23 今日は街の北の方で寝なよ

“まいったなぁ、、流石に今晩あの部屋に戻るの、無理だろうなぁ、”


 深まりつつある夜の中、溜息をつきながら青年は歩いていた。施設の屋根裏には戻りたくなかったし、チャンドの塒も既に解体整理されており、所用で家を数日開けているトルを頼ることもできず、独り、街の北区を歩いていた。


“流石に今晩はあの部屋に戻るわけにはいかないよなぁ。御礼は言わないといけないけど、流石に今晩は気まずい、、仕方ないな、安い宿を探すか、”


 今朝まで使用していた貴族専用の豪勢な部屋。快適なベッドマッドに清潔なシーツ。風呂、トイレ、食事つきの部屋。今までの人生で最も快適な部屋。だが、そこに戻ることができない青年は、雨風を凌げるだけの安い宿を探し歩いていた。幸いそれなりに金銭は所持しており、安く汚い宿なら一泊できる程度の金は懐にあった。


“あの罵倒、本当は部屋から僕を追い出すための策だったりして、”


 長期入院を断られた老人が抱くような疑念が幾つも浮かぶが、それを繰り返し打ち消し青年は道を進んでいった。


 街の北区画。治安が良いとは言えない区画。そこに日雇い労働者が雪風や寒さを凌ぐためだけの宿泊所が数件あることを思い出し、そこへ足を向ける。あまり一人で行かない方がよいと云われていたが、青年の持参金では仕方ないところであった。不自然なほどに、夜の街へは暖かい月光が降り注いでいた。ピコスと2人で街を歩いた日中にも感じたが、風は暖かく、このままその辺の路上で寝ても死なないのではと思えるほどだった。この街で初めて体験する、不思議な夜の灯り。


“こんなに暖かい風が吹く日があるんだ。それに、こんなに柔らかい月光は初めてだ、”


 普段の寒月とは異なる夜を見上げる青年。自分はこの街で2年を過ごしただけであり、世界の殆どを「知らない」ことを改めて感じる。先のキソーラの話にあったムポア病のこと、ピコスのような他の国のことなど、「知らないこと」の方が大多数であることを改めて痛感した。もっと世界のことを知らなくては、もっとこの世界の出来事を知らなくては、、そんな呟きを繰り返しながら、青年は宿屋を目指し歩いていった。




 不確かな記憶に頼っていたこともあり、多少の不安を抱いていた青年ではあったが、意外とあっさり宿屋を発見することができた。北区画は元々起伏が激しい台地であり、何本かある大通りの両隣は段々畑のような構造になっているのだが、目的としている宿屋はその段の上にあった。宿屋へと通じる、建物の間に設置された細い石階段。L字状になっており、一遍が20段ほどある階段。看板にある矢印を確認した青年は、その薄暗い階段を上っていく。早く寝床を確保したい気持ちから、一段飛ばしで、階段を上がっていく、、




 、、だが、「何か」が青年の足を止めた。


 階段の途中、建物の壁から「何か」が分離し、「何か」が階段の途中に現れた。


 上り始めた際には気づかなかったが、それは水に落ちた黒い絵具のように形を広げ、一つの輪郭を形成しいく。眼を凝らす青年。翳りの中に立つ奇妙な輪郭を見据える。立ち昇る黒煙のように立つそれは、ゆっくりとその身を揺らし、波のように動き始めた。犬笛のような、人の耳では感知できない高周波数が流れていく中、青年を上段から見下ろすよう、跫もなく階段を下りていく、、ゆっくりと、ゆっくりと、一段づつ、、あまり質感を感じさせないそれではあったが、一段ごとに実体が色濃くなり、輪郭が立体化されていく。


 やがて青年は、月明りを受け辺幅を認識できるようになると、それが老婆であることを知った。なんとも違和感のある老婆、、いや、違和感というよりも、そこにはある種の既視感があった。見覚えのある、いや、この世界では一度として見たことない老婆の「服装」がそこにはあった。青年が元いた世界でしか見たことのない「服装」、、


