【02】
僕たちは一番大事な話を絶対にしない。
【02】
スーパーに買い物へ行ったところ、母親に手を引かれていた幼稚園生ぐらいの女の子と目が合い、挨拶され、なので挨拶を返し、そのあとは順調に買い物を済ませ、自宅に戻ってから、カーテンを閉め、パニックを起こして静かに阿鼻叫喚な夜詩くんを僕は先程から眺めている。元天才に因数定理の宿題を手伝ってもらうつもりだったけど、今日は駄目みたいだ。
夜詩くんは泣きつかれてはまた泣き、顔を髪をかきむしり、身体中を切り刻み、冷水を浴び、首を吊ろうとしたところに僕がやって来たので、今は寝室に閉じこもり、ぺニスをしごいている。地獄絵図。カーテンレールじゃ首は吊れないよ、と嘘を言ったら彼は簡単に諦めてくれた。実際はどうだか知らない。でも人間の重みで簡単にひしゃげてしまうんじゃないかな。どんな重厚なカーテンだって、50㎏は超えないし。
ベッドに引きこもった彼に、何故こうなったかの話を聞いて、しばらくは落ち着かないだろうと判断した僕は、今こうして部屋の出入口に寄りかかって彼を眺めているわけだ。
さて。
何を始めるにしても、まずは掃除からだ。新年を迎える前に。試験勉強を始める前に。そして、叔父を現実世界に引き戻す前にも。掃除は万能だ。僕は一番に自分の身体中の息を吐き出す。そして吸い込む。捨てなければ新しいものはやってこない。
微かに血の混じる濡れた床を拭いて、リビングのカーテンを開け、刃物類はとりあえず隠す。風呂の血痕を洗い流しているとき、映画で観た殺人鬼を思い出した。人間を解体するのに一番便利な場所は、風呂場らしい。どれだけ凄惨なことをしても、簡単に洗い流せるので、証拠隠滅が容易いとのお話。このご家庭にもあるし、是非お試しを。まあ映画じゃルミノール反応でバレてたけど。
ファブリーズをふりまいて掃除を終えたら、僕はリビングで宿題に取りかかる。教科書とノートを開く。紙の匂い。この姿勢。脳は記憶を引っ張りだし、日中のことが頭に浮かぶ。数学のあとは音楽の授業だった。音楽の授業中に、山内さんとちょっと喋った。ほんとに、ちょっとの間だったけど。
山内さんはめちゃくちゃ可愛い。化粧とかしなくても可愛い。いや、してんのかな。どうなんだろ。スカートは長い。おでこを出して、髪は左右に二つ結び。ダサい。でもそこがいい。ジャンルでいうなら蒼井優。音楽でいうなら手嶌葵。文学的には樋口一葉。いや、それは言い過ぎ。笑ったあとに唇をちょっと噛む。吹奏楽部。フルート。歴史が得意。よくつるんでる友達はひとり太ってて、もう一人はおばさんみたい。つまり地味。ギーク。肌が白い。わりかし女子に人気な僕を、彼女はちょっと苦手みたいだ。僕は好きなのに。目の前にするとあんまり喋れなくて、バカみたいなことしか言えないからますます嫌われてく。まるで僕が彼女をからかってるみたい。今日もそんな感じだった。でも彼女は優しいので、たいてい笑って誤魔化す。べつに面白くて笑ってるわけじゃないから、そのあとで唇を噛む。悲しい。いつかちゃんと笑わせたい。僕はますます気にしてしまう。
青春や初恋を、綺麗なものとして大人は描きがちだけど、青春なんて長年放置された輪ゴムと同列だ。苦くて、べつに美味しくともなんともない春の山菜と同列だ。みんな、そこらへんは見ないふりしてる。それとも忘れちゃうのかな。簡単に優劣をつけられては区別される立場も、制服の窮屈さや、教室のだるい雰囲気も。
僕は出来るとこまで宿題をすすめて、ふと静けさに気付く。そういえば物音がしない。叔父の寝室へ向かう。寝たのかな。死んでたらどうしよう。
「夜詩くん」
ぐっちゃぐちゃの布団から脚がはみ出していて、そういえば夜詩くん、爪はちゃんと切るんだよなあ、とか思う。あ、髭も剃ってるか。じゃあ髪も切れよ。
夜詩くんはまだグズグズ泣いていて、ぎゅっと目を閉じていた。めくった布団のあちこちに、微かに血がついている。洗剤ぶっかければ落ちるかな。強迫観念による自慰行為はたんなる自傷行為で、普段から自分の首を絞めたりリストをカットしてるほうが、夜詩くんにとっては自らを慰める簡易な方法だ。
僕はちょっと考えてから、制服のまま布団に潜り込む。猫の引っ掻き傷程度でしか夜詩くんは自分を切らないから、血はとうに止まっているだろう。制服につくのは困る。母にバレたら大変だ。
暴れる夜詩くんを押さえつけて、彼の代わりにちゃんとした刺激をその身体に与える。僕はもう高校生なので、山田詠美だって読む。ぺニスを針で刺してもらいたい男の話。なんだか、あれみたいだな。でも相似ではあるけど等しくはない。いや、よく考えたら全然違うのかも。なんか、そんな気がしてきた。あれはいい話だったし。
大人しくなった夜詩くんの肩を噛む。冷たい。水なんかひっかぶるから、どこもかしこも冷たくて、身体の一部だけが熱い。
僕もおとなになったらこんな身体になるんだろうか。人体の神秘。……別に神秘じゃないか。ズボンを脱ぐ音を夜詩くんは嫌がる。怯えているのは見てわかる。でも校則でベルトの着用は義務づけられているし、ズボンにファスナーは付き物だ。
何をされるのかわかっているし、逃げられないことは散々承知のはずだけど、夜詩くんの手はもがいてシーツを掴む。無言の時間。冷たい脚。カーテンのむこうで日が暮れる。自然と目は暗がりに慣れていく。
学校のネクタイで人の手首を縛りつけることは現実にある。クラスメイトの妄想や、漫画の中ではなく。制服を着たままセックスをするのはあんまり興奮しない。というか、汗をかいて熱いし、動くのにいちいち邪魔だし、どっちかっていうと不愉快だ。夜詩くんは相変わらず泣いてるけど、こういうときにしか出さない声で息を洩らすから、なんか腹立ってひどいことをしたくなる。しない。僕は夜詩くんには優しいのだ。
矛盾は同居する。
誇張なしで僕は見た目もいいし、勉強も出来るほうだし、よく人には好かれる。好きな女の子には喋りかけられない。母子家庭。帰宅部。友達は多い。真面目。大人しい。学校じゃイケてるほうのグループ。その自然発生的なスクールカーストがダサいこともわかっている。叔父をファックしてもなんとも思わない。
今の僕と普段のあらゆる僕とは接続しない。
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