4 マスクをしているとそうみえてしまうんだよ①

 青年がこの街に来てから、すでに2年が経過しようとしていた。


 街の背となる南の山脈伝いに落ちてくる雪風。骨まで染みる凍てつく風。鑢のように肌を削る雪。


 2階建て建造物の裏、石の水路。その流れを利用した洗い場で、防寒帽を被り作業する青年。ゴム製の割烹着のような上着。表面を、幾つもの水滴が走り落ちる。一旦手を止め、腰と首を伸ばすよう視線を上げる。下を向いたままの作業は思ったより身体に負担を強いていた。


 大きく息を吐く。布マスクから漏れ出る煙のような息が視界を曇らす。


 その奥では、分厚い雪氷で覆われた山脈が何時もと変わらぬ残酷さで青年を見下ろしていた。1年の内8か月は雪で覆われている山脈。人の立ち入りを禁じる自然の聖域でもあり、険しい崖で構成され他国からの侵入を防いでいる自然の城壁。毎年、雪崩や崩落により多くの死者が出ている嶮山。


 そんな山脈の麓にある豪雪地帯の街。厳しい雪風の中、青年は再び布の洗い物に取り組んだ。排泄物の染み込んだ布。細かい排便の残滓を落とすよう擦り洗う。飛び散る飛沫が露出する青年の眦あたりに付着するも、気にすることなく洗濯を続ける。


 マスクの下の頬と鼻先を赤く染めながらも、青年は洗い物を続けた。大量の布オムツを、洗い続ける。


 寒さが溜まった足先に痛を覚える。長時間の洗濯、腰の痛みと疲労で腕の動きも鈍る。それでも、青年の表情が曇ることはなかった。洗い物を温水で洗濯ができることは救いであった。また、ミトンのようなゴムのグローブがあることも嬉しかった。


「助かるなぁ、これが冷たい水で素手での洗濯だったら拷問だよな、」


 温水のありがたみを感じながら呟く。


 遠くの方で間欠泉から熱水が噴出される音が聞こえた。街に数か所あり、一日に数回、突然吹き上がる熱水の柱。水蒸気が抜ける独特の音が空気を湿らす。建物を取り囲む高さ2mほどの板壁。その奥、遠くではあるが、宙を舞う飛沫が冬の薄い光に乱反射し、鏤められた宝石のように輝いて見える。青年が暮らすこの街、温泉の出る街。穏やかな冬の街。


「海上、さぼってんじゃねぇ!早く洗濯終わらせろ!」


 建物から声が飛ぶ。食事をするぞ、と。その声に、布マスクを顎へ下げ鼻下をこすった青年は、明るい返事を返し洗濯の手を速める。排便と排尿の染みた、大量の布オムツの洗濯を終わらせるために。




 そこは、街の最南端にある建物。


 南区の住宅街からもかなり離れ、勾配のきつい坂道を登った場所にある建物。石材の土台に木材枠組と漆喰のような壁で作られた建物。レンガを積んだだけの片流れの屋根。装飾等はなく質素な外観を持ち、旅館のような大きさを持ちながらも賑やかさは一切なく、まるで、静寂が義務付けられているかのような建物。


 その裏、南側に聳え立つ壁。以前は採石場だったのだろうか、人工的に切り出した巨大な壁が南方を塞いでいた。石材を鋸で切り取ったような長方形の凹凸で埋まる壁。不自然な長方形が描かれた石壁には凋落のような翳りを含んでいたが、青年が利用していた温水はその岩壁の隙間から滲出するものであった。


 日の当たる北側には人工的に設けた庭園があり、様々な花弁が艶やかに彩る時期もあるが、今は殆どが雪で覆われており、モノクロの静寂に風が駆けるだけの場所となっていた。あまり日差しを計算していないのか、建物の1階は窓も少なく、日中でも薄暗い洞窟のようだった。事務室、調理場、浴室に倉庫、貴賓室などあるが、どこもあまり人気はなく、礼拝堂のような静寂が流れていた。それの静寂が当然であり、必要であるかのように。


