10 オーバー・ザ・レインボー②

目覚めると、そこは暖炉の傍だった。どうやらチャンドの借りている部屋に運ばれ、暖炉の傍に置かれた横長の椅子の上で横になっているようだった。


「大丈夫か?」

「えぇ、すみませんでした、」


 頭を押さえ上半身を起こす青年。周囲を見渡す。飾りのない、何度も補正された痕がアートになっている壁。でこぼこの板床。小さな木製の丸テーブル。その上に転がる数本の酒瓶と欠けた皿が数枚、古い文庫本サイズくらいの紙の束が見て取れる。生活感のない殺風景な部屋。そんな部屋の隅、形ばかりのダイニングからチャンドが暖かい飲み物を運んできた。まだ少し眩む眦を押さえながら汚れたコップを受け取った青年は、コーヒーのような苦い暖かさを口にした。


 先のような強い動悸、息切れはない。だが明確に残る記憶、あの処刑の記憶に青年は沈黙した。初めて見た、合法的に他人の命を奪う光景。『正義』という名の処刑。そのあまりにも凄惨な光景に、青年は何も話せずにいた。


 そんな青年の心を察してか、近くに座るチャンドも、眼窩に疲弊の影を溜めたまま沈黙する。長い沈黙。どんな言葉も、あの巨大なギロチンの刃に砕かれてしまうような雰囲気が二人を覆い続けた。



 やがて、チャンドがその雰囲気に終わりを告げた。青年に、あれが現実だったことを伝えるために。


「証言があったんだ。ゴゼグが殺したとの証言がな、」


 酒瓶を握り、喉を焼いたような声で、話していく、、


 ネモとは、青年の勤務する施設で生活していたが、10日ほど前に死亡した60代の男性であった。徘徊症状が強く、昼夜関係なく歩き続ける老人。暴力行為はないが、見当識の障害が強く、奇行も著しいことから、親族によりこの施設へと連れてこられた老人。足の血豆が潰れ、痛みから足を引きずってでも徘徊を続ける人物、、


”自分は見知らぬ森にいる、早く脱出しなくては、、早く家に帰らなければ、家族が待っている、、早々に研究結果を伝えないと、”


 そんな帰宅願望を常に口にしていたネモは、元は学者であり、それなりに地位と財産があったらしいが、今は妄言を口にするだけの老人であった。


 その老人が死亡した。10日前の明け方、冷たくなったネモの遺体が2階の廊下端、1階へと通じる階段側で発見された。


 青年が務める施設は難病罹患者を受け入れる福祉施設であることからして、入居者の突然死は然程珍しいことはなく、後に訪れた医師により心臓発作ではないかとの診断を受け、それで終わっていた出来事であった。


 、、でも、あれは、突然死だってことで、」

「あぁ、そうだ。うちの施設に入居している者はムポワ病罹患者だ。突然死する確率は、一般的なそれより高い。それに、遺体には不自然な外傷もなかった、、もっとも、年中ふらふらと歩き続けていたから、転倒による内出血が至る箇所にあったがな、」

「なら、どうして?」

「通報があったんだよ。ゴゼグが殺したって通報がな、」

「通報?」

「それだけじゃない。あいつの家から貴金属も数点発見されたんだ。この仕事の給料では買えないような、高価なものがな、」

「それって、」

「あぁ、ネモが所持していたものだ、」


 その言葉と共に、青年に想像の映像が流れる。


 深い眠りに入ったネモの上に跨り、誰かが濡れた布を顔に被せていく映像が、、多少の抵抗はあるだろうが、身体を布団で包めば然程の傷はできない。日常的に内出血があることから、よほどの大きな傷が遺体になければ怪しまれることはない。そして、この世界では、以前青年が暮らしていた国のように検死技術が発展しているわけでもない、、


 青年は、ゴゼグがそれを行っている光景を想像し、思わず身を縮めた。


「でも、信じられません、」

「俺も、信じてないさ、」

「だって、あんなに入居者に対して優しく接していた人が、、暴力行為のある人にも丁寧に、親切に対応していたゴゼグさんが、、信じられません、」

「俺も信じてはいないよ。だがそう判断されたから、処刑されたんだ。」


 この国にも「治法団(ちほうだん)」という警察のような組織があり、裁判所のような罪を裁く機関もある。封建的で独善的なものだが、そこでの判断は簡単には覆せない。特に今回のように証言と証拠が揃ってしまうと難しい。チャンドは喉を酒で潤した後、トルもキソーラも無実を信じ色々奔走したんだが、と付け加えた。


