苦悶の中抗い続けている。

 しかし、迩千花が一言『抵抗するな』と言ったなら、迩千花の願いを聞き届ける織黒はその通りにするだろう。

 そして、何時目覚めるとも知れぬ封印の眠りに就くのだ。

 それを目の前の人間が、そして助けにきた筈の者達が望んでいるのだ……。


「その祟り神を再び封じたなら、お前の両親の命も玖珂の者達の安寧も保証してやろうというのだ」

「そんな話を信じたのですか!? 織黒が居なくなれば抵抗する事すら叶わなくなると思わなかったと!?」


 自らの寛大さを示そうとでもいうように鷹揚に呟かれた言葉に、迩千花は怒りを露わに非難の叫びを上げる。

 伯父に対してではなく、その言葉を信じて愚行に及んだ父母を始めとする玖珂の者達に対してである。

 玖珂に怨嗟を抱き続けてきた伯父がそんな約束を守る筈がない。

 従ったが最後、玖珂は再び祭神を失い、見瀬に下らざるを得なくなり支配されるだけ。

 そんな事も判断できぬほどに愚かだというのか、この父母たちは。

 伯父は、迩千花の問いへの嗤いを含んだ声がある事実を迩千花に告げた。


「見瀬は、久黎様を呼び戻す術を手に入れた。……本来の祭神がお戻りになるなら、代わりは必要ない」


 迩千花の瞳が、驚愕に見開かれる。

 伯父は迩千花が言葉を失った事に満足したように笑った。

 寧ろ目先の利益に囚われ祟り神を祀った事に沙汰があるかもと伯父が呟くと、見て分かる程に母たちの肩が震える。

 織黒を手に入れようとしたのは自分達もでしょうと、迩千花は言ってやりたかった。

 久黎を取り戻す方法とやらが得られなければ、この伯父は迩千花ごと織黒を見瀬のものにしようとしていた筈だ。娘の真結が織黒を自分のものにしようとしたように。

 自分達の都合で祭り上げておいて、必要なくなれば忌まわしいと払いのけ。どこまでも自分達の都合で振り回して。

 何て、何て都合のいい――。

 胸の奥底から湧き上がってくる強く熱い感情に身震いを覚える。あまりに強すぎる感情に言葉を紡ぐ事すら出来ない。

 その時、静かな声音で紡がれた言葉が、迩千花の耳に届いた。 


「迩千花、俺はお前の決めた事を受け入れる」


 織黒だった。

 表情には苦痛の色が濃い、呪いは彼を蝕み続けている。

 しかし、迩千花を見つめる眼差しはどこまでも穏やかで、迩千花を慈しむこころに満ちていた。

 震える眼差しで見つめ返す迩千花に、織黒は微かに笑みを浮かべながら続ける。


「お前の望む通りにあれ。……俺が望むのはそれだけだ」


 ぽつり、と雫がひとつ地に落ちる。胸の奥底から突き上げるようにこみ上げてくる感情が、もう止められない。

 溢れだし、頬を伝い落ちていく泪を目にして苦笑いしながら優しい真神はそれを拭ってくれる。

 温かい、と迩千花は思った。

 この温かさを、優しさを、自分は今失おうとしている。

 それは。

 それだけは……。


「さあ、迩千花……」

「嫌です」


 あまりにはっきりと紡がれた拒絶に、今度はその場に居た人間が驚愕する番だった。

 穏やかさを取り繕い促す声音に、迩千花は吐き気すら感じる。

 それに耐えながら、迩千花は再び、明確な自分の意思を宣言した。


「私は、織黒の妻です。夫を封じるなど、絶対嫌です」


 織黒が与えてくれた温もりが、言葉を紡ぐ力となった。

 想う心に、心を返してもらえる。

 心のままに求めて、求められる事ができる。与えられるだけではなく、自分が与える事が出来る。

 愛する事が出来る、愛される事ができる。

 それだけでこれほどに強くなれるという事に戸惑いすら覚える。

 けれども、織黒が迩千花の心にくれた灯りは強き焔となりて、今迩千花を支え、彼女の武器となる。

 迩千花は少しも怯む事なく居並ぶ者達を見据え、言い放つ。


 暫しの間、誰もが迩千花に圧倒されるように言葉を失っていた。

 しかし。


「父母を見捨てるというの!? なんて情け知らずな……!」

「それならば、最初に見捨てたのは貴方達です!」


 我に返った母が責めるように叫ぶけれど、迩千花は怯む事なく鋭い声音で返す。

 異能を失ったからと我が子を存在しない者として扱い、蔑み、虐げてきた。血筋を繋げる為に禁忌を強いようとさえした。

 見捨てたというなら、先に迩千花の手を振り払い、切り捨てたのは父母であり、玖珂の一族だ。

 情け知らず恩知らずと言われようと構わない。そのような人達の為に、織黒を失いたくなどない。

 身勝手で自分本位と言われようと構わない。迩千花が選ぶのは、望むのは。


「私は、絶対愛するひとを諦めたりしません!」


 他者の思惑に振り回される事に慣れてきた。失う事にも慣れてきた。痛みを感じないように全てを諦める事に慣れてきた。

 けれど、代わりなど必要なくなったからと、身勝手な理由で織黒に対して手のひらを返した人たちが、許せない。