 そんな建物の1階の端、最も日差しが当たらない部屋。建物の東端に位置し、梁や柱が露骨に剥き出しになっている部屋。麻布に入れた資材や食材が無造作に置かれている部屋。そこに設置された長い木製のテーブルと長い木製の椅子。足の長さがことなるテーブル。固い丸椅子が並ぶ。


 そこで、青年たちは食事を摂っていた。配給される硬いパンと山菜のスープ。山岳地でもあり保存性の高い燻製や干物が並ぶことが多いが、昆虫の幼虫などのタンパク質を得られる食材も多くあった。青年は、それらに満足していた。過剰な塩分、合成着色料や保存料のない食事に満足していた。それまで食べたことのない昆虫の触感へは初め拒否もあったが、2年を経てた今、青年に不満はなかった。なによりも、労働の後、同僚と共に食べる食事は本当に美味しかった。


 その「同僚」。何かの作業の途中なのだろうか、肌着の上にゴム製のオーバーオールのような服を着ている2人の同僚は、泥のついたブーツでテーブルの脚を蹴りながら大声で話していく、、


「いやぁ、まいったよ。●●の奴、今日は拒否が強くってね、」「昨日、△△のやつ、着替えさせてるときに股間蹴られたらしいぞ、」「●●は一晩中寝ないで叫んでたらしいしな、まったく困った、、」「俺なんか、今日、朝から●●何連発だよ。もう頭の中に●●の臭いがこびりついて、、」「そういえば★★の便、酸性臭が強いって、、


 などなど、青年は同僚の話を聞きながら、食事を続けた。


 この世界に来て以降、「食事を美味しくする調味料」が分かるようになっていた。引きこもった部屋の前に親が置いてくれていた食事より、ここでの食事の方が何倍も美味しく感じる調味料。それは、「会話」であった一人で咀嚼して嚥下をするのではなく、他人と一緒に食事をして様々な意見に触れること。味を共感すること。それこそが食事における最大の調味料であることを漸く理解できるようになっていた。そう、漸く、、


 ”もっと早く気づけていれば、親をあれ程までに苦しめなくて済んだのかも”


 青年は食事の度にそんな後悔を味わうも、それは否定した。あの時はまだ自分が14~16歳の子供であったと、自分を納得させ続けた。


 その一方で声がする。


「いやぁ、ねぇ。個人情報を大声で話すなって、何度も注意されてるのに、」「まったく、この仕事をなんだと思ってるのかしら、」「だから男はこの仕事をするべきじゃないのよ、」「そうよ、しかも食事中に排泄の話を、、これだから、、男は、、、


 隣のテーブルから軽蔑と不満の声が漏れ聞こえてくる。ヒジャブのように頭部を布で覆い、顔のみだけ見える女性たち。食事中のため鼻口は露出しているが、仕事中はそれも布マスクで覆われている。俯き、極力表情を見られないよう、修道女のような雰囲気で食事をとる女性たち。汚れた身なりの青年たちとは異なり、黒い開襟の長袖着とベージュのズボンが制服の彼女たち。その伏した眼が、青年たちが話す会話の内容に怪訝そうな視線を向ける。仕事で起こった出来事を大声で話すことへの不満を、ひそひそと、ねちねちと、、、


「別に、良いじゃねぇかよ。ここにいるのは全員職員なんだし、」

「そうそう。ここ以外でこんなこと話さねぇよ。そもそも、他人のウ●コ話なんて誰も聞きたがらないさ。」

「酒場で話したら特殊な性癖な奴だと誤解されちまうよ、」

「そうだな。完全に危険人物指定されるな、」


 と、笑う2人。チャンドとトルは陰口のようなそれに対しふざけたように反論する。歳が離れているためか、青年を冗談半分にからかうこともあるが、その分色々面倒をみてくれる仕事の先輩。無表情で、孤独に咀嚼するだけだった青年に、食事の本当の意味を教えてくれた、食事の美味さを教えてくれた良き存在でもあった。


