心に灯るひとつの

 翌日の事だった。

 織黒が問いかけてきたのだ、自分はどのように言い伝えられてきたのかと。

 忌まわしき祟り神として残虐な謂れと共に語られてきた事は折に触れて切れ切れに聞いていただろう。

 祟り神と影で囁かれている事も当然知っていたが、織黒はそれに触れる事はなかった。

 どうせ禄でもなく語られていよう、と積極的にどのように言い伝えられてきたのかも気にした様子はなかった。


 しかし、今日になって突然迩千花に特に構えた様子もない声音で問いを投げかけてきた。

 一瞬、何を問われたか分からない程に自然な口調で。

 魘されていた事と関係があるのかもしれない。あの後酷く考え込んでいたから……。

 敢えて正面から問われ、語る事に迩千花は暫し躊躇した。悪辣に語り継がれてきた伝承を聞かせても良いだろうかと。

 けれども、織黒の真っ直ぐな眼差しを受けて、静かに語り始める。


「玖珂の一族には、かつてとても強い力を持った寿々弥様という長が居て……。織黒は、その方を殺して魂を喰らったと伝えられているの」


 如何に言葉を選んだとしても、言い伝えの内容自体が凄惨である事には変わりない。

 織黒の様子を伺いながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 黙したまま聞いていた織黒は、一度目を伏せた後に迩千花に問う。


「何故、俺は……寿々弥を殺した?」


 迩千花の肩が見て分かる程に跳ねた。

 出来ればそこは織黒に伝えたくないと思うところだったから。しかし、問われている以上答えないわけにはいかない。

 迩千花に理由を誤魔化す程の器用さはない。それに、どうせ知らないなどと濁したところで他の人間に聞けばすぐに分かる。皆が知っている言い伝えなのだから。

 ひとつ息をついて、迩千花は再び口を開く。


「………伝わっている話では……寿々弥様に想いを寄せたけれど、受け入れて貰えなかったから、と……」

「……随分、俺は器の小さい男だと語られていたのだな」


 それを聞いた瞬間、織黒は盛大に溜息をついた。そして低く呻くような呟きを零す。

 表情はあからさまに不機嫌な色を帯びた。相当に不本意なのだろう。

 無理もない、と迩千花は心の裡に嘆息する。

 振られた腹いせに相手を害する程度の了見と永きに渡り言い伝えられていたなど、どう考えても面白い筈がない。

 織黒がそんな事をするわけがない、と迩千花は思う。

 この尊大に見せて大事と定めたものには心を砕く事が出来る男が、恋した相手が自分を受け入れなかったからといってそのような暴挙に及ぶだろうか。

 それとも、強すぎる想い故に……?