 そんな理由で、この世に一人しかいない、かけがえのない存在を迩千花から奪おうとする事が許せない。

 絶対にこれだけは諦められない、譲れない。

 この優しい男性を。祟り神と忌まれるけれど誰よりも優しい心を持ち、迩千花を迷わず愛し慈しんでくれる存在を。


 ――織黒を愛しいと思う心を、愛したいと願う心を、絶対に諦めたくない。


 迩千花は織黒の背の杭に強い眼差しを向ける。

 迩千花のしようとしている事に気付いた見瀬の者達が彼女を捕らえようと近づこうした。

 しかし、それは視界を奪う程に舞う紅い花弁と葉に止められてしまう。

 視界の端に、力づけるように頷く友の姿が映る。

 彼女に頷き返すと、迩千花は織黒を苛む杭に手をかけた。

 その瞬間、凄まじい痛みが迩千花を襲う。呪いの力が杭に触れた手を焼き蝕んでくる。

 止めろと織黒が叫んでも、迩千花は杭から手を離さない。

 手が灼け火膨れが出来ても、それが破れ遂には血が滲んでも、渾身の力を込めて杭を引き抜こうとし続ける。


 嫌だ、絶対に諦めるなんて嫌だ。

 ようやく出逢えた、ようやく手に入れた。絶対に諦めたくない、失いたくないと思えるひとを。

 確かに大地を踏みしめて立つ強さを与えてくれる存在を。

 諦める事に慣れてきた。望まぬようにして生きて来た。

 そんな自分だけれど、これだけは絶対に――。


 駄目だ、と織黒が叫んでいる。誰かの名前を呼んでいる気がする。迩千花の名前ではない、彼女の名前を。


 迩千花の必死の形相と、咆哮とも思える叫びにその場の人間達は畏怖すら覚え、凍り付いていた。

 制止しようとしていた見瀬の者達も、囚われの玖珂の者達も皆蒼白のまま言葉を紡ぐ事が出来なかった。


 そして遂に、迩千花は織黒の身体から呪いの杭を引き抜いた。

 血が飛び散り、迩千花の頬や着物に散る。

 杭が織黒の身体から離れた瞬間、迩千花は勢い余ってその場に倒れ込み、黒き杭は地面に転がる。

 肩で荒い息をする迩千花は、彼女を包むように抱き上げる温かい腕を感じた。


「止めろといったのに聞かぬから、このような怪我を……。痕が残ったら如何する……」

「望む通りにあれ、って言ってくれたのは織黒よ?」


 迩千花を抱き起こしぼろぼろに傷ついた手をとりながら、その怪我の酷さに顔を顰めながら呟いた織黒。

 けれど、迩千花は笑っていた。とても晴れやかで、何の陰りもない笑みだった。

 手の痛みなど気にならない。痕が残るかもしれないのもどうでもいい。

 織黒が失われる事なくこの手に触れていてくれること、それだけが今の迩千花にとっての全てだった。

 迩千花の笑みを見て、織黒は苦笑いの表情を浮かべる。それは、どこか困ったようでありながら、とても優しいものだった。

 織黒は迩千花をしっかりと抱き締めると、怯えた表情を浮かべ居並ぶ者達を睥睨する。


「随分とふざけた真似をしてくれたものだな。だが……」


 玖珂も、見瀬も、その声音の底に煮えたぎるような怒りを感じて蒼褪め震えている。

 織黒に杭を打ち込んだ父母はその場にへたり込み、伯父は次なる行動に出たくとも織黒の纏う威に気圧されて一歩、また一歩と退いている。

 己の仕出かした事の始末も付けられぬのか、と嘲笑しながらも織黒は言葉の続きを紡ぐ。


「……おかげで、取り戻した」


 迩千花は目を瞬いた。織黒が何を言いたいのかがわからなくて。何を取り戻したのだというのだろう。

 けれども、不思議と織黒が今までと違う、という事だけはわかった。

 他者を威圧するほどに強き真神ではあったけれど、過去を失いどこか寄る辺ないところを感じさせる事もあった。

 それが今は感じられない。確かであり揺るぎなき存在として、織黒はそこに立っている。

 失ったものを、取り戻したとでもいうように――。


 織黒は転がった杭を一瞥すると、焔を放つ。黒い焔はたちまち杭を焼き尽くし、呪いの杭は塵となる。

 その様子を見ていた人間達は更に蒼褪め震えあがる。次は自分達とでも思ったのだろうか。

 見瀬の主は、何とか平静を保とうとしながら口を開く。声の震えは隠せていない。


「そ、その杭は……」

「貴様に教えてもらわずとも、こんなものを持ち出すのが誰かは知っている」


 言葉を遮るように苦々しげに織黒は告げる。忌々しいという様子と、感じたものが震えあがる程の憎しみがある。

 迩千花も、その場の他の人間も、誰も言葉を発する事が出来ずに重々しい沈黙がその場に満ちる。


 しかし、それは甲高い悲鳴によって破られた。

 皆の視線がそちらに向く。そして誰もが思わず息を飲んだ。


 悲鳴と共に走りこんできたのは、傷だらけの姿で狂乱の表情を浮かべた、見瀬の長女である真結だった。

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