【13】
僕は僕の叔父を誇りに思っている。
【13】
夜詩くんはよく泣いている。泣いてないときは困っているか悩んでいるか書いている。最近はよく書いている。僕の叔父は官能小説家だ。女の人がああだこうだされたり、逆に男の人がいろんな女の人にあんなことやそんなことをされている話を書いている。淫らな話は、しかし愛だ。地下水のように、文脈のなかに清々しさや瑞々しさがある。母が自分の弟を嫌っても縁までは切らないように、表面的には酷いようにみえても奥底にはしっかりとした愛情がある。夜詩くんだって暴力は大の苦手なのに、自分の姉からの平手打ちはヘラヘラ笑って許す。
僕は夜詩くんの書いた本もこうして少しずつ読み始める。本人の知らないところで。こっそり借りて、こっそり戻す。夜詩くんは自分の書いた本には無頓着だから、僕が本棚から抜き出しているのすら気付いていないかもしれない。気付いたところで、やはりどうでもいいんだろう。
団地妻のよろめきだの女学生の初めてだの、そんな題材はとうに古くて、最近の官能小説はVRやVtuberなんて横文字が出てきたり、田舎でスローライフしてたら可愛い女の子と仲良くなっただの、セックスレスの夫婦がどうこうなる物語がたくさんある。というか、夜詩くんがそういうのを書いている。書くためにどれだけ調べものに時間を費やしたのだろうと思う。そういえば夜詩くんの読む本は現代を反映するビジネス本だったり、哲学書だったりする。かと思えば、子供向けのファンタジーも読んでいる。読んでいるものと書くものは、接続しない。のかもしれない。夜詩くんの頭のなかでは、ちゃんとシナプスによって道筋が作られているのかもしれない。
もはや、今の時代、正社員のおっさんが主体の話よりも、孤独な青年のほうが求められるのだろう。コロナで失業した若者が風俗で働くしかなくなった女性と恋に落ちたり、女性嫌悪(ミソジニー)が自分の欠点を認め、人を愛する話が描かれている。当然、官能小説なので、一頁ごとに露骨でやらしい描写は出てくるものの、それでもやはり夜詩くんの書くものは愛だ。
誰に似ている、ともいえない不思議な文章を綴る夜詩くんの作品はどれも人気で、だから叔父は小説を書くだけで日々の生活をまかなえている。それはすごいことだ、と僕は思う。母は絶対に、認めないけど。
冒頭(のっけ)から性行為、というやり方が夜詩くんの作品の特徴で、そのほうが読まれやすいのかなと僕は考える。つまり、買ってもらいやすいのではないか。だって露骨に淫らな物語を求めて、人は官能小説を欲するのだから。だからわざと、毎回そうしているんだろうか。それを夜詩くんに聞いてみると、意外なことに彼は驚いた。僕がどうしようが、どうでもいいと思ってたのに。
「えっ、読んだの?」
「読んでるよ。なんで? 駄目?」
「…………年齢的に」
山田詠美や中村文則が書くセックス描写には年齢制限がないのに、どうして夜詩くんの本には年齢制限があるのだろうと僕は不思議で仕方ない。同じ本、なのに。本とは、誰にでも読まれるべきものであるはずなのに。
「今はどんなの、書いてるの?」
パソコンに向かっていた叔父は少し目を泳がせてから、それから、席を机から少し離す。僕はディスプレイをのぞきこむ。まったく夜詩くんてば、眉をひそめて難しそうな顔をして、こんな淫らがましい夜のひとときを、淫らで残酷な猥褻物そのものを書いてるんだから、…………ええと、……困る? やるせない? 勿体ない?
「夜詩くん。普通の小説は書かないの? 純文学とかさ」
「書こうと思えない」
「過去の傷を癒すために書いてるから?」
「…………………………………」
こんなに核心的な会話をするのは、初めてだ。夜詩くんは黙る。泣きそうな顔になる。
僕は言う。
「ごめん。最近、夜詩くんのこと、調べた」
「もうとっくに知ってるものだと思ってた」
夜詩くんは、さらりと言う。児童が誘拐され残虐な目に遭った話を児童が知りたいかといえば、絶対にそんなことはあり得ないという思考が夜詩くんからは抜け落ちている。
「姉に聞いてるかと」
「あの人は夜詩くんのこと、語らないよ」
「そっか」
「……でも、ある程度は察してたよ。けど、その……経緯すら、知らなかったから」
とっくに犯人は死刑になっている。事件は風化して、物好きな人達がインターネットでときどきやり取りするぐらいだ。夜詩くんの名前は新聞に載っていない。児童C。そして夜詩くんは今、ペンネームを使っているから、まさかあの事件の被害者の生き残りが、売れっ子の官能小説家になってるなんて、世間は知らない。知らなくていい。話題になんか、されたくない。それは夜詩くんも僕も同じ思いだ。
「ハツのトラウマにならなきゃいいけど」
「まったく傷ついてないといえば嘘になるよ。だって僕は夜詩くんのことが大切なんだから、大切な人がこんなにも酷い目に遭ってただなんてこと、そりゃ、その、ああもう、泣かないでよ」
「ごめん」
夜詩くんは泣く。
夜詩くんはもっともっと泣いた方がいい。感情を失ってた数年間、いや数十年間の分、たくさん泣くべきだ。たくさん泣いて、悲しんで、怒って、飽きて、いつの日か穏やかに笑える日々を迎えるべきなのだ。夜詩くんが平穏に生きていけない世界なんて、そんなの、間違ってる。苦しんだ人が苦しんだ分だけ、報われる世の中であって欲しい。僕はそれを強く願う。
夜詩くんは僕を抱きしめる。自分が抱きしめてほしいんじゃなくて、僕を何かからかばうように抱きしめる。僕は僕で、夜詩くんの背中に手を回す。ねえ、あなたのこと、こんなに思っている人がここにいるよ。だから、自殺なんてしようと思わないでくれ。生きることを、諦めないでくれ。幸せじゃなくたって生きてくれ、だなんて、残酷だけど、でも真実だ。
「死ねなかったから生きているだけだよ」
夜詩くんは言う。
「たまに、気分のいいときは、なんでもやってやろうって思う。頑張ろうって思える。でもまた死にたくなる。終わりたくなる」
「うん。それも夜詩くんなんだよ」
「そんな自分、要らない」
「必要だよ。必要なんだよ。ころころ気分の変わる夜詩くんが、夜詩くんの全てではないんだからさ。夜詩くん。自分の悪いとこを、否定しないで。夜詩くんは僕なんかに言われなくたって、分かってるはずだよ。夜詩くんはつらいことがあったから、苦しんで当然なんだよ」
「つらい」
「つらいよね」
「頑張らなきゃと思う」
「思うのは自由だけど、無理して実行する必要はないんだよ。無理に元気になる必要はないんだよ。夜詩くんが落ち込んでて酷いときにも、この世の中ってさ、僕がいたり、夜詩くんの小説を読んで癒されたり、新作を楽しみにしてる人がいるんだよ」
「……………」
夜詩くんは僕の頭を撫でる。そして、呟く。
「こんなんで、いいのかな。生きていて、いいのかな。死ななきゃと焦ってしまう。本当は生きるべきじゃないのに」
ぼくがその言葉を否定する前に、彼は続ける。
「それなのにまだ書いていたい。書き続けたいんだ。そして、あわよくば読まれたいんだ。分かってほしいんだ。伝わらなくても」
夜詩くんの言ってることは矛盾している。矛盾は同居する。夜詩くんの言ってることを、僕が理解出来てるかといったら、あんまりそうでもない。伝わない。でも、伝わってるよ、夜詩くん。
「死にたい」
夜詩くんは繰り返す。少しずつ形を変えながら、それでも続けていく。
「死にたいって言いながら生き続けるのも、夜詩くんだよ」
「そんな自分、要らない」
「無駄な部分も人間には必要だと思うよ」
僕たちは大事な話をする。
叔父は僕にキスをする。それは性的な雰囲気はまったくなくて、天使の微笑みみたいだ。夜詩くんはそんな間違った方法でしか、甥を愛せない。間違ったやり方しか、教わらなかったから。子供のうちに、与えられなかったから。
「大嫌いだよ。初雪」
言葉とは裏腹な目で僕を見つめて、夜詩くんは言う。
「……大嫌いだ。どうしてその年齢で、そんな達観したようなことを言うのかな。可愛くて仕方ない。僕のことを解ってくれているような気持ちになる。やめてくれ。理解なんて、どうせ出来やしないくせに。いや、他人には理解されないと僕はもう決めているんだ。決めてしまったんだ。そんな簡単に、わかられてたまるか。悔しい。本当は大好きだよ。なんで普通に愛せないんだろう。姉の子供として、可愛がることかま出来ないんだろう。僕はハツが憎くて憎くてたまらない。他の子供も。健康的な笑顔が、愛されて当たり前の瞳をすることが、なんの痛みも知らないその身体が、憎らしくてたまらない」
「じゃあ、する?」
僕は見つめ返して提案する。叔父のかつて受けた苦痛を、僕は受けたくはない。でも、それで叔父が少しは救われるのなら、構わないと思う。
叔父は答える。即答する。
「しない。僕は加害者にはならない。……………連鎖を絶ち切りたい。だから、ものを書く。憎しみを怒りを文字で発散させて、現実の人は傷つけない。ねえ、ハツ。馬鹿みたいだよね。文字を通せば、架空の物語にしてしまえば、凌辱も残酷も恐怖も快楽も褒めてもらえるんだ。現実の僕は、こんなにも醜くて汚いのに」
「…………………」
「男の人を書くのが怖くて、だから女の人の話ばかり書いて、エロいものばかり書いて、ああ、なんて最低なんだろう。こんな自己嫌悪もとうに飽きた。いつも似たような物語ばかり、書いている。ねえ、ハツ、そんな僕でもいいのかな」
「いいんだよ」
「駄目だよ」
「大丈夫だよ」
夜詩くんは本当は駄目なのだ。
でも、僕は大丈夫だと言い続ける。認め続ける。あらゆる接続を嫌う叔父に、連続を与え続けることが僕の使命だ。それが僕から夜詩くんへの愛だ。
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