 迩千花の心の中には幾つもの疑問が渦巻いている。けれど、それを何とか押し隠して迩千花は続きを紡いだ。


「寿々弥様を害したせいで……真神として相応しからぬ振舞い故に堕ちて祟り神となって……玖珂の祭神に封じられた。……言い伝えられていたのはそれだけ」


 それが、迩千花が幼い頃から言い聞かせられてきた『祟り神』に関する言い伝えの全てだった。

 寿々弥が生きたとされる時代から幾星霜、当時を知る者などある筈もなく、散逸した言い伝えとて多い筈。

 今に至るまで残ってきたのが迩千花の語った内容であり、一族が正しいと信じてきた歴史である。

 けれど……。

 迩千花が語り終えると、織黒は難しい顔をして何やら考え込んでしまう。

 迩千花は、何か言葉をと思うけれど織黒が纏う苦々しげな空気に何も口に出来ないでいる。

 語らなければ良かっただろうか。いや、ここで迩千花が語らなくても、織黒は何れ詳細な言い伝えを知り得ただろう。

 それならば、自分の口から教えたかった。織黒は、誰でもない迩千花に問うてくれたのだから。

 厳しい表情で沈黙したままの織黒を見つめながら、迩千花は気になる事があった。

 織黒は、寿々弥に対する想いを否定していない。そして、彼女を『知らない』とも言っていない。

 何の接点もない者達が結び付けられ、言い伝えとして継がれ続けるだろうか。

 躊躇いに一度俯いてしまった。しかし、すぐに顔をあげると、意を決して織黒へと問いかけた。


「織黒は、寿々弥様の事を知っている……?」

「……かすかに、残っている気がする」


 迩千花の逡巡と絞り出すように紡いだ問いに、織黒は漸く瞳を開いて迩千花へと眼差し向けた。

 これが「そう」なのかは分からないが、と言い置いて織黒は応える。


「よく笑う女だった。自分の事よりも他人の事を優先する、優しいけれど哀しい女だった……そんな気がする」


 遠い過去に思いを馳せ、懐かしむように語るその声音は優しい。

 強い異能を持ちながらもけして驕らず、人の為に生きようとした。気取らな過ぎて気をもむ者とていた。

 裡から湧き出る記憶の欠片、あるいは他の何かを徒然に紡ぎ続ける織黒は穏やかで、切ない。

 その言葉の節々に慈しみが滲んでいるのを感じ取り俯いた迩千花は、思わず膝に乗せた手を握りしめる。

 失った筈の記憶を、遥か過去に眠る真実を手繰り寄せようとするかのような呟きは尚も続く。

 何故か、ひどく胸が痛くて苦しくて仕方ない。何がそんなに辛いのかが、わからない……。


「己を立てようとする事を知らぬから、あの女に言い様に利用されて……」


 憎しみすら見え隠れする声音で紡がれていた言葉が、不意に止む。

 不思議に思って顔をあげてそちらを見ると、迩千花の瞳に疑問を見て取ったのか織黒はやや困ったように笑って告げる。


「……お前にそんな顔をさせてまで、続けたいとは思わぬ」

「私の事は、いいの。私なんか、気にしないで……」


 ごめんなさい、と反射的に呟いて俯いてしまう迩千花。

 何ていうことだろう。自分は裡にあった醜い感情を表情に見せてしまったのだ。それを織黒が気にしている。

 申し訳なさに唇を噛みしめながら顔を上げられない。怖くて織黒の顔が見られない。


「何故そのように言う。自分を貶めるような物言いをするな」

「駄目なの。……思われる事や大事にされることに慣れては。私には、何もないから。……私が望んでも、何時か奪われて、失うものだから……」


 咎めるような織黒の言葉に、迩千花は頭を左右に振り哀しげに顔を歪める。

 自分には何も無い、強く美しい織黒に相応しい存在が持ち合わせて当然であろうものを何も持っていない。隣にある為に必要なものは何もない。

 異能を持たぬ役立たずであり、無価値なものと言われてきた。確かに自分には誇れる物は何もなかった。

 誰かの役に立つ事も出来ない。そう言われるのも当然の存在だった。

 そんな自分に今は過分な程の環境が与えられている。物質的なものだけではない、精神的な充足……迩千花は織黒を見る。


 何時の間にか慣れてしまっていたのだ、与えられ守られ慈しまれる暮らしに。

 駄目だとあれだけ言い聞かせてきたのに。


 自分には何も無いから、この手にはいつも何も残らない。

 大切と思えば奪われ失う。今こうして自分の側にあったとしても、何時かは無くなってしまうもの。

 この美しい祟り神とて、きっとそうだ。

 分かっていた筈だ。今自分が享受しているこころは、向けられる惜しみない愛や慈しみは、仮なのだと。

 何処かで感じ取っていたではないか、織黒が真に腕に抱きたいと願う相手は、自分では無い筈だと。

 望んだとしても必ず何時か奪われ失うのが自分。執着も持たず、価値も見出さない、それが自分にとっての最善だった。

 向けられる愛に慣れきってしまえば、失う時にそれだけ辛い想いをする事になる。

 それを忘れてはいけないと、分を弁えろと自分を戒めてきた筈だったのに……!


「織黒が本当に大切に想っていたのは、大事にするべきなのは……きっと私じゃない……。多分過去の……私じゃない誰か……」


 唇から止めどなく零れる、心の裡に抱き続けた疑念。

 織黒が失った過去に居る誰かに対するたまらない羨望が胸を占めている。

 幾ら戒めても消えない。湧き出るこころが、言葉が止まってくれない。

 呆れられてしまう、疎まれてしまう、だから、だから――!

