【08】
必死に楽しいことを見つけなくたって、人は生きていけるのに、ただ生息しているだけでは、物足りないのが人間だ。
【08】
「死んでしまいたい」
夜詩くんはベッドに丸まって泣いている。リストカットは少女がするものだと思っていたけど、こんな死からはほど遠い自傷行為を、少女とは真逆の成人男性がするんだなと、ただ痛いだけのエラーを繰り返す生き物もいるんだなと、僕は夜詩くんに学ぶ。あんまり可哀想じゃない。僕が学校帰りに寄ることをわかっていて切ったのなら尚更、憐れより苛立ちのほうが勝るけど、たぶん夜詩くんはなにも考えないで衝動的にはさみを握ったのだろう。夜詩くんはわりと突発的に自傷行為をする。
「夜詩くん」
「うん」
「それじゃ死ねないと思う」
「死にたくないもん」
「もん」
「うん。…………ねえ、もうちょっと気遣ってよ」
「やだ」
細かい無数の傷がついた腕に、新しく赤い線が滲んでいて、もうとっくのとうに塞がりつつある。人体の神秘。生命力。リンパ。赤血球と白血球。
僕は夜詩くんに尋ねる。
「疑似の自殺行為によって生まれる反動から生きる気力を得るのであれば、バンジージャンプなどしてみてはいかがか」
夜詩くんは答える。
「怖いからやだ」
今回、夜詩くんの機嫌は、僕がコンビニで買ってきたチーズスフレによって癒され、甘いものは神という結論に至る。また、チーズスフレの咀嚼音は、サクサクの発音でシマシマ、ということも決定される。シマシマ。しみしみ、でもありだなと僕は思うけど言わない。どうでもいいので。
「昔、頑張った日にはハーゲンダッツを食べようという試みをしていた」
夜詩くんは喋るとき、他人の目を見ない。
「それで、どうなったの」
「よく考えたら毎日頑張っていた」
「毎日食べたの?」
「食べなかった」
「頑張ったのに」
「頑張ったのに。そして、ハーゲンダッツは特別なアイスだという幻想が消え去った」
「それは悲しい」
「悲しかった。毎日ハーゲンダッツを買えるほど稼ぐと人間は悲しくなる」
「うーん。それは」
「うなぎも」
「うなぎ」
「頑張ったら」
「頑張ったらうなぎは結構よくない?」
「そもそも外食する文化が僕の日常になかった」
「あー。それは。夜詩くん、それは」
「お外に出たくない」
「うーん」
薬を飲んでまたベッドに横たわる夜詩くんを、眺める。頭を撫でてみる。嫌がられた。怖いのかもしれない。とにかく外出が嫌いで、対人恐怖の夜詩くんはめったに床屋には行かないので、ほうっておくと肩ぐらいまで髪を伸ばしている。夜詩くんは物理的にも精神的にも人に近づかれるのが嫌いだ。基本的には。
僕だけが特別。
「夜詩くん、また泣いてるの」
「うん」
「つらい?」
「つらい」
夜詩くんと僕は、言わなくてもいいことをお互い言うけれど、言わない方がいいことはお互い言わなくて、踏み込んだ会話をしないから、誰とも話せなかったことを展開したりする。その独特の間合いが心地よくて、僕は夜詩くんが好きだし、夜詩くんとの関係性も好きだ。
だっこ、と夜詩くんがねだるとき、だっこされるのは夜詩くんではなくて僕だ。子供じゃないから勘弁、などと冷たいことは言わずに、多少のむず痒さと居心地の悪さを殺して僕は承諾する。夜詩くんは、よく僕をこうやって抱きしめる。包み込むように。覆い被さるように。何かから、僕を隠すように。
たぶん、夜詩くんは、子供のとき、こうやって誰かに守ってもらいたかったんだろう。こうやって誰かに、愛されたかったんだろう。
それを思うとなんだか僕もつらくなって、物理的に胸のあたりが痛くなる。精神と肉体は連動している。
接続してほしくないのに。
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