「それでも信じられません。だって、そうじゃないですか!チャンドさんも知ってるじゃないですか!ゴゼグさんが、結婚する気だったのを、、


“結婚するんだ、来月、結婚してこの街を出て暮らすことにしたんだ。先日、彼女も僕の申し出を受け入れてくれてね、、元々、僕は農家の出身でね、実家は今も農園を営んでいるんだ、、相手?相手かい?はは、、恥ずかしいな。でも直ぐにばれるから教えるけど、実は、同じ施設で働く、、”


 、、以前、一緒に夜勤に入った時、話してくれたんです。『結婚するんだ』って、、まぁ、それって有名な死亡フラグで、相当使い古された手法だけど、」

「なんだ、その死亡フラグって?」

「すみません、僕のいた世界の話です」

「そうか、まぁ、それは置いといたとしても、殺した理由は、『結婚する』って決めたからじゃないかと云われている。」


 眼頭を押さえ、視線を閉じたままチャンドは続けた。結婚を控え、実家へ帰る旅費も必要で、転職後の当面の生活資金も必要であった。つまり、ゴゼグには金が必要だった。それ故に、殺害し、金品を盗んだ、、そう判事が判断したと。


「でも、、」

「それだけじゃない。言っただろ、この件の始まりは通報があったからだって。殺害現場を見たという通報だ、」

「通報って云っても、、え?、、それって、」


 青年は、漸く理解した。その意味を。通報した相手、、それは、その夜一緒に夜勤を務めていた同僚であると。


「そうだ、通報したのは、デュムマだ。」


 チャンドが、名前を告げ、酒瓶をテーブルに荒く置いた。それは、ゴゼグが結婚すると話していた女性の名であり、先に青年が意識を失う際、トルやチャンドの後ろに立っていた少女の名であった。




   ****




「今回、この様な結果となり誠に残念で、、


 キソーラの静謐な声が流されていく。感情を殺し、事務的に、台本でも読むかのように。自分自身が無機質にならなければ、壊れてしまいそうなのが分かる。


 だが、青年はその流れを感じることができなかった。音声は確認できるが、発言内容は、この施設が閉鎖されるかもしれないという事実は、上手く理解できずにいた。


 ゴゼグが処刑されてから1か月ほどの後、再び雪の降らない朝、介助にあたる数名を除いた職員や事務員、見たことのない役員などを含む30名ほどが施設長室に集められていた。その密な空間で、今までの経緯と今後の説明が施設長であるキソーラからなされていた。国からの助成金が今回の件で大きく減らされること、食料や衣服など様々な寄付をしてくれていた街の住民との信頼関係も壊れてしまったこと、また、モネの遺族から多額の損害賠償請求があったことなどの話をした後、、


 結果として、施設の運営継続が難しいことをキソーラは説明をした。


 、、ですので、今後どうなるか私にも分かりません。国の決定をもって皆様にも報告をしますが見通しは暗く、、」


 やはり、青年はそれを上手く飲み込むことができずにいた。いや、理解はしているが、認めたくなかった。あの森の中、全裸で立っていた時ですらもっと冷静に状況を把握することができた青年だが、今後、仕事がなくなる、自分の生活の基盤が消滅するという状況を上手く把握することができなかった。


 その理由の一つに、目の前で生存する入居者たちの存在があった。普段と変わらぬ介助を受け、普段と変わらない生活を送るムポア病罹患者たち。今現在も普段と変わらぬ介助をする職員。何も変わらぬ日常。あの日以降も仕事には何等変化はなく、施設内にはこの日常が終わるという危機感はどこにも滲んでいなかった。


 だが、、




「閉鎖、決まったよ、」


 はっきりと、青年が迷わないようにトルが告げた。干し肉を咀嚼し、スピリッツ系と思われる酒を呑みながら、来月には施設が閉鎖されることを告げた。


 そこは、音楽の生演奏がある店。ジャズクラブのようなお洒落な感はなく、観光地らしい明さない店。タバコの煙がランプの灯りを弛ませ、薄暗い酒の夢が男たちを虜にしていく店。バンジョーやマンドリンのような楽器が複雑に絡み、労働者階級の味が染みた音楽の流れていく。ホンキートンクな乾いた汗の臭いが、酒の呑めない青年に絡まっていく。


「やっぱり、そうなるんですね、」

「まぁ、仕方ないさ。全てに終わりがあるのはこの世の定めだ、」

「定め、ですか、」


 煙の奥、酔った客が燥ぐ声がする。店員の女性に向けた卑猥な言葉が飛び交う。殴られ外に放りだされる酩酊者。トイレの前に立つ違法薬物を売る男の影。カウンターの奥で客を待つ娼婦たちが青年を威嚇する。お前のようなガキが来る店じゃない、と。その視線に怯える青年は、不安からトルに尋ねた。今後、自分はどうするべきか、と。