「でもチャンドさん、個人情報の取り扱いは園長から注意を受けたばかりですよ、」


 と青年は気まずそうに小声で話す。が、


「良いんだよ、あんな婆さんのお事々なんてシカトしとけよ。それに、どんなに壁を作っても個人情報なんて洩れるもんだ。」


 と、元は傭兵だったというチャンドが口を尖らせた。幾つもの戦場を潜り抜けてきという刺青の入った太い腕を回し、肩を上下に動かし、太い首の筋肉をほぐすよう頭部を動かす。その度に、雑草のように後方へと伸びた金髪が撓る。ゲルマン系の彫の深い顔に無精ひげで描かれた顎のライン。ブルーアイの双眸には疲労とは異なる翳りが常に溜まっている。全身を覆う無数の傷痕が、傭兵としての様々な過去を物語っていた。年は40歳を超えたぐらいと思われるが、粗野で寂れたな外見に反し、穏やかな性格で根気よく青年に仕事を教えた先輩職員。そんな先輩は、この仕事において情報共有は最も重要だと説いた。


「そうだぞ、、ここでの話は重要なんだよ。俺たちは同じ場所で働く仲間で、情報共有は仕事上必要な行為だぞ。」


 と、もと土木作業員だったというトルが続く。チャンドのような刺青や目立つ傷痕はないが、浅黒い肌の隆起からは、相当の筋肉量を保持しているのが服の上からでも分かる。少し緑がかった大きな瞳。朱色の大きく野性的な唇。絡まりあったロープのような髪型。話の際に器用に動く長い指先も含め、彼の全てが柔和な印象を与える。年の頃は30歳前後といった感じだろうか、ラテン系の明るさが満ちた鼻梁が特徴的で、酒と女性を好む傾向がある楽天家でもあった。青年を“仲間”と呼んでくれる存在であり、この世界、この街のルールや規範、風俗的な面を教えてくれた兄貴的な存在でもあった。


「ここでの話は大切だ。あぁ、なんだっけ?海上、お前が言ってた、ほう、」

「ホウレンソウだろ、ホウレンソウ。報告、連絡、相談、」

「そう、それだよ、それ。この仕事では、排便の有無や日常生活で起きた変化の共有はとても大切だ。情報共有なしに戦うことは、敗戦を意味するからな、」

「お、さすが元軍人だね。ホウレンソウの大切さを実感してるね、」

「お前はもっと実感しろ。昨日、マズラが怒ってたぞ。記録が雑すぎるって。それに申し送りが仕事以外の話で長いって、」

「それは、俺とマズラちゃんとの特別なコミュニケーションってやつで、、




「へぇ~、特別なコミュニケーションって、興味深い話ね、」


 是非とも聞かせてほしいわね、と。知らぬ間に2人の後ろに立っている背の高い女性の影が、規律を正すような声色で会話に入ってくる。声の主に心当たりがあるのだろう、2人の表情が半笑いで固まる。


「あら、トル?少しアルコール臭いけど、昨日はまた深酒?」

「え、えぇ、まぁ、ちょっと悩み事があって、」

「そう、大変ねぇ~。悩み事ってつきないもんねぇ~。でも、仕事中に飲んでる訳じゃないわよね、」

「いやぁ、あは、はは、そんなことはないですよ、」

「でもそのポケットに入ってるスキットルは何かしら、」

「み、み、水です。水分補給は重要じゃないですか。ちょっと、スモーキーな味がしますが、」

「へぇ、スモーキーな水なんだ~私~そんな水~飲んだことないから~是非とも味わいたいわね。今、ここで、」

「や、やめた方が、良いですよ!ほ、ほら、美容に良くないから、施設長はお止めになった方が良いかと、」

「そう、じゃぁ今日は止めとくわね、、今日は、、それとは別件なんだけど、昨日、マズラが私の所に来て『弄ばれたって』って泣いてしまってねぇ、、そう、特別な関係なのね、あなたと彼女は、」

