31:RUN RUN RUN!

 舞台での発声の基本は腹式呼吸なんだとか。

 うん、初めて知ったし聞きました。

 常識だよと言われても……正直、今まで興味なかったからね。気にも留めていなかった。

 とはいえ「女子でもこれだけの声量を絞り出すことができるのに、キミらにはその力が備わっていない」と守口センパイから言われたのは地味にショックだった。

 という訳かどうかは別として、


「あー、もう。これは走るしかないよな」


 既に諦めたのか滝井がストレッチを始めている。これはもう、話の流れ的に走るしかないかな……



   *



「走るたってジョギング程度のペースで、距離もたかだかグラウンド10周なんだだし」


 足腰のストレッチをしながら滝井が器用に肩を竦める。


「まあ、確かにな」


 典弘自身は走ることに不満などない。何をするにしても体力があってこそは金言だし、たかだか10キロ程度のランニングでごねる理由がどこにもない。


「そんじゃ、ま。行きますか」


 先陣を切るように滝井が駆けだし、後を追うように「はいよ」と典弘も続いてランニングを開始した。

 こうなると他の連中とてボケっとはしていられないようで……


「おい、どうする?」


「オレ、走るの苦手なんだけど……」


「そうは言っても。なぁ」


「だよなぁ……」


「ううっ。プレッシャーが!」


 お互いに顔を見合わせると、能面のような表情をした守口と、ハラハラとしながら様子を見守る瑞稀の顔色を交互に伺う。

 で、従わざる得ないと結論付けたのだろう。

 諦めたように三々五々に走り出して典弘たちの後に続くが、最後までごねていた橋本だけは、その場にとどまったまま一向に走ろうとしない。

 新入部員全員が走り出してしまい、居心地が悪くなったのか、遂には……


「やってられるか!」


 むしろ違う意味でグラウンドの注目をひく大声を発すると「止めだ! ヤメ、ヤメ!」と、走っている典弘たちにも聞こえるような捨て台詞を吐いてグラウンドを後にする。

 遠目でもはっきりとわかる醜態を晒す橋本を、滝井が走りながら「おい、アレ」と顎で指し示す。


「やっちまったか? オステリー」


「みたいだな」


 ふたりの視線の先、グラウンドの隅っこで橋本が守口相手に大声で喚いている。

 いや、守口のみならず目当てだった瑞稀にも噛みついたようで「何か言ったらどうなんだ!」と上から目線で怒鳴り込んでいた。

 限度を超えた悪態に守口が「目上に対して失礼だろう」と叱りつけるが、キレた橋本には馬の耳に念仏か糠に釘。


「こんなクラブなんか辞めてやるのに、目上もクソもあるか!」


 聞く耳を持たぬどころか、さらに罵声を浴びせかける。

 いや、それだけではない。


「オマエなんかに目がくらんだ俺がバカだったよ!」


 自嘲気味に嘲りながらも瑞稀に対して小汚い罵り声で論う。顔を紅潮させ頭から湯気がでそうな橋本の勢いに、抗えるようなメンタルを瑞稀が持ち合わせてなどいない。


「わ、わ、わ、わたし……」


 意思表示もほとんどできず、ただただ自由になる右手の拳を握るだけ。

 それが余計に橋本の癇に障ったのだろう。


「ったく。事故物件なのに、お高くとまってるんじゃねーよ!」


 もはや罵詈雑言の悪態どころか、訴えられるレベルの差別的な罵声を吐くありさま。皮肉にも罵声は腹の底から出たようで、グランド中に響き渡るヘイトスピーチへと拡声。

 当然ながらそんな悪意が聞こえてしまった、典弘の心中が穏やかであるはずがない。


「殴るか?」


「止めとけ」


 拳を固める典弘を、そんなことをしても瑞稀が喜ばないと滝井が止める。


「それよりも、さっさと10周を走りきるほうが賢明じゃないか?」


「だな」


 ふたりが頷き合ってピッチを上げると、グラウンドの隅から「出て行け!」と鋭い声がした。

 さすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう、守口が橋本を放逐していた。もっとも去り際に瑞稀にも噛みついたみたいで、小汚い罵り声が聞こえてくる。


「やっぱり殴ろうか?」


 声が大きくて聞こえたのだろう。憤怒止まぬまま1周走って瑞稀たちの前を通過する典弘を、守口が「ダメよ。短気を起こしちゃ」と、かけ声ヨロシク相手にするなと諫める。


「あんな自分本位なヤツを殴ったところで、キミの価値が下がるだけ。ヘタすりゃ停学になるから止めときなさい」


「だ、そうだ」


「オマエが言うな。だけど、森小路センパイも頷いているから、守口センパイの諫言に従うことにする」


 守口の意見に瑞稀も同意しているのを見て、典弘は拳を開けて矛を収める。

 滝井の意見? 右から左にスルーである。


「それにしても、あの橋本ってヤツ。もう少し格好の良い引き際を作れないのかね?」


 あれじゃ醜態を晒すだけだと、典弘は走りながら肩を竦める。


「ていうか、「演劇部でランニングを強要されて部活を辞めました」って、退部の理由が情けなさ過ぎやしないか?」


 さすがに幼稚で短絡過ぎるだろうとこき下ろしたが、滝井の見立ては典弘とは全然別方向で「ひょっとしたら橋本にとって、グラウンド10周は過酷な要求だったのかも知れないぞ」としたり顔で解析する。


「そっち系の人間だと色眼鏡で語る気はないけどさ、いかにも運動しなさそうというより、できなさそうだったじゃないか。守口センパイのランニング指示は、ある意味死刑宣告に等しかったのかもな?」


「いやいやいや。さすがにそれは……」


 大げさだろうと言おうとしたら「後ろの連中を見てみろよ」と滝井が典弘の反論を封殺。

 ホレばかりに顎を後ろに引いた先を見て、典弘は「なるほど」と納得した。


「大げさとは言えないな」

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