 だが、、


「知らん。今回は自分で決めろ、」


 淡泊な答えが低く戻ってくる。頬杖をつき、グラスで揺れる酒の波を見据え続けるトルは「お前自身の問題だ」と突き放す。女性問題にはあれほど心配してくれたのに冷たいじゃないですかと不満を口にしようとするも、青年はそのまま口を噤んだ。トルの言葉の正当性に何も言えずに。


「2年前とは違うんだ。今回は、お前が決めるべき問題だ、」



 2年前。その言葉と共に蘇る記憶、、青年が施設で働くことになった記憶、、



(遡ること2年前)


 あの不可思議な森を一人で彷徨い続け、ふらふらになりながらもなんとか抜けたその先、辿り着いた人が暮らす街。その灯りに救いを求め、朦朧する中、街へと転がり込んだ青年。だが必死な思いで辿りついた「よそ者」を、裸に外套を着ただけの不審で不潔な「不審者」を、街の誰もが乞食や犯罪者の類と見做し、見えていないふりをした。誰もが助けを求める手を振り払った。自分には関係ない存在だと、、


 失望と空腹の中、体力も気力も尽き果て、助けを求める声も失い、路地裏で蹲り、死の淵に差し掛かっていた青年。異物として排除されそうになっていた青年。


 そんな青年がこの街で就職でき、今も生き続けていられる理由、、その背景には、当時、施設が深刻な職員不足に陥っていたことにあった。キソーラにより職場の雰囲気や賃金も改善され、福祉としての理念、透明性なども向上した施設ではあったが、「ムポア病」という難病患者の介護は精神的にも肉体的にも相当な負担を強いられる仕事であり、人手不足の問題だけは解決が難しい状態であった。


 そして、その当時、離職者が続いたこともあり、施設職員全員が泊まり込みで介護をするという日々が強いられていた。青年は、そんな職員の一人によって施設へと連れてこられた。寝不足と重労働という難敵と戦い続け、肉体的にも精神的にもボロボロな状態になっていた職員。「もう誰でもよいからその辺で寝てる奴つれてきて職員にしろ!」と叫んでいた職員、、


 そう、青年はチャンドによって連れてこられた、、自分と同様、路地裏でふらふらと歩く、見窄らしい、汚い青年を裏路地で発見した彼は、そのまま施設へと連れて行くという暴挙に出た。そう、青年の同意も何もなく、殆ど「拉致」のような状態で、施設へと連れていかれたのであった。


 後のチャンドによれば、、


「いやぁ、あまり覚えてないな。あの時はもう3日も寝ないで介護してたからなぁ、、、え?いやいや、確かに、誰でも良いから強制的に施設につれてきて職員にしろって叫んでいたのは事実だが。いやぁ、、覚えてないんだよなぁ、」


 とのことであった。


 そんな、子供のような言い訳をするチャンドであったが、その無謀な暴挙が、犯罪のような行為が青年を救うことに繋がっていた。結果的にだが、、




(戻ること現在/酒場)


“あの時、、気づいたらチャンドさんに担がれていて、連れていかれた施設でご飯を食べて、風呂に入ってベッドで眠ったのは覚えている。でも、今振り返るとあれって拉致だよな、”


 苦笑いする青年だが、数日後、キソーラから告げられた条件を受け入れた時のことを続けて思い出していく。それは、路上で凍死しない代わりの強制的な提示であり、餓死しないための選択肢のない条件であったことを、、


”まぁ、お陰様で今日まで生きてこれたんだけど、、確かに、そこにはないよな、、僕の意志は存在していないよな。”


 施設で働いていていくことを決断したのは青年である。だが、そこに青年の意志は存在していなかった。他人から提示された幸運に縋っただけであり、自身の意志のない、選択肢のない就職。それが、今の青年の基盤となっていた。


 故に、トルが淡泊に「今回は、自分で決めろ」と告げたのも、青年のそんな背景を知っているからでもあった。


「海が異世界人で、あの状況で選択の余地がなかったことは、、まぁ、、同情するよ。だが、今回は自分で決めなければダメだ。土地は違うが、同じような施設は他にもある。そこを尋ねて同じ仕事をするのもありだ。違う職を求めるのも良いだろう。海の年齢なら幾らでも可能性はあるさ。でも、、