「いやいや、違います。違いますよ、キソーラさん。僕は彼女から、、そう、その件で相談を受けてまして、、えぇ、相談を。それで、ちょっと、」

「ちょっと?なに?」

「一緒に、お酒を、少し、嗜みまして、」

「相談相手と『特別な関係』になって『お酒を嗜む』必要は、ないでしょ?」

「、、はい、その通りです、」


 後でしっかりと話を聞かせてくださいね、と氷のような笑顔でトルの背に手を置くキソーラ。氷結魔法のようにトルを凍らせる女性。そして、その隙に現場から距離をおき、気配を消して逃げようとしていた一方を見逃すことなく、声だけで釘づけにする。


「チャンド!」

「はい!!」


 思わず、背筋を伸ばす。


「あなたさっき、私のこと、おばさんとか言ってたわよね?」

「い、いやぁ、聞き間違いだと、思いますが、」

「あらそう。聞き間違いかぁ、よかったわ。」


 本当によかったわ、と背後からチャンドの首に長い腕を絡め、蛇のような舌を出し入れし話をするキソーラ。その眼が爬虫類のように瞬きするのを青年は見逃さなかった。


「それはそうとねぇ、そろそろお給料日なんだけど今月も経営は厳しくってねぇ、火の車なのよね、、、もう、何か適当に理由をつけて誰かの給料を削ろうと思ってたんだけど、誰の給料を削れば良いかしら?」


 低く、囁くように話す。誰を削ろうかな、と繰り返す。


「い、いや、、それは、」

「そういえは、貴方、私に借金あるわよね?先日も、医学的知識を増やすために本を買うって理由で私からお金借りてるわよね?」

「はい、でも、それは、仕事の質向上のために、」

「ほほう~~質向上ねぇ、、でも昨日ね、違法なサイコロ賭博場に入っていく貴方を見たって通報が、私の所に届いているんだけど、ど~してなのかしら?」

「い、いやぁ、はははは、、嫌だなぁ、他人の空似ってやつですよ。世界には、自分に似た奴が3人はいるって話もあるし。他人ですよ他人、あはは、あはははは、」

「そうなんだ~でも今日ね、こんな書面が施設に届いたのよ、」


 掲げた紙には、チャンドと街の金貸し業者のサインが記されている。突きつけられた借用書らしき紙。じわりと、チャンドの顔から滲出すうる脂汗。それを月光のような笑顔で見据えるキソーラ。


 項垂れる男2人を見ながら、青年は知る。どれだけ屈強な男であっても、母親のような女性、妻のような女性には勝てないことを。


「まったく!あなたたち2人は規則をなんだと思ってるの!そもそも、この施設での勤続年数でいったら、2人は模範になるべき存在なのに!それを、、、


 などなど、叱責を続けるキソーラ。トルと同じぐらいの身長があり、青年よりは15㎝は大きな女性。チャンドの話では三十後半の年とのことだが、そうとは思えないほどの若々しい肌を保っている。規律や戒律を重んじるが、マスクで表情を隠すことはなく、意志の強い眦、端厳な鼻梁、鋭利な唇を晒し、どんな男とも対等に渡り合うことができる長身の女性。常時、修道女のような衣服を着ており自慢のブロンドヘアは常に隠されているが、施設の経理事務から総務事務まで手掛け、施設の代表を務める女性。身寄りのない青年を雇い入れた施設の長。


 そんなキソーラは、再度個人情報の漏洩につながる言動はしないよう一通り警告を与えると、表情を無機質に変え、今までとは異なる、事務的で、哀れみを与えるような声色で青年へ告げた。


「海上くん、あなたの給料は変わりませんから安心してね、」


 と。誰よりも低い給料が、これ以上低くなることはない。他職員の半分ほどの給料がそれ以上減ることはなく、同時に、増えることもない、と。そこまでは言葉にはしないキソーラであったが、青年は施設長の意味をそう理解した。


「、、はい、、ありがとう、、ございます、」


 視線を伏せ、小さく呟くように答えた。『怯える』ように、俯いたまま。“特殊”な氷結魔法で固まる青年。チャンドやトルとは異なる怯えを見せる青年。その様子に少し困ったような表情を見せるキソーラだが、チャンドのようにギャンブルと借金まみれな大人になるな、トルのように酒と女で身を崩す大人になるな、といった趣旨の言葉を残しその場を去っていった。


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