この人は、誰

 その日、迩千花の姿は書庫にあった。

 他者の目に付かぬように身を潜めながら、古い書物を手にしては中を確認し、一つ息をついては戻し次を取る。

 熱中する迩千花に歩みより、声をかける人影にも気付かずに。


「迩千花」

「…‥‥!? お、お兄様……!?」


 飛び跳ねるという表現が過言ではないほど、大仰に跳ねて声なき悲鳴をあげかけた迩千花。

 しかし振りむいた先に居たのが兄である事に気付くと、胸を撫でおろして安堵の息を零した。

 僅かに蒼褪めてすらいる妹を見て、築は眉をひそめて溜息をつく。


「何を怯えている。玖珂の長女が、玖珂の書庫に居て何が悪い」

「ごめんなさい、いつもの癖で……」


 以前までは、迩千花には書庫に立ち入る事も許されていなかった。

 お前には必要ないと顔を顰めて罵られ、近づいた事がわかれば書物が汚れると難癖を付けて折檻される。

 今はもう堂々と立ち入っても良いとはわかっていても、沁みついた癖は消えるものではない。

 築は周りを見回して、低く問う。


「奴はどうした」

「……寝ているから、ちょっと抜け出してきました」


 奴が誰かはもう言わずとて分かる。築は織黒の名を呼ぶ事すら忌まわしいとばかりに、頑なに名を口にしない。

 その意図を感じて迩千花の表情は哀しげに曇るけれども、問われた事には答える。

 現在、織黒は寝入ってしまっている。元々力を振るった後など眠る事が多かったが、最近殊に多い気がする。

 魘された事で失われたものを取り戻しつつあるのか、その代償のように織黒は深く眠る事が増えた。

 迩千花を抱いて眠るが、眠りが深ければ抜け出しても気付かれなくなった。


「……何か調べたい事でもあったのか?」


 見たいものがあれば言えば運んだのに、と言いながら築は首を傾げる。

 それは申し訳ない……と本音と建前の半々を口にしながら躊躇した迩千花だったが、続けて築が問いの眼差し向けてくるのを察した。

 耐えきれず、迩千花は観念した風に口を開く。


「織黒に関する言い伝えで……。もっと詳しく記された物はないかと思って……」


 織黒が眠りに入る前の事。

 何時ものように迩千花を抱いて横になった織黒に、迩千花は浮かんだ問いを投げかけた。


『織黒は……久黎様については、何も覚えてないの……?』


 以前から気になっていた事だった。

 織黒を封じたのは、玖珂の唯一絶対の祭神であった久黎であるという。

 そして、二柱の祭神、とあの紙片には記されていた。

 あれに記されていた事が正しいなら……織黒と久黎が共に一族に祀られ、並び称された存在であったなら。

 共に玖珂に加護を与えていた存在であったというなら、互いの存在について知っていた筈である。

 二柱と称されていた神の片方が唯一のものとされ、片方は祟り神として封じられ忌まれてきた。

 何も無かったと思う方が無理である。そうなるに至った何かがあったはずだと迩千花は確信していた。

 問われた織黒は、瞳をやや伏せて眉を寄せながら呟いた。


『その名を聞くと、酷く胸がざわつく。……抑えきれない衝動が湧き上がるのを感じる』


 それは怒りであり、憎しみにも似た暗い感情であり。

 けれどもけして嫌悪ではないのだという。強い困惑の向こうにあるのは、かなしい、というこころだという。

 何があったのか。久黎、そして織黒は、玖珂にとって一体何であったのか。

 少しでも知りたいと思ったのだ。残された歴史を紐解いて、少しでも知りたい。そして、織黒が望むものがそこにあればと思う。

 俯いて黙ってしまった妹を、兄は呆れを露わに見つめる。


「調べるも何も。あの呪い狼は過去の長を害して堕ちた祟り神。それ以上の事実は必要ないだろう」


 それは一族が伝えてきた言い伝えであり、記されてきた正史である。恐らく、それ以上の事は見つからないだろうと築は溜息を吐く。

 兄が織黒を忌むべきものである事を欠片も疑っていない様子を見て、迩千花は唇を噛みしめた。

 しかし、次の瞬間勇気を振り絞り、築へと訴える。


「私は……。私は、織黒がそんな事をするとは思えない! きっと、言い伝えには何か理由が……!」


 織黒が悪し様に言われるままが耐えきれないと、迩千花は更に続けようとした。

 しかし。


「あれは大人しく見せたとて所詮祟り神だ! 呪われた悪しき存在だ! そんなものに心を許してどうする……!」

「お兄様……!? いたい……!」


 二つの肩に生じた痛みが、迩千花の言葉を遮る。

 気が付いた時には、怒りのままに叫ぶ築が、迩千花の両肩を鷲掴みにしていた。

 痛みに顔をしかめる迩千花は、身をよじってそれから逃れようとするが、兄の両腕は相当な力で動きを戒めている。


「今度こそ、お前を守るのは私だ! 奴ではない……祟り神ではない……! 奴にお前を守る事などできない……!」


 はなして、と小さく呻いても築には届いていない様子だ。

 必死な形相の兄は妹を両腕で捉えたまま織黒を疎む言葉を、呪う言葉を叫び続ける。

 日頃の鬱憤が吹き出したのだろうか。

 それにしても、日頃の穏やかさが何処かへ消えてしまった。まるで別人にすら見える程に激しい。

 迩千花を守るのは自分だと呻くように口にする築を、迩千花は『怖い』と思った。

 自分を見つめる眼差しが、変わらぬ慈しみと向けてくれたあの優しい兄のものとは思えない。兄は、何処へ行ってしまったのか……。


『あれが妹を見る目か。兄が、あんな瞳で妹を見るものか』


 織黒がかつて呟いた言葉を思い出す。

 妹を見る目ではないというのなら、兄が今自分に向けている目は、一体何なのだ。別人のようなこのひとは、一体……。


 築も迩千花も、言葉を紡がぬまま。重苦しい沈黙が二人の間に満ちた。

 しかし、ふと二人は遠くに何かを聞き取ったという風に顔をあげる。

 遠くで迩千花を呼ぶ声がする。

 あれは織黒だ。目覚めた時に迩千花が傍らに居なかった事で探しに来たのだろう。

 築の気が逸れたのを感じた迩千花は、渾身の力で両肩を戒める兄の手を振り払い逃れる。

 そしてそのまま、何も言わずに背を向けて書庫から駆け去っていく。

 築は追わなかった。消えて行く迩千花の背を黙したまま見つめていた。


「奴が、居るからか……」


 ややあって、築が絞り出した言葉には、暗く凍てつくような何かが根底にあった。

 長い永い時間をかけて練り上げられた昏い何かが、そこにあった。

 複雑な愛憎の籠った仇敵を語るかのような声音で、築は織黒の名を口にした。


「織黒がいるから、また、私では駄目なのか……」


 俯いた築の表情は誰にも見えない。その場には何者も無く、その呻くような呟きを聞いた者はない。

 その瞳に宿っていた狂える雷のような光を知る者は、誰も居なかった……。


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