 迩千花は両手で顔を覆って織黒から顔を背けてしまう。

 今の自分を見て欲しくない。己で制御できないものに揺れる情けない自分を見た織黒がどう思うか、知るのが怖い。

 何故怖いのか、それを知る事すら怖い……。


「……迩千花は蜘蛛が苦手だな」


 二人の間に横たわった沈黙を破ったのは、不意に呟かれた織黒の静かな呟きだった。

 ぴくり、と迩千花の肩が揺れ、動きが止まる。

 確かに苦手である。

 何時だったか、何時ものように険悪な織黒と築、そして迩千花で過ごしていた時のこと。

 天井から音もなく蜘蛛下りて来た事があった。それも迩千花の目の前に。

 苦手な物が不意を突いて眼前に現れれば、大抵の人間は恐慌状態になる。無論、迩千花もその例に漏れなかった。

 築が慌てて蜘蛛を追い払ってくれている間、迩千花はひたすら震えて織黒にしがみ付いて声にならない悲鳴をあげていた。

 蜘蛛はもう居ないと何度言っても、暫くの間、頭を振りながら織黒にしがみ付き続けていた。

 確かにそうではあるが、何故それを今。迩千花の心に疑問が生じる。


「梅の実も苦手だろう。風味があるだけで一瞬嫌な顔をする」


 迩千花はぎくりと身を強ばらせる。

 好き嫌いなど言えぬ状況で暮らしてきた。築が整えてくれる食事は全て文句のつけようのないものである。

 ただ、どうしても梅の味が苦手なのだ。風味付けであっても、思わず一度箸が止まってしまう。

 しかし、それを知れば優しい兄が気にすると思って、表情を司る筋肉を総動員して表に出ないようにしていた筈なのに。

 気付かれていたのか、と違う気まずさが僅かに生じる。けれどもそれは生じた疑問を解決するには至らない、むしろ謎は深まるばかり。


「俺の髪を梳いてくれる手はとても優しい」


 噛みしめるように紡がれる言葉に、迩千花は自分がどのような顔をしていいかわからなくなってしまう。

 ああ、気付いてはならない。その声がとても慈しみに溢れているなんて。

 気付かれてはならない。何時の間にか、自分でも美しいこのひとの髪を梳かせてもらえる時間が、とても楽しくてしあわせだった、なんて。

 喜んではならない。織黒が、自分の事をひとつひとつ、そんなに知ってくれていたなんて、嬉しいなんて思っては……。

 更に深く俯いてしまった迩千花の頭に、ふわりと温かな感触が触れる。


「積み重ねていく日々の一日一日が愛おしい。ひとつ、またひとつ迩千花を知る度に温かな光が俺の中に灯る」


 耳に触れるあまりに優しくて切なく成程の言の葉に、一度躊躇った後に迩千花は思い切って手を下ろし、恐る恐る顔をあげた。

 そこには、迩千花を覗き込むようにして見つめる、織黒の微笑みがあった。溢れる程の愛情と慈しみと、切なさがあった。


「迩千花の心が何かに揺れるようになっていくのを感じると、喜びが満ちる。戸惑いながらでも少しずつ笑う事が増えていく様子が、嬉しくてたまらない」


 凪いだまま揺れる事のない迩千花が変わり行く様子を、織黒は気付き見守ってくれていた。それを喜びとすら言ってくれる。

 正面から向き合って、一言一言偽りや誤魔化しなく紡がれる言葉に心が震える。

 己を戒める自分で作り出した鎖が、ひとつ、またひとつと解けていく。いけない、と思ってももう止められない。


「過去は未だ分からぬ事だらけだ。もしかしたら俺は寿々弥を知っていたのかもしれない」


 迩千花は思うのだ、織黒が大切にしたかった相手は、もしかしたらと。失われた過去の先にいるのは、寿々弥ではないかと。

 それならなぜ、織黒が彼女を害したという言い伝えが伝わっているのか。何故織黒が祟り神と呼ばれる事になったのか、疑問は尽きないけれど……。

 だが、と言って織黒は迩千花の頬に手を添える。


「俺が共に在りたいと願うのは間違いなくお前だ。過去の先に俺が求めたのも、封印より出てからの日々を共に積み重ねてきたのも迩千花だ」


 永く暗い闇の中にて彷徨い戦い続けた日々の終り、見出したのは唯一無二に愛しいと思うもの。

 記憶が失われても、歴史から存在が失われても、それだけは確かなものとしてある彼の想いであり誓い。

 彼は迩千花の瞳を見つめ続けながら、そう伝えてくれた。

 何故そうまで想ってくれるのか、愛してくれるのか、分からない。

 でも、自分を見つめる眼差しは真実だと。もう遠ざける事にも、疑う事にも疲れてしまった。

 告げられる言葉をただ信じたい。言葉のままを受け止めたい。どれ程止めても戒めても、そう思ってしまう。


「俺はけしてお前から失われない。お前が望む通りに求めても、望んでも誰にも奪われない。それがお前の望みであるならば」


 織黒がその広く頼もしい腕で迩千花を抱き締める。

 迩千花にとって日常の一つになりつつある、優しくて温かな感触に思わず目を細める。


「だから俺に。……お前の『苦手』ではなく『好き』を教えてくれ」


 言葉に思わず目を見張って見上げた先、少しだけ苦笑いの混じる優しい笑みの織黒を眼差しがぶつかる。

 迩千花は積極的に好みを口にする事はない。提案されたものを余程ではない限りそのまま受け入れる。

 現在、迩千花の身の回りの品々を整えてくれているのは築だ。兄に似合うと言われたものや、良いと言われた物に迩千花が否という事はない。

 着るものや食べるものであっても、無聊の慰めであっても、基本的に人が示した者に対して受け入れるか否かだけを示す。

 ……それ以外を選べなかったからだ。それでも、受け入れるかどうかすら選べず、基本的には与えられたものを何も言わずに受け入れる方が多かった。

 自分がこれを望む、と口にする事が怖かった。

 何時か失うもの、奪われてしまうもの。そう思って多くのものを諦め、無かった事にしてきた。

 けれど、織黒がくれるこの確かなものがあれば。

 織黒がくれる言葉を信じたい、温かなこころを疑う事なく受け入れたい。

 この想いがあれば、私は変われるのではないか。私は自分の足で大地を踏みしめて、前を向いて生きていけるのではないか。

 何か言葉を返さなければと思っても一つとして形にする事が出来ない。それが歯がゆく、迩千花は思わず唇を噛みしめる。

 織黒は応えを求めなかった。その代わりに、ただ静かに迩千花を腕に抱いていた。


 ――いつか応えを紡げるようになりたい、と迩千花の心に一つの灯りが灯った。


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