30:発声練習の意味
「演し物を何にするかは別として、キミはちゃんと声を出せるの?」
ランニングに不満を漏らした橋本へ、守口センパイが挑発的に問いかける。
挑発するのもどうかと思うが、たかだか10キロちょっとのランニングで、ギャーギャー喚くのはもっとみっともない。
全力疾走ならまだしも「流す程度」って言ってるんだし、ジョギングレベルでゆっくり走れば大したことではない。
まあ滝井のバカなら陸上部の選手とガチで張り合えるだろうけど、体力作りが目的だからそこまで力入れて走る必要もないんだし余裕でしょ?
という訳で、走ることに文句を付けるのは大人げない。
でもさあ……
走る=体力作りは前近代的だけど、納得はするよ。舞台で演じるのに体力が要るのも、理解できなくもない。
そこまでは分かるし理解もできるけど……
セリフを感情豊かにとかなら訓練も必要だろうけど、単に声を出すだけなら誰にでもできるんじゃないの?
*
「そこまで言うのなら、実際に声を出してみてよ」
咆える橋本に向かって守口がメッキのような微笑を貼り付けて問いかける。
「お題があったほうが良いだろうから……そうね、試しに「あいうえお」を大声で言ってなさいな」
「デカい声で「あいうえお」を言えば良いのか?」
「ええ、そうよ。グラウンド内に響き渡らすようにね」
言われたとおりに橋本が「あいうえお」を声の限りに絶叫すると、野太い男の脂ぎった声がグラウンドいっぱいに響き渡る。
よく吠える男だけあって声はデカく、傍観していた典弘と滝井も「うるせー」と耳を塞ぐほどの大音響。
にもかかわらず、先輩演劇部員の3人は表情ひとつ変える様子もなく一様に首を横に振るだけ。敢えていうなら守口が軽く眉間を押さえ、瑞稀が小さく肩を竦めた程度だろうか。
そんな3人の様子など見てもいなかったのだろう。
「これで満足か?」
たかがア行を発声しただけなのに、やり切った感満載のドヤ顔で橋本が胸を張るが、当然ながら守口の評価は低い。
「聴くに堪えない酷い声ね。うるさいだけだわ」
やらせた当人が言うのは如何かと思うが、守口が橋本の発声をコテンパンにぶった斬る。
言われて納得できないのは、指示をされて実行したのに散々な評価を受けた橋本だ。
「言う通りに大声を出したんだ。うるさいのは当然だし、声がどうかなんか知るか!」
当然のごとく文句をぶー垂れるが、言わせた守口ときたら、あろうことか橋本を完全スルー。
のみならず「せっかくだから全員やってみようか?」と他の新入部員にも「あいうえお」の発声を促す。
驚いたのは傍観者を決め込んでいた典弘たち。
「僕らもですか?」
指を差して尋ねると、間髪入れずに「当然よ」の答え。
「クソッたれ! 俺だけさらし者にするな!」
さらには橋本の半ば八つ当たりのような威圧に晒され、仕方ないので「それじゃあ」と肺一杯に空気を吸って発声する。
他の運動部から注目を浴びるのはあまり嬉しくないが、どうにか発声し終わると、命じた守口が渋い顔で「うーん」と唸る。
「さっきのアレよりマシだけど、褒められたレベルじゃないわね」
橋本のみならず典弘を相手にも手加減は一切なし、表情を変えることなく辛辣な評価を浴びせかける。
続く滝井の発声も「せいぜい、聴くに堪えれる。くらい?」と、やはりコテンパン。守口の毒舌は絶好調。
他の部員たちも推して知るべしと、誰も彼もが散々な評価。
「うん、実際に聞いてみてよく分かった。演劇未経験は伊達じゃないわね。キミたちみんな、全く声が出ていない」
新入部員全員を「なっていない」とぶった斬る。たちを前に、きっぱりと断じる。
当然ながらいの一番に標的にされた橋本が納得するはずもなく。
「あれだけ大声を出させて、声が出ていないだ? 難癖つけるのもいい加減にしろ!」
酷評した守口に食って掛かるが、評した当人は涼しい顔。
「そんなこと言われても、実際に声が響いていないもの。何なら瑞稀のほうが、もっと大きな声を出せるわよ」
更には挑発するようなセリフまでさらりと口にするほど。
この挑発に橋本が憤怒したのか「そこまで言うなら、森小路センパイに証拠を見せてもらおうか!」と、ケンカを買って出るような言葉使い。
売り言葉に買い言葉の守口相手ならともかく、飛び火して瑞稀まで巻き込んでケンカを売るか?
「言い過ぎだぞ、橋本!」
さすがにこれは座視できないと典弘は声を荒げるが、元凶ともいえる守口の対応は「心配ないわ」と欠片も気にするような素振りがない。
それどころか「リクエストが入ったから、ちょっと見本を見せてやってよ?」と瑞稀にお手本を促すほど。
「えーっ」
とばっちりを受けた瑞稀が守口に向かって文句を言うが、「これも演劇部のためよ」と悪びれる様子は一切なし。
「浩子ちゃんが強引すぎる」
「やらないと、みんなが納得しないから」
守口の押しの強さに観念したのか、ガックリと肩を落として諦めの表情を浮かべながら「あいうえおを言ったら良いのね」と言うと瑞稀がスッと歩幅を広げる。
「しっかりと聞いてなさい。瑞稀の発声練習なんて超レアなんだから」
勿体ぶった守口が言った次の瞬間、圧倒的な声量がグラウンド一面に響き渡った。
「ウソ……」
「おいおい、マジかよ」
典弘は言うに及ばず、滝井までもが目を見張る。
体育館の「お願いします」なんてレベルじゃない。
ただ「あいうえお」を発声しただけなのに、新入部員のみならずグラウンドで動き回っていた運動部部員たちが一斉に立ち止まり、小柄な少女を一斉に注目したほど。
あれほど反抗的だった橋本が絶句したのは言うまでもない。
「舞台で演じる者ならば、あの程度のボリュームは出せて当然よ」
ドヤ顔で語ると、続けて守口も「あいうえお」を発声する。
女子としては長身ゆえに、体格の小さかった瑞稀に比べてインパクトでは少々劣るが、絞り出される声量ではむしろ上。朗々と響き渡る声は、広いグラウンド一面にまで及ぶほど。
生徒会長の発声練習に「すわ、何事か?」と注目を浴びたが、当人は気にする様子もなく「これで説明は十分でしょう」と橋本の鼻っ柱を負ったことに満足なご様子。
「見てもらった通り、腹式呼吸で正しい発声をしたら、女子でもこれだけの声量を絞り出すことができるのよ。でもキミらには、その力や元となる基礎体力が備わっていないよね」
聞きようによっては反発必至の挑発的なセリフだが、たった今現実を突きつけられただけに、誰も異議を唱えることができない。
「少なくてもこれくらいの距離は余裕で走破してもらわないとね。そういうことでガンバって」
最後通牒は突き付けたとばかりに守口が艶然と微笑む。ある意味ニヤリとするよりたちが悪い。
「あー、もう。これは走るしかないよな」
というか、典弘自身は走ることに不満などない。何をするにしても体力があってこそは金言だし、10キロ程度のランニングでごねる理由がどこにもない。
むしろとっとと終わらせて、次に何をするかのほうが興味があるというもの。
他の連中がどう考えているのかは知らないが。
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