「お、、え、、」


 それはトレンチコートだった。この世界の外套の多くはケープやマントのような物が多かったが、襟元にあるチンウォーマーやショルダーストラップなどから、トレンチコートであることに間違いはなかった。月光を鈍く反射させるそれが、艶と滑りのあるPVC素材特有のものであることが、青年の鼓動を急速に高めていった。


「教え、、その、、」


 言葉と共に、先までは聞こえなかった靴音が響く。その音源となるロングブーツ。それが、この世界では見たことのない程のピンヒールであることに驚く。コート同様にPVC素材の反射をする靴。無論、この世界のどこかにピンヒールビーツやPVC素材のトレンチコートが存在していても不思議ではない。が、以前の世界では普通であっても、この世界では稀有な服装をした老婆であることに、青年は不気味な感覚を募らせていった。


「教えてくれ、、その、、を、」


 素材が擦れる音に眉を顰める。そんな青年に向け、一段、一段と迫る老婆。細い階段にヒールの音が落ちる度、階段の歪みが強くなる。熱で溶けたように石段の輪郭が失われていく。青年は必死な思いで喉を震わした。近寄る老婆に向け、何も教えられない、自分では役にたてないと。そして、その脇を足早にすり抜けようとする、が、、


「待って、」


 擦れ違う瞬間、それが青年の肩を鷲掴みにした。枯れ枝のような細い指。白癬と思われる長い爪が、変形した指が青年の肩に食い込む。鋭い痛みが胸までも貫く。その反対の手で、ぼさぼさの白髪を掻き毟る老婆。頭垢のような粉が舞う。派手に化粧を施した老婆の顔が露わになる。キュビズムで描かれたような顔が月明りに浮かぶ。その奇異な化粧が、白樺のような細い首が、歪に捩じれ、青年へと迫っていく。


「この街に、いる、カヌマ、、い、、カヌマブデュ、」


 皺だらけの口角が繰り返し動く。青年の理解できない言葉。理解してはいけないと感じさせる言葉。吐血するかのように言葉を吐き続ける。それが何かは分からないが、知ってはならない、この老婆の近くにはいてはならないと本能が叫ぶ。


 直感した青年は、力任せに老婆の爪を振り解いた。


「しっ、知らない!」


 叫ぶ、と同時に、青年は階段を駆け上がった。離れなければ危険だと、誰かが背で叫ぶ。焦り、一気に階段を駆け上がる。全力で、老婆を置き去りにし、10段以上の階段を駆け上り、踊り場の角を直角に曲がり、更に20段ほどの階段を駆け上がった。そして、息を切らし、最後の段を上り、肩を上下させながら後ろを振り返った青年は、、



 、、驚愕し、呼吸を忘れた。


 振り返り、階段を見下ろした青年の眼前に、老婆の両目があった。充血した眼が、下から、青年の顔を覗き込むような老婆の眼が、すぐそこにあった。


 声にならない悲鳴をあげ、腰を抜かす青年。その青年の顔を覗き込むトレンチコートを着た老婆。月夜が、奇異な世界を浮かびあがらせる。


「でもね、、お兄ちゃんから、、するんだよ、、臭いが、、懐かしい臭いが、」


 老婆は鼻腔を近づけた。嚙み切るかのような歯ぎしりをたてながら、青年の頸動脈近で臭いを嗅ぐ。


「懐かし、い、臭いだ、」

「しっしっ、知らないです。僕は、何も、、何も、」


 青年は叫んだ。何も知らないと。何度も繰り返し叫んだ。余りの出来事に、思わず会陰部から力が抜け、失禁しそうになるのを抑えながら。


 だが、意外と老婆はあっさりと青年から離れ、青年に背を向けた。ゆっくりと身を捩じり、トレンチコートの裾を揺らしながら、ポケットに手を入れたまま、階段を下り始めた。なら、、仕方ないねぇ、、と、そんな言葉のような残響を残し、階段を下りていく。


 そして去り際、青年を見ることなく、老婆は言葉を残した。いや、それは言葉ではなかったのかもしれないが、青年へ残したそれは



 今日は街の北の方で寝なよ、といった「何か」であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る