 今回は自分で決めろ、そうでなければ後悔する、とグラスの中身を呑み干した新しい酒を注文した。



 顔見知りなのだろう、トルは先から視線を投げかけてくる娼婦たちに軽く手を振った。すると、その手と同じように身をくねらせながら一人が近寄ってきた。男相手に暗い顔で呑んでないで一緒に楽しいことをしないか、と。それを穏やかに断るトル。普段、仕事では見せない作った笑みで、女性が傷つかないような言葉を選択しているのが分かる。やがて、会話から脈がないことを悟った娼婦は別のテーブルへと流れていった。こんなガキの方がよいのかよって、、との視線を残し。その視線を誤魔化すよう、青年は尋ねた。トルは今後どうするのか、と。


「俺か?そうだなぁ、この仕事にも飽きてきたからな、故郷の街で漁師でもやるかな、」

「え?トルさんって元は建設関係の仕事をしてたんですよね?」

「前職は、な。でもその前は漁師でな、今でも漁の仕事は身に染みついたままでね。漁の仕掛けかたや網の扱いも覚えているし、魚群をみつける術も、船の扱いも・・




 そんな魚の話の背後で、音楽の質が変わっていく。リズミカルで、ジャイブのようなテンポが渦巻く。スリーコードの陽気なリズムに合わせ、数人の女性がステージ近くで踊っている。明らかに商売目的であり、男を誘う踊り。無邪気さを装い、大袈裟な笑みで踊る、、その熱に唆され酔った男たちがくねる色香に群がる。食虫植物のような臭いにつられ喰われる男たち。それを横目に青年は表情を顰めた。どうして男はそこまでして女性を求めるのか、と。決して安くない金銭を払い、危険性の高い性行為をするのか、と。


「さぁな。海の元いた世界でも同様の商売はあったんだろ?」

「ありました。最も古い職業って説があったぐらいです、」

「なら、海も興味あるだろ?」

「はい、無茶苦茶あります、」

「試してみたいか?」

「いえ、そんなお金ないです、」

「金があったら買うのか?あの連中みたいに、」

「いえ、そんな度胸、ないです、」

「結局、接触する勇気がないってことか?」

「、、そうなります、」

「なら、あの連中は金もあり度胸もある勇ましき男ってことだな、」

「、、そう、、なります、ね、」


 消え入りそうな声で、小さく身を屈める青年の姿に対し、からかうような意地の悪い視線を送る。それは同時に、自慰は毎日するが金で娼婦を買う行為を理解できない青年への哀れみのようでもあった。お前は童貞だから分からない、、そんな意図を含んだ視線に落ち込む。が、青年はその視線に少し反撃を試みた。トルは娼婦にも人気みたいだからお金持ちの勇者なんですね、と。すると、、


「俺は一度として女性を金で抱いたことはねぇ、」と、速攻の答えが返ってきた。


「それだけは、俺の信念だからな。」

「信念、ですか?」

「そうだ。俺は漁師だったが、女性を釣る餌に金は使わねぇ、」


 魚と女性は別ではと呟く青年だが、女性を金で抱くぐらいなら一生童貞でよい、とトルは付け加えた。


「金で女性を抱くことに慣れちまうと、戦えなくなるんだよ、」

「戦う??」

「女性という異世界で戦えなくなるってことだよ、」

「すみません。意味わかんないです、」


 トル曰く、男性にとって女性は、最も身近にある異世界であり、最も身近にある未知の世界。そして、最も身近にある戦場であり、金にものを云わせて胡坐をかいていると直ぐに戦死する世界でもある。そこでは金の力に頼らず、己の力のみで必死に戦い続けることだけが、女性という最強の魔王を倒す方法だ、とのことであった。


「やっぱり、意味分かりません、」

「こう見えて、俺も毎日戦っているってことだよ、」


 自虐的に笑うトル。薄暗い店の中、浅黒い肌に黒い光沢が浮かぶ。チャンドほど整った顔ではないが、どこか人懐っこい印象を与える表情。そんなトルが特定の女性と付き合っていないことを常々不思議に思っていた青年だが、今、トルが言葉にした「毎日戦っている」という表現には、青年にそれなりの真実性を与えた。


 だが、同時に、それは深い不安を示した。トルですら「毎日戦う」必要があるのに、自分が女性と深い関係になることは可能なのだろうか?と。そんな不安が溢れた青年は、思い切ってそれを口にしてみた。


「あ、あの、」

「なんだ?」

「童貞って、どうやって捨てれば良いのですか?」


 一瞬、吹き出しそうな表情を見せるトルだが、真剣そうな青年の眼とその苦悩を察してか、暫し考え込みんだ後、そうだなぁ、と何かを探り出すような仕草をすると、


「オーバー・ザ・レインボー、だ。」と答えた。


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