【08】2

 それから数時間後。

 散々泣いてよがって疲れはてた夜詩くんは小難しい悩みなんてすっかり忘れて、いつもの鬱状態に戻っている。めでたしめでたし。

 さすがに帰らなければいけないので「またね」の約束をする。ガラスの靴を丁寧に置いて帰る気持ち。後日自分で取りに来るシンデレラ。あらかじめ決めておく幸福。

 未成年。

 母の心配は、僕が関わることによって精神病患者の症状が悪化することと、精神病患者と関わることによって僕の人生が誤った方向に進んでしまうことなので、そのどちらも可能性が低ければ特にとやかく言うつもりはないらしい。

「何をどうしようがあなたの人生だけど、あなたの知能も分別も発達途上であることは常に自覚なさい」

 母は僕を愛しているので本当は弟と僕を会わせたくはないのだが、しかし同様の理由によって僕を不当に制御はしない。

「サチとヨシって誰が名前決めたの」

 夕食後に僕は尋ねる。

「おじいちゃんとおばあちゃんよ。なんで?」

「二人で?」

「そう聞いたけど」

「ふうん」

「なんで?」

「別に。自分の名前、嫌いになったことない?」

 ないと母は即答する。ふうん。僕は胡椒の瓶をごろごろいじる。大昔のどこかの国では金塊よりも貴しとされていたスパイスは、今こうしてスーパーで安売りされており、買えない日はない。あ、社会史のプリントやんなきゃ。

「なんで? 嫌なの? 雪ちゃん」

「その呼び方やめて」

 母のいいところは他人をお前とかあんたとか言わないところだが、反面、何度怒ってもせがんでも頼んでも諌めても、僕の名を口にするときは雪ちゃんと呼び続ける。

「………………………僕の名前はどうやって決めたの」

 母の唇はジップロックみたいにきゅっと閉じて、顔は全体的にスマイルを作る。そして、ラジオのスイッチを即座につけ、雑誌を開く。知らない邦楽と主婦の雑誌に、僕は負けて食器を洗いに取りかかる。母は父の呼び名を持たない。少なくとも、僕の前では。











「多能くん」

 昼休み。友達と有意義に残りの時間を浪費していたら、女子が僕を呼んだ。クラスの出入口のところで、おいでおいでをしている。吉田さん。内藤のカノジョ。陸上部。なんだろう。だいたい呼ばれるのは頭脳系か借り物系なので、今日何持ってたっけと考えながら向かう。

 知らない女子達が待っていたので、内心身構える。女子の集団は怖い。なんかやらかしたっけ。ええと。

 先輩、と呼ばれて、後輩と知る。いや、知らん。どこかでお会いしたことありましたっけ。

 集団のうちの一人が、物凄く緊張した声で喋りつつ僕に手紙を差しだし、脱兎のごとく去っていく。姿が見えなくなっても廊下に響く、はしゃぎ声と笑い声。

「……………えっ」

 吉田さんを見るけど、彼女はもう役目を果たし終わっていて、気だるげにガムを噛みながら、スマホをいじっている。

「よかったね」

「……………………」

 よかったね、ということはつまり、この手紙はそういうことであり、僕はここで何にもわからないふりをするほど馬鹿でも臆病でもないのだ。

「可愛いっしょ。あれうちの後輩だから」

「あ、はい」

 それで。

 と母なら言うだろうが勿論女子高生にそれは通用しないので、僕は大人しく引き下がる。後輩だからなんなのだ。優遇しろということか。何一つ傷をつけるなということか。少女の心は秋の空より暗雲期の叔父より扱いにくいことを僕は感覚で知っている。

 このままもとの野郎集団へ戻っても、からかわれるだけなので教室を出る。二、三歩進んだところで、廊下に山内さんがいたことに気付いた。ばっちり目があった。他クラスの女子と話していたようだ。吹奏楽部の同じパートの子。もともと彼女は僕を見ていたらしい。

 胃が痛い。見られたくないとこばかり見られている気がする。あーあ。

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