【09】1

 大切な言葉が心に響かないときだってある。


【09】


 キスなんて友達ともするよ。

 夜詩くんにそんな嘘の情報を与えたことによって、僕の負担は軽減される。わりとまともな時でもさせてくれるようになった。とはいえ、好き好きしたい、って気持ちは微塵もなく、どちらかといえば、ベタベタ触るんだったらじゃあキスぐらいしてよ、が正しい。本当は夜詩くんに交換条件を持ち出すのは禁止なので、あくまでも僕がしたくなった、という甘えで通す。夜詩くんは僕を甘やかす。たしなめることが少ないのは、きっと僕をどうでもいいと思っているからに違いない。

 交換条件や制約のあることを夜詩くんは嫌う。というか、異常に怯える。

「夜詩くん、病院行こうよ」

 ある日、夜詩くんの家に行くと、血を流して倒れていた。ちょくちょくあることなので、今日は良くない日なんだなとわかる。ベッドに丸まった夜詩くんの手首にタオルをあてた。動かないが泣いているので死んではいない。僕はタオルをおさえながら夜詩くんのそばでじっと待った。

 焦りを感じたのは、それから10分か15分ぐらい経ってからだ。血が止まらない。切り傷はとにかく真っ赤で、患部にあてた布地は既に吸水量を超えて、赤の面積をじわじわ広げていく。僕は夜詩くんに呼びかけるけど、彼は怯えるばかりで僕のことを認識してくれない。

 ごめんなさいごめんなさいと幾度も叫び、そのあとは声にならない声をあげてもがき暴れ苦しみ、また死んだように動かなくなる夜詩くんの精神はきっと過去にいて、現在の僕は母親に電話をかける。出ない。メッセージだけを打ち、それから夜詩くんの財布を探しに行く。電話番号を調べるだけなら、キッチンに行って薬の袋を見た方が早かったなとコール中に思う。いや、でも、個人番号伝えた方が迅速に対応してくれるはず。

 かかりつけの病院は、すぐ電話に出てくれた。

 こういうとき、僕は少し臆病になる。質問に対して返答しながら、こっちは高校生なんだから勘弁してくれよと思う。普段は一人前の扱いをされないと不満を言うくせに、僕は慣れないことにはめっぽう弱い。こんなんビビって当然だろ。よくあることじゃないよ。仕方ないじゃん。いっそ開き直ってみる。

 電話を切って、深呼吸を繰り返す。計算。それから、夜詩くんの寝室に戻った。床にあぐらをかいて座る。

「夜詩くん、病院行こ? 車来てくれるから。ね?」

 布団をひっかぶって、僕にすら怯える夜詩くんにゆっくりとした口調で話しかける。嫌だ、と返事がきた。よっしゃ、会話可能。

「嫌だ? 行きたくない?」

「……………………………やだ………」

「そっかあ。夜詩くんは嫌なんだね。じゃあ、どうしよっか。血ぃ止まんないんだよね。えーと、……」

 考えろ。どうする? どうしたい? 丸投げで答えを求めると夜詩くんは混乱してしまう。否定の言葉は使わない。イエスと答える質問を続ける。

「……他に切ったとこある? 他は大丈夫?」

「…………………………………………うん」

「そっか。よかった。腕、痛くない? 痛そうだけどなあ」

「……………………………」

 返事はない。しばらく僕は待つ。

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………夜詩くん。あのね、」

 痛いなら病院で治してもらおう、まで誘導するつもりが、夜詩くんがまた混乱を極めたので駄目になる。良くない、全然良くないと小さな声で夜詩くんは泣く。あー、そこに引っかかったか。ミスった。そりゃ良い状態ではないもんね。今つらいんだもんね。

 良くない。全然良くない。もう駄目だ、全部駄目だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だ。死にたい。

 死にたい。

 死にたい。

「夜詩くん」

 呼び掛けても反応はなく、夜詩くんはびいびい泣くので僕は天井を見上げる。目をつぶって深呼吸。ここで僕が冷静さを欠いたり、心を痛めるようなことがあれば、それは母の危惧している悪影響であり、僕にとっても夜詩くんにとっても救いにはならない。カサンドラ症候群にも共依存にもなりたくない僕は、努めて距離を置こうと試みる。全然関係ないこと考えよう。学校。友達。宿題。そろそろ夏休み。遊びに行く約束。ひまわり。海。夏の音楽。夏祭り。流行りの服装。

 …………………………………………さて。

 無理矢理布団をひっぺがしてしまいたくなるが、それはやめて僕は夜詩くんに近づく。布団を軽く叩いた。見えないところからの刺激に、恐怖で暴れるかと思ったが、反応はなかった。

「夜詩くん。顔見せて?」

 そうっと布団をはがす。放心状態。虚脱。乖離。

「夜詩くん」

 何度も何度も呼び掛けて、ようやく彼はこちらを見る。でも多分、ちゃんと認識してないはずだ。

「夜詩くん、僕のこと好き?」

「好き」

 機械的に返ってくる反応。

「甘いもの、好き?」

「………………好き」

「恐竜は? 好き?」

「好き」

 試しにタラバガニは? と聞いたら、ちゃんと嫌いと返ってきた。夜詩くんは脚の多い生き物が苦手だ。

「病院行って、終わったらさ、なんか夜詩くんの好きなことしようよ」

「…………………病院」

「うん。何がいいかな。あ、ミスドでまた新作出てるよ、夜詩くん」

「………………甘いの」

「うん。甘いのあるよ。あ、そうだ。面白い映画一緒に観ようよ。夜詩くん映画好きでしょ?」

「……………………………好き」

「宇宙のがいい?」

「……………………………………………映画」

「うん。映画観たい? じゃあ一緒に観ようね」

「……………………………要らない」

 面白い漫画。夜詩くんの好きな作家の本。夜詩くんは要らないと答える。僕も夏休みになるからさ、いっぱい遊ぼうよ。甘いもの食べようよ。映画も観ようよ。夜詩くんの好きなものを並べても、要らない要らないと否定される。交換条件を出してしまったことに、今更気付いても遅かった。

 もう何も期待しないから、もう何も望まないから、欲しがらないから、甘えないから、油断しないから、幸福なんて一欠片もなくていいから、死にたい。

 夜詩くんは泣いている。そして呟く。

 おうちかえりたい。

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