【09】2

 その言葉を聞いて危うく泣く寸前だった僕はインターホンの音に飛び上がり、慌ててオートロックを解除しに行く。あとはもう手慣れた大人達が迅速に正確に物事を処理していき、数時間後に僕は病院に来た母と顔を合わせる。盛大にほっとした僕は八つ当たりをしたくなる。

「遅いよ」

「ごめんなさい。気付かなかったの」

 肩をしっかりと抱かれて、僕の視界は滲む。泣くもんか。息を詰めて耐えた。母はちゃんと気付いてはくれたのだ。そうでなければ、もっと遅い時間であるはずだ。

「………………夜詩くん、また入院しちゃうの?」

「かもね。先生と話してくるわ。あなたはここにいなさい」

「僕も行く」

「駄目」

 ジュースでも飲んでなさい、と母は僕に財布を渡す。そして情けない顔をしている僕の頭を撫でて、去っていく。触りかたが夜詩くんと一緒なんだよ。畜生。

 建物の外に出て、自販機で缶コーヒーを買う。ずらりと並んだバス停のベンチには一切人影はなく、僕は適当なところに座ってプルタブを開ける。糖分がやたら舌に残る。疲れていることを自覚した。

 もし僕が今日訪ねていかなかったら、夜詩くんはあのまま死んでいたんだろうか。

 リストカットの類で実際に死ねた人はほぼいない。それは知っているけれども、万が一を考えてしまう。手足のどこかが切断されても生き延びるほど人間の生命力は強いけれど、馬鹿げた理由であっけなく死んでしまうことだってある。

 僕の脳は今日の出来事を反芻する。一度で飲み込めず記憶を繰り返す。よかった。よかった。よかった。全く良くない状態だけど、僕の取った行動に問題はないはずだ。むしろ最高だった。そう決める。うん。大丈夫。

 ────おうちかえりたい。

 夜詩くんは子供のときに誘拐された。きっと調べればすぐに出てくる情報を、僕は絶対に調べない。夜詩くんが言わない以上、一ミリも知りたくない。犯人はどんな人物だったのか、捕まったのかどうか、そんなことすらも僕は知りたくない。どうせ当時は今よりモラルも低かっただろうし、個人情報だの被害者への配慮だのもあまり考えられていなかったはずだ。圧倒的な憎しみは夜詩くんへの尊重からきている。ほっといてやれ。僕が知ることじゃない。

 今がつらくとも、否、今が最低であればこそ、必然的にその後、人生は浮上する。禍福は糾える縄の如し。生きていれば楽しいことがあるよとどこかで誰かが言ったそうだが、生きていなければ楽しみも楽しくないも感知しないので当然だ。夜詩くんはそれを放棄した。錯乱状態だったとはいえ、それが気になる。何も望まないから死にたいというのは思考の放棄だ。将来を諦めた言葉だ。今後手に入れる幸せ全てを棄ててまで────不幸から逃れ、苦難から脱出し、自分が理想としていた自分になれる可能性を諦めてまで、今より一秒先から、何もかもを無にしたいぐらい、つらいってこと。

 僕には分からない。そこまでつらい経験がない。

 あらゆる幸福は夜詩くんを救わない。生き延びる理由にならない。世の中には死んだ方が幸せだった人もいる。苦しみを味わうくらいなら、その前に死んでしまった方がよかったような人生がときどきある。でも僕は夜詩くんがそうじゃないと信じたい。

 だって僕は夜詩くんが好きなのだ。生きることを諦めてほしくない。

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