【05】
誰だって、期待してしまうことはやめられない。
【05】
人は誰しも自分が正しいと思い込んでいて、自分の自由意思によって生きていると考えている。実際は環境に大きく左右されることも、環境によって選択肢が狭められていることも気付かない。思考は言語によって作られる。ハンマーしか持たなかったら、何もかもが釘に見える。肩こりという単語のない人達に、肩こりの概念はない。等と言われるように思考には必ず偏りがある。
テストが終わったから遊ぼう。友達の誘いを断って、僕は夜詩くんのもとへ向かう。天気のいい土曜日。夜詩くんだったらテストが終わったことと、遊ぶことに接続はないとか言い出しそうだ。学校の勉強じゃなくて勉強をしたい僕は、夜詩くんの部屋のインターホンを鳴らす。
「抱っこ」
「いきなりですか」
挨拶もなしに開口一番求められて、靴を脱ぎながらちょっと待てと夜詩くんに告げる。手洗いうがいをすませ、それから、ソファの上で僕は夜詩くんの望みを叶える。
テスト期間だったので、しばらく会わなかった。
「夜詩くん」
「………うん」
人に甘えるより強がりたい年頃の僕は、我慢してじっと耐える。僕の気分とは真逆に、夜詩くんは充足の吐息を漏らす。普段の僕と、叔父の求める僕とは、微妙に違うのだ。僕はぬくもりを感じながら、徐々に叔父の求める僕に変色していく。それは精密な計算を要とするふりをして、呼吸数回で変更可能ではあり、苦痛は特にない。夕暮れの海。空の色の移り変わり。むしろ夜詩くんにしか見せない僕というものがおそらくあり、そいつは解放されて、小さく嬉しがっている。
「ねえ、形而上学教えて?」
「…………また面倒なものを。……どこで教わるの、そういうの」
「その辺で。本読んでみたけど全っ然分かんない」
「……昔の解釈しか知らないよ」
「いいよ。それで」
ずっと抱っこされながら、僕は夜詩くんの講義を聴く。分からないところは質問する。記憶に留めておきたいところは復唱する。僕を勉強好きにさせたのは夜詩くんだ。同じ言葉で同じ学問を脳に納める。夜詩くんが分からないところは僕にもそのまま空白として形が残る。僕は勉強が好きだし、僕は夜詩くんが好きだ。
記憶の口移し。
別に僕じゃなくても、大きめのぬいぐるみや布団や抱き枕やクッションなどがここにはあり、夜詩くんはとにかく何かを腕に抱くのが好きらしい。好きなぬいぐるみにはキスをする。幼い子がそうするのと同じ。或いは、犬猫に構うデレデレの大人と同じように。
髪にキスされて、夜詩くんの方を見たら唇にもされた。
「………ごめん」
慌てて離れようとする大人を僕は捕まえる。傷だらけの手首。
「なんで」
「ごめん、ごめんなさい、」
「謝ってほしくない」
泣き出す夜詩くんを慰める。なんでだよ、今いい雰囲気だったのに。
僕を勝手に被害者にしないでほしい。
夜詩くんの頭を撫でて僕は言う。
「好きだよ、夜詩くん」
これじゃ弱いな。
「………………」
でも何も思いつかなくて、僕から唇を重ねた。
「……………こんなん、ふざけて友達とだってするよ」
普通ならすぐバレる嘘だが、夜詩くんは普通じゃないので意図も簡単に信じる。なんなら嘆く。さっきまで泣いていたのはどこへやら、口をへの字に曲げてみせる。
「今日日の若者は」
「おじさんみたいなこと言うなよ」
「…………………………」
叔父です、とその困った眉毛は語る。そういえばそうだった。三十路。単語だけ聞くと、既に大人として出来上がっているかのように思える年齢は、目の前にすると案外僕に近しい。夜詩くんだから余計にそう感じる。
「……………………………」
「……………………………」
足りなくて、唇を重ねた。思考を放棄してしまいたいけど、頭の中に流れる感情を止めることは出来ないし、それらは即座に言語へと変換される。特定の単語を当て嵌められないものは、感嘆詞へ。羅列する嗚呼。
幸せ。
僕は夜詩くんが好きで、守りたくて、かまってほしくて、そばにいたい。この好きを他の単語に変換することは不可能だ。友情のようで友情だけではなく、家族愛に似ているがやっぱり何かが違う気もするし、恋愛というにはだいぶ色々何かが足りない。少なくとも、今の僕の語彙力においては説明が難しい。いつか大人になったら、分かるんだろうか。でも僕は既に、立派に見える大人でも、案外幼稚だったり未熟だったりする部分のあることを知っている。出来ればこの感情は未解明のままでいてほしい。山内さんへの感情は、いつか初恋として誰かに話せるものになるだろうが、夜詩くんとの関係はこのまま不変で恒久に続いてほしいのだ。
祈りがある時点で思考に偏りがあることは明白であり、僕は見たくないものは見ないし、分かりたくないことは疑問にすら思わず削除可